東大寺

良弁
東大寺創建の中心人物。出自については,相模国(神奈川県)で漆部氏とする説と,近江国(滋賀県)志賀里で百済氏とする説とがある。その前半生については史料がなく不詳。『日本霊異記』中巻第21話にみえる金鷲優婆塞を良弁と同一人物とみるのが古来の説であるが,反論もある。義淵を師として法相宗を学んだという。やがて東大寺の前身である金鐘寺で活躍,天平12(740)年には新羅人の学僧審祥 を招いて華厳経講説を行い,華厳教学を学んだ。このころから正倉院文書に多く名がみえるようになるが,経典貸借関係文書では『華厳経』などと並んで雑密系の経典が目立つ。雑密系の呪術にも関心が強かったと思われる。天平勝宝3(751)年4月少僧都。同4年4月東大寺大仏開眼供養が行われると,5月に初代東大寺別当(寺務統轄の最高責任者)となった。聖武太上天皇の病気に際しては,看病禅師として昼夜にわたって法力を傾け,同8年上皇が死去すると,5月24日看病の功をもって大僧都に昇進,あわせて父母両戸の課役も免ぜられた。天平宝字4(760)年7月には僧尼位(三色十三階制)の整備に中心的役割を果たした。同5年東大寺別当を勇退,石山寺の造立に尽力した。同8年恵美押勝の乱が起こると僧正に昇進した。弟子に智憬,安寛,道鏡,実忠 などがいる

造東大寺司
太政官直轄の令外官(りょうげかん)。748年頃東大寺の前身である金光明(こんこうみょう)寺の造営機構が発展して成立。職掌は東大寺・大仏の造営,東大寺領の経営,写経事業,石山寺の造営など。
748年(天平20)造東大寺司が置かれた。造東大寺司は木工寮をこえる大組織をもち,工事が終われば廃止されるべきものでありながら,760年(天平宝字4)の法華寺金堂やその後の香山薬師寺,石山寺,阿弥陀浄土院などの造営も担当し,永続的な組織のようになっている。

最初は近江国(滋賀県)信楽(しがらき)の甲賀寺において工事が開始され,行基は弟子を率いて諸国に勧進を始めたが,745年5月紫香楽宮(信楽宮)からの平城還都にともない,平城京東山のもと金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り,のちに造東大寺司に発展した金光明寺造仏所の手により工事が進められ,747年9月から749年(天平勝宝1)10月に至る歳月と8度の鋳継ぎにより,像高5丈3尺5寸といわれる巨像が完成した(大仏)。

天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。
『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。

東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。

天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。

黒岩重吾著「弓削道鏡」
道鏡の最初の師である円源法師は作者がこの小説のために創作した人物で、道鏡の人格形成と進路に大きな影響を与えたことになっています。円源は 役小角の縁戚で弓削にある村人の寄進で建てられた小さな寺の住職に設定され、知人である行基を通じて道鏡を僧正義淵に弟子入りさせます。
円源が尊敬する役小角は、通称を役行者(えんのぎょうじゃ)、7世紀(飛鳥時代から奈良時代)に生きた人物で修験者の開祖、葛城山(現在の金剛山)で修行、弟子の讒言(ざんげん、悪意のある告げ口)により謀反(むほん)の罪で伊豆大島へ遠島(流刑)されましたが2年後に許されて奈良へ戻ります。小説では円源の口から道鏡に語られる形で登場、道鏡はその影響を強く受けて山中で修行を行いました。
道鏡が飛鳥(あすか)にある龍蓋寺(りゅうがいじ、岡寺とも呼ばれ飛鳥寺や石舞台古墳に近い)で僧正義淵(ぎえん)に師事した時、義淵はすでに80歳を過ぎていたとされます。小説では行基が紹介したことになっていますがこれも作家の創作でしょう。一流氏族とは無縁であった道鏡がどのような経緯で最高位にあった義淵の弟子になれたのか不思議に思われます。それは措(お)くとして小説では義淵が道鏡に常人ではないものを感じて最後の弟子にすることを認めました。行基、良弁、玄昉(げんぼう)などの高僧を一門から輩出させた優れた人物だったからでしょう。道鏡が弟子入りを認められた翌年に没しています。小説ではこれを道鏡の幸運としています。名ばかりとはいえ義淵の弟子になったことは道鏡の人生を大きく変えることになります。
良弁(ろうべん)は義淵門下で道鏡の兄弟子に当たります。聖武天皇の覚えがめでたく東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)の寺主となった良弁を頼って道鏡は金鐘寺で修行をします。当時全国的に天然痘が大流行していましたが道鏡はその患者宅を訪れて看病・心の安らぎを与える活動をしています。そんな道鏡の活動を良弁は許すとともに修行をさらに積んで呪力を高めれば看病禅師(かんびょうぜんじ)になることが出来るであろうと告げ、救済活動で人に知られるようになった道鏡を時の右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)や僧正玄昉に引き合わせます。行基亡き後は出世して大僧都となり50歳になった道鏡を宮廷内にある内道場の看病禅師に推薦しました。

年表
大宝元年(701) 聖武天皇誕生。は幼くは首(おびと)皇子といい、この年、藤原京に於いて、文武天皇(当時19歳)と宮子夫人(藤原不比等の娘)との間に、第一皇子として誕生。
慶雲4年(707) 6/25 文武天皇は25歳で崩ぜられた。首皇子が当時7歳と幼少であったので、遺詔により文武天皇の母、即ち首皇子の祖母にあたる阿閇皇女(元明天皇)即位。
和銅3年(710)3/10 元明天皇の時代に藤原京から平城京への遷都

霊亀元年(715)9/2 元明天皇55歳の時、健康上の理由もあって、文武天皇の姉にあたる氷高内親王に天皇の位を譲られる(元正天皇)。
霊亀2年(716)首皇子(16歳)は藤原不比等の娘(母は橘宿禰三千代)の安宿媛(後の光明皇后)を夫人とされる。
養老3年(719) 6/10 首皇子、初めて朝政を聴く。
養老4年(720) 藤原不比等薨る。
養老5年(721) 12/7 元明太上天皇崩御
神亀元年(724)
2/4 首皇子、元正天皇より位を譲られて即位(聖武天皇、24歳)。この日長屋王を左大臣とする。
2/6 聖武天皇、母である宮子夫人を尊んで「大夫人」と称せしめる。
3/25 奥州の反乱 
11/8 聖武天皇、太政官が「京師は帝王の居られる所であって万国朝する所、是壮麗なるにあらざれば何をもって徳を表さん、・・・京師の五位已上庶人に至る迄その営に堪える者をして瓦屋を造立せしめ、赤白に塗らしめたい」、と奏上したのを許す。このことによって平城京は紅白で塗られた瓦舎で飾られることとなる。
神亀2年(725)
閏1/17 聖武天皇、災異を除かんがために僧600人を請して宮中にて大般若経を読誦させる。 
9/23 聖武天皇、天変地異の責を感じ、3000人を出家せしめ、一七日(7日間)の転経により災異を除かんとする。 
神亀3年(726)
7/- 聖武天皇、元正太上天皇の快癒を祈り興福寺内に東金堂を建立。
神亀4年(727)
閏9/29 聖武天皇、安宿媛との間に皇子誕生。
11/2 聖武天皇、皇子(基王)を皇太子となす。
神亀5年(728)
9/23 皇太子薨る。19日、那富山に葬る。
9/29 流星、断散して宮中に落ちる。
10/20 僧正義淵卒す。(法相宗の僧。元興寺の智鳳に師事し、吉野に竜門寺を開いて法相宗を弘めた。また岡寺を開き、聖武天皇から岡連(おかのむらじ)の姓を授けられた。門下に行基・玄昉・良弁)
11/3 聖武天皇、智努王(ちののおおきみ)を造山房司長官とし、28日智行僧9人を住まわせる。皇太子の菩提を弔わんが為という。また、この山房が東大寺の前身となった「金鐘山寺」のはじまりであるという。
神亀6年・天平元年(729)
2/10 漆部(ぬりべの)造君足等、左大臣長屋王の謀反を密告。依って三関を固守させ六衛府の兵に長屋王の宅を囲ませる。「続日本紀」には密告の内容を「左大臣正二位長屋王私(ひそか)に左道を学び国家を傾けんと欲す」とする。
2/12 長屋王自尽。その室、吉備内親王も自殺。(長屋王の変)
8/5 聖武天皇、亀瑞により神亀6年を改め天平元年とする。
8/10 聖武天皇、勅して藤原夫人を皇后とする。初めての、皇族でない臣下からの立后。
天平2年(730)
4/17 皇后宮職に施薬院を置く。
4/28 光明皇后、興福寺内に五重塔一基を造立。
天平3年(731)
8/7 聖武天皇、行基に従う優婆塞・優婆夷(男性・女性の在俗信者)にして老年男女の入道を許す。
天平4年(732)
7/5 干ばつにより諸国に雨を祈らせる。
天平5年(733)
1/11 光明皇后の生母、橘三千代薨る。
4/3 遣唐使多治比真人広成、難波津を進発。興福寺榮叡・大安寺普照、戒師を求めて遣唐使に同行。
天平6年(734)
1/11 光明皇后、橘大夫人三千代の菩提の為に興福寺内に西金堂建立し、供養す。
4/7 大地震
この歳 聖武天皇、一切経を書寫させる。詔(東大寺要録)に、「朕、万機の暇を以って典籍を披覧するに、身を全うし命を延べ民を安んじ業を存するは、経史の中、釋教最上なり。是に由りて仰いで三宝に憑(よ)り、一乗に帰依し、敬て一切経を写し、巻軸已に訖んぬ。是を読むものは至誠の心を以って、上は国家の為に、下は生類に及ぶまで、百年を乞索(もと)め、万福を祈祷し、是を聞くものは無量刧の間、悪趣に堕ちず、遠く此網を離れ、倶(とも)に彼岸に登らん」とあり、「帰依一乗」が「華厳一乗」かどうかは別にしても、「経史之中釋教最上」の語に、天皇の仏教への思いがうかがわれる。
天平7年(735)
4/26 下道(しもつみちの)朝臣真備(後の吉備真備)、僧玄昉、唐より帰朝。
8/12 大宰府管内に疫瘡流行。
天平8年(736)
2/22 光明皇后、仏具などを法隆寺に施入。
7/23 この頃、インドの僧菩提僊那(婆羅門僧正)・林邑(ベトナム)僧仏哲・唐僧道■(どうせん)ら来朝。
10/22 大宰府所管の諸国、疫瘡により困窮、詔して免租し給う。
11/11 葛城王(後の橘諸兄)等、橘宿禰姓を賜り降臣せん事を願う。
11/19 不作に付、四畿内等の今年の田租を免ず。
天平9年(737)
4/17 参議藤原朝臣房前(藤原不比等次男)薨る。
4/19 大宰府管内の諸国、疫瘡に倒れる者多し。
5/1 日蝕
7/13 参議藤原朝臣麻呂(藤原不比等四男)薨る。
7/25 左大臣藤原朝臣武智麻呂(藤原不比等長男)薨る。
8/5 参議藤原朝臣宇合(藤原不比等三男)薨る。
8/26 玄昉を僧正に任ず。
12/27 聖武天皇、大倭国を大養徳国と改める。令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19)には再び「大倭国」へ戻された。

天平10年(738)
1/13 光明皇后所生の阿倍内親王を皇太子とする(後の孝謙天皇)。橘諸兄(母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)で光明皇后とは異父兄の関係になる。はじめ葛城王(かずらぎおう)と称したが、後、母の姓を賜って橘諸兄となる)を右大臣とする。
天平12年(740)
2/7 聖武天皇、難波宮行幸。この月、河内国大県郡智識寺(知識寺)に行幸し、盧舎那仏像を礼す。 後の天平勝宝元年12/27 八幡大神が、東大寺を拝したとき、孝謙天皇・聖武太上天皇等東大寺行幸し、左大臣橘諸兄に読み上げさせた詔(「続日本紀」記載)の中に、「去(いに)し辰の年、河内国大県郡(かわちのくにおおがたのこおり)の智識寺に坐る盧舎那仏(るさなほとけ)を礼(おろが)み奉りて、則わち朕(聖武天皇)も造り奉らんと思えども」とあり、河内国の智識寺で盧舎那仏を拝したのが盧舎那仏造顕発願への動機となったことが知られる。
8/29 藤原広嗣(参議藤原朝臣宇合(藤原不比等三男)の子)、表を上って僧正玄昉、下道朝臣真備を除こうとする。
9/2 藤原広嗣、兵を起こして反す。(藤原広嗣の乱)
10/8 良弁、聖朝の奉為に金鐘寺において華厳経講読を創始す。
10/29 聖武天皇、伊勢国へ行幸。
11/5 大野東人等、1日に肥前国松浦郡において藤原広嗣を斬りし事を報ず。
12/14 聖武天皇、伊勢より美濃国を経て山城玉井頓宮に至る。
12/15 聖武天皇、恭仁宮に行幸して京都を作らせる。
天平13年(741)
1/11 聖武天皇、伊勢大神宮及び諸社に恭仁遷都を告げさせる。
1/15 故太政大臣藤原不比等家、食封五千戸を返上。内二千戸はその家に戻し、残り三千戸を諸国国分寺の造像料に充てる。
2/24 聖武天皇、国家の隆昌・安寧を祈らんが為として、諸国に国分・国分尼寺を建立せんとする。(国分寺・国分尼寺建立の詔)(「続日本紀」天平19年11/7に載せる詔に国分寺建立の願を発した日を「天平13年2月24日」とする。)
閏3/9 聖武天皇、平城京の兵器を甕原宮に運ばせる。
8/28 聖武天皇、平城の東西二市を恭仁京へ移す。
10/16 山城国賀世山の東河の架橋成る。よって従事せし諸国の優婆塞等に得度を許す。
11/11 聖武天皇、勅して恭仁京を「大養徳恭仁大宮」と称さしめる。
天平14年(742)
8/12 聖武天皇、山城国石原宮に行幸
8/27 聖武天皇、近江国信楽(紫香楽)宮に行幸。
9/4 聖武天皇、恭仁京に戻る。
9/12 大風雨の為宮中の殿舎等倒壊。
12/29 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮行幸。
天平15年(743)
1/1 聖武天皇、橘諸兄を恭仁京に還らしめ、2日天皇も帰京。
1/13 聖武天皇、衆僧を金光明寺に請じ、七七日を限りて最勝王経読ましめ、別に大和国金光明寺に殊勝の会を設け、国土の厳浄、人民の康楽を祈り、像法の中興を期せんとす。
3/4 大和国金光明寺の最勝会が終わり、右大臣橘諸兄、詔によって衆僧を慰労。
4/3 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮行幸。
7/3 聖武天皇、石原宮行幸。
7/26 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮行幸。
10/15 聖武天皇、三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かならん事を欲し、盧舎那大仏像の造顕を発願(盧舎那仏造顕の詔)。
10/19 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮にて、盧舎那の仏像を造り奉らんが為に始めて寺地を開く。行基、弟子を率いて勧進をはじめる。
11/2 聖武天皇、恭仁京へ戻る。
12/24 平城京の武具等を恭仁京に移す。
12/26 平城京の大極殿等を恭仁京に移すも、信楽(紫香楽)宮造営により恭仁京の造作を停止
天平16年(744)
閏1/1 聖武天皇、百官を招して、恭仁・難波二京のうち何れを都とすべきかを問う。
閏1/11 聖武天皇、難波宮行幸。
閏1/13 安積親王薨る。
2/10 聖武天皇、和泉宮行幸。
2/20 恭仁宮の御高座などを難波宮に移す。
2/22 聖武天皇、河内国安曇江に行幸。
2/24 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮に行幸。
2/26 聖武天皇、難波宮を皇都と定める。
3/11 恭仁京の大楯・槍を難波宮に運ぶ。
4/13 信楽(紫香楽)宮の山火事。
11/13 甲賀寺に盧舎那大仏像の骨柱を建つ。天皇親臨され、手ずから綱を引く。
12/8 この夜、金鐘寺及び朱雀路に於て燈を燃やす。
この歳 金鐘寺に知識華厳別供を設ける。
天平17年(745)
1/1 信楽(紫香楽)宮に遷都、しかし信楽(紫香楽)宮未だ成らず。「続日本紀」は「新京に遷る」と表現するも、「遷都」の宣言は無い。
1/21 行基を大僧正に補す。
4/1 信楽(紫香楽)京の市の西の山燃える。
4/3 信楽(紫香楽)京の寺の東の山燃える。
4/8 伊賀の国の真木山燃ゆ。3~4日消えず。
4/11 宮城の東山に火事。天皇も避難。
4/27 この夜、地震、三日三晩に及ぶという。美濃国、被害甚大。
5/- この月地震殊に甚だし。水も噴出するという。
5/3 恭仁京を清掃。
5/4 聖武天皇、四大寺の衆僧を薬師寺に集め、京師(都)の選考を諮う。
5/5 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮より恭仁宮に還り給う。民衆歓呼してこれを迎う。
5/7 平城京を清掃。
5/10 恭仁京の市人、競って平城京に移る。信楽(紫香楽)京に人無く火未だ消えず。
5/11 聖武天皇、平城京に行幸。諸司の官人、各々もとの司に帰る。
8/23 盧舎那大仏鋳造の工を大和国添上郡山金里(現在の東大寺の寺地)に移す。
8/28 聖武天皇、難波宮行幸。
9/17 聖武天皇、難波宮にて病む。
9/19 聖武天皇不豫。薬師悔過の法を諸寺に修せしむ。
9/25 聖武天皇平城京に向かわれ、26日宮に入る。
12/15 恭仁京の兵器を平城京に運ぶ。
天平18年(746)
3/- 良弁金鐘寺に於て法華会を創設す。
6/18 僧正玄昉、筑紫の観世音寺にて率す。
10/6 聖武天皇・光明皇后等、金鐘寺に行幸して燃燈供養を厳修。
天平19年(747)
3/16 聖武天皇、大養徳国を旧に復して大倭国と改称。そして、752年(天平勝宝4)もしくは757年(天平宝字元)橘奈良麻呂の変直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている
3/- 光明皇后、天皇不豫により新薬師寺を建立。
9/29 この日より盧舎那大仏像を鋳はじめんとす。
天平20年(748)
4/21 元正太上天皇崩御、28日に佐保山陵に火葬。
天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年(749)
1/14 聖武天皇、光明皇后ら、中島宮にて大僧正行基を戒師として菩薩戒を受け出家すという。聖武天皇は法名「勝満」、光明皇后は「万福」。「扶桑略記」には、「即日大僧正を改め名づけて大菩薩という」とある。
2/2 大僧正行基、平城右京・菅原寺にて遷化。年八十二歳。
2/22 陸奥国より始めて黄金を貢(たてまつ)る。
4/1 聖武天皇、東大寺に行幸し左大臣橘諸兄をして陸奥国の産金を盧舎那大仏に告げ、「三宝(みほとけ)乃(の)奴(やっこ)と仕え奉る天皇」と仰せられ、瑞祥を喜ぶ。また、年号を感宝と改める。
産金の経緯については「扶桑略記」に、「大仏に使用する黄金を得るために始め遣唐使を派遣して購入しようとしたが、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の託宣があって我が国で産金するという。そこで天皇は金峰山に使いを遣わして黄金を産してほしいと祈ったところ、「我が山の金は慈尊出世時、即ち弥勒菩薩がこの世に出現された時に使うべきものである。しかし近江国志賀郡瀬田江付近に一人の老人が座っている石があるから、其の上に観音様をまつって祈れば黄金は自ずと手に入る」、とのお告げがあった。そこで其の場所を訪ねて(今の石山寺という)如意輪観音を安置し、沙門良弁法師が祈りを捧げたところ、間もなく陸奥の国より黄金が献上された。そこでこの黄金の中から先ず120両を分かって宇佐神宮(宇佐八幡宮)に奉納した。」とある。
4/23 陸奥守(みちのくのかみ)百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)黄金(くがね)九百両を貢る。
閏5/20 勅して、諸大寺に■・綿・布・稻・墾田等を施入、「依って御願を発して曰く、花厳経(華厳経)を以って本とし(「続日本紀」)」、諸経を転読し、天下太平を祈る。(この勅願文に「太上天皇沙弥勝満」とあり。)
閏5/23 聖武天皇、薬師寺宮に遷御、御在所とする。
7/2 孝謙天皇即位。この日、天平勝宝元年と改む。藤原仲麻呂、大納言。
9/7 皇后宮職を紫微中台に改める。
10/9 孝謙天皇、河内国智識寺等に行幸。
10/24 三ヵ年八度の鋳継ぎにより、盧舎那大仏の鋳造ここに成る。
11/1 八幡大神(やはたのおおかみ)の禰宜(ねぎ)等に大神(おおみわの)朝臣の姓を賜う。
11/19 八幡大神、託宣して京へ向う。よって24日、迎神使と兵士一百人以上を差し向け前後を護衛させるとともに、行路にあたる国々での殺生を禁ず。
12/18 八幡大神入京。梨原宮に新殿を建て、僧侶四十名、一七日間悔過す。
12/27 八幡大神(禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ))、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝す。孝謙天皇・聖武太上天皇等東大寺行幸。この時左大臣橘諸兄に読み上げさせた言葉(「続日本紀」記載)の中に、「去(いに)し辰の年、河内国大県郡(かわちのくにおおがたのこおり)の智識寺に坐(ま)す盧舎那仏(るさなほとけ)を礼(おろが)み奉りて、則わち朕(聖武天皇)も造り奉らんと思えども(・・・出来ないでいた時に八幡大神に其の事を申し上げると・・・)」とあり、天平12年、河内国大県郡の智識寺に到り盧舎那仏を拝したのが盧舎那仏造顕発願への動機となったことが知られる。またこれに続いて、八幡大神の託宣を引用して「神我(八幡大神のこと)、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を率い、・・・必ず(盧舎那仏造顕を)成し奉らん。・・・銅(あかがね)の湯を水と成し、我が身を草木土(くさきつち)に交えて、障(さわ)る事無くなさん(無事成し遂げよう)(・・・とおっしゃるのでうれしく尊く思い、恐れながら位を奉る・・・)」と記す。
12/- 盧舎那大仏の螺髪を鋳始める。
天平勝宝2年(750)
2/22 孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺行幸。
3/28 御願八十華厳経の書寫を始める。
天平勝宝3年(751)
1/14 孝謙天皇東大寺行幸。
10/23 聖武太上天皇不豫により、詔して、新薬師寺に於て続命の法を修せしむ。
この歳 大仏殿造営される。
この歳 大仏の螺髪を鋳終わる。銅九三二四斤余を要す。
天平勝宝4年(752)
2/16 東大寺盧舎那大仏の銅蓮華座を鋳始める。
3/14 この日より盧舎那大仏像に鍍金を開始する。
閏3/- この頃盧舎那大仏の光背を造り始める。
4/9 盧舎那大仏像成り、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺へ行幸、開眼供養を行う。
5/1 良弁を初代東大寺別当に補す。
天平勝宝5年(753)
1/15 東大寺西塔成る。
12/26 唐僧鑑真、大宰府に至る。
天平勝宝6年(754)
1/5 孝謙天皇東大寺に行幸、万灯会を行う。
2/4 鑑真平城京に入る。
4/5 聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇、東大寺に行幸し、鑑真を戒師として菩薩戒を受く。
7/19 聖武太上天皇御生母、太皇太后宮子、崩御。
天平勝宝8年(756)
2/24 孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、難波に行幸し、智識寺等に詣で28日難波宮新宮に入る。
3/1 聖武太上天皇、難波の堀江に行幸。
4/23 聖武太上天皇の延命を祈らんが為に、伊勢大神宮に幣を奉る。
4/29 医師・禅師等を京・畿内に遣わして、疾病の徒を救療せしめ、八幡大神宮に幣を奉る。
5/2 聖武太上天皇崩御。56歳。遺詔して、道祖王を皇太子とす。
5/3 聖武太上天皇の崩御により、三関を守らせる。
5/19 聖武太上天皇を佐保山陵に葬る。出家帰仏の故に諡を奉らず。
6/21 聖武太上天皇の七七日にあたり、光明皇太后、遺品を東大寺に施入し、また種々の薬を盧舎那仏に奉る。
7/8 孝謙天皇、先帝御愛玩の品を法隆寺に施入される。
7/26 孝謙天皇、先帝御遺愛の品を東大寺に施入される。
天平宝字元年(757)
3/29 皇太子道祖王を廃す。
4/4 大炊王を皇太子となす。
天平宝字2年(758)
8/9 勅して、「勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんしんしょうむこうてい)」と追尊し、「天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)」と諡す。「続日本紀」に載せるこの勅の中で、「先帝(聖武天皇)、敬って洪誓を發すらく、盧舎那金銅の大像を造り奉る。若し朕が時に造り了るを得ざる有らば、願わくは来世に於て身を改めて猶作らんと・・・」述べられており、盧舎那仏造顕に対する聖武天皇の決意の程がうかがえる。
天平宝字4年(760)
6/7 光明皇太后崩御。60歳。「天平応真仁正(にんしょう)皇太后」。「続日本紀」皇后崩御の條には「東大寺、及び天下国分寺を創建する者は、本太后の勧むる所なり」とあり、光明皇后が聖武天皇に、東大寺及び国分寺の建立を勧められた可能性のあることを窺わせる。

「続日本紀」「扶桑略記」「東大寺要録」「聖武天皇御伝(東大寺)」等参照