海部氏系図(勘注系図)

奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがありました。

この時、饒速日命の子孫で丹波国の豪族で、国造でもあった海部家の海部直止羅宿禰が『丹波国造本記』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存しました。
 止羅宿禰の三代あとの養老五年(721)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。これは『日本書紀』が編纂された翌年です。
第三十三世の海部直稻雄が、仁和年中(885~889年)に、それまでの《籠神社》の秘史をもとにして『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』なる詳しい説明つきの系図をつくりました。それが伝わっている『勘注系図』です。これには、『縦系図』で抜けていた大和朝廷確立期の海部氏の先祖(つまりは〈饒速日命〉の子孫)のことも記されています。このように、『勘注系図』は『縦系図』より詳しいですが、写本ですから、現存のものは、江戸時代初期のものと言われています。

徳川光圀が有名な『大日本史』の編纂を計画したとき、この『勘注系図』の存在を知って見たいと申し入れましたが、断ったとの話もあり、昭和51年まで公開されることはありませんでした

籠神社
彦火明命 亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。
天火明命は、籠名神社祝部海部直氏系図では、「彦火明命」になっています。その彦火明命が、饒速日命でもあると書いてあるのです

海部氏系図(勘注系図)
 初代  彦火明命 
 児   天香語山命(亦名手栗彦命)
 孫    天村雲命
 三世孫   天忍人命(亦名倭宿禰命)・
 四世孫  天登目命
 五世孫  建登米命
 六世孫  建田勢命
 七世孫  建諸潟命
 八世孫  市大稲日命
 九世孫  大那毘命 
 十世孫  小縫命
 十一世孫  天御蔭命
 十二世孫  建稲種命
 十三世孫  志理都彦命
 十四世孫  川上眞稚命
 十五世孫  丹波大矢田彦・建振熊宿禰
 十六世孫  丹波国造大倉岐命(亦の名大楯縫命)
 十七世孫  丹波国造明国彦命
 十八世孫  難波根子建振熊宿禰
十九世孫  丹波国造建振熊宿禰
二十世孫  丹波国造海部直都比
二十一世孫 丹波国造海部直縣

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「奈良時代の養老三年(719年)に丹後一の宮に定められた丹後第一の大社です。 籠神社の歴史は神代の時代までさかのぼり、伊勢神宮の元になったとされています。 伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので、籠神社は元伊勢ともよばれています。」
日本書紀の完成した720の一年前が、一宮となった年。
止羅宿禰の三代あとの養老五年(721)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。これは『日本書紀』が編纂された翌年です。
日本書紀に書かれていないことを記して残したようです。

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建稲種命(たけいなだねのみこと)

日本の古墳時代の人物。建稲種公(たけいなだねのきみ)とも称す。父は尾張国造乎止与命(オトヨ)、母は眞敷刀婢命(マシキトベ、尾張大印岐の女)で、宮簀媛は妹。妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命(オオアラタノミコト)の女)との間に二男四女。息子尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣。その下の娘志理都紀斗売は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母。

景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。

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品陀真若王 ほんだまわかのおう
「古事記」にみえる景行天皇の孫。
五百木之入日子命(いおきいりひこのみこと)の子。3人の娘を応神天皇の妃とし,次女の中日売(なかつひめの)命は大鷦鷯(おおさざきの)命(のちの仁徳天皇)を生んだ。応神天皇の和風諡号(しごう)である誉田別尊(ほむたわけのみこと)と類似した名で,王統をつなぐためこの話がつくられたとする見解もある。
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十四世孫川上眞稚命
住んだのは、現在の京丹後市久美浜町須良(すら)である。
『丹後舊事記』では「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主(たんばみちぬし)命は麻須良女(ますろめ)を娶る」とする。
崇神の時代四道将軍の一人として丹波に派遣されたのが丹波道主命である。
丹波道主は河上麻須の子、河上麻須郎女(かわかみますろめ)を娶る。その子供の一人が垂仁の妃に成る日葉須姫(ひばすひめ)命で、景行の母である。

『勘注系図』では川上眞稚を、碁理(ゆごり)の子とする。また八世孫日本得魂彦命のところで、日本得魂彦命の亦の名を川上眞若とするが、同一人物とするのは誤りであろう。共に由碁理の子で異母兄弟くらいであろう。

興味深いのは川上眞稚の妹として竹野媛とう名を記し、その人を大比昆(おおひこ)命妃とする。この大比昆命が『記紀』伝承に登場する四道将軍の一人、大彦命であればやはり崇神時代の人である。
また川上眞稚が 開化・崇神・垂仁の三朝に熊野郡に館を造ったとする『丹後舊事記』とも矛盾しない。
八世孫の頃でないと年代があわない

 『勘注系図』では川上眞稚を竹野郡将軍山、一云熊野郡甲山(くまのこうりかぶとやま)に葬ったとする。『勘注系図』ではこれ以降、系図に記される当主を葬った場所を記す。どこまで史実を反映するか疑問が残るが、上記の甲山(かぶとやま)とは久美浜湾のほとりにそびえる美しい兜の鉢をした兜山(かぶとやま)の事である。川上眞稚はこの山に葬られたとするのである。
この兜山の山頂に熊野神社が祭られる。この神社は日葉須姫が垂仁の妃に成った時、河上麻須(川上眞稚)が建立した神社とされる。

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『古事記』
印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)・・・中略・・・鳥取の河上の宮に坐て、横刀一千口を作るを令す。是を石上神宮に奉納。即ちその宮に坐して川上の部(とも)を定めるなり。

 そして『勘注系図』は古本系云うとして次のような伝承を記す。
一に云う。倭宿禰、またの名大熊野命、またの名大振熊、またの名川上眞若命、またの名倭得玉彦命(やまとえたまのみこと)、五十瓊敷入彦の御子、大足彦 (おおたらしひこ)天皇(十二代景行)の御宇、茅淳菟砥川上宮に坐して、宝剣を作るを令す。是を石上神宮に献じ、以って奉仕いたす。川上部の祖なり伝伝。
ここで登場する、川上眞若命は川上麻須で、久美浜湾の傍にそびえる甲山に熊野神社を祭った人物である。したがって大熊野、大振熊とも呼ばれたのであろう。その川上眞若(稚)が宝剣を作ったという伝承である。
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武振熊/建振熊(たけふるくま)、難波根子建振熊/難波根子建振熊命(なにわねこ-たけふるくま)は古墳時代の人物で、孝昭天皇の6世孫にあたる。神功皇后に仕えた将軍で、三韓征伐の後に忍熊王を破ったとされる。和珥氏の祖。

富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図によると、孝昭天皇の6世孫であり、曾祖父には彦国葺を持つ。祖父に大口納、父に大難波宿禰を持ち、子に米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰を持つ。ただし、大難波宿禰と難波根子建振熊の2代に相当する箇所は、新撰姓氏録の右京皇別・真野臣の項によれば難波宿禰1人となっている。

また、籠神社に伝わる国宝海部氏系図において、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に同名の人物が見える。

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米餅搗大使主
孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。