月読神社、壱岐と山城、壱岐直 真根子、松尾神社

記紀神話は、イザナギ、イザナミノミコトからまずアマテラスオウノカミが生まれ次にツキヨミノミコトが生まれたと説く。

壱岐月読神社 <壱岐国史より>

月読神社 名神神社 旧称 清月、山の神
祭 神  天月神命
由 緒  延長五年(九百二十七年)の延喜式神名帳によれば式内社
(名神大社)とされ、延喜式の月読神社は芦辺町箱崎鎮座の八幡神社とされ、旧号を海裏宮とも海裏八幡も言ったとされ、その鎮座地は男岳山であったという。延宝四年(1667年)六月橘三喜は本社を国分の現在地とされ、藩主鎮信は石祠と木鏡一面を献備して、その木鏡面に奉備二十四座之内月読神社御正体木鏡一面とあり、神階を進められたとある。

月読神社 京都の古社

当社は松尾7社のうちにあり、松尾神社の摂社である。
京都の松尾山の南麓に「月読神社」がある。社は延喜式に「葛野座月読神社」としるされた明神大社である。祭神は高皇産霊尊・月読尊である。桓武天皇の延暦21(802)年に大社に列せられ、醍醐天皇の延喜6(906)年に正一位に叙せられている。
松尾神社:大宝元(701)年に 秦氏の長者秦都理が建てたと伝えられる。秦氏は応神天皇の時代に百数十県の民を率いて渡来した弓月君の子孫といわれる

月読神社は松尾神社から150メートルほど南に鎮座し、斎衡3(856)年に現在地に移されたことが文徳実録にみえる
松尾神社のうちにあるが、その創立はどうも松尾神社より古いようにも思われる。もともと桂川の水浜にあった社が水難のおそれから現在地に遷祀されたといわれる。

壱岐の島の月読神社

月読神社の元宮は壱岐島にある。
全国の月読神社の元宮が鎮座する。神社は延喜式の明神大に列せられた格式をもち、国分東触(芦辺町)に鎮座する。
西暦487年、壱岐の県主の先祖忍見宿袮おしみのすくねによって月読神社の分霊が京都に遷し、神道が日本に根付く元となった
月読神社は、阿閉臣(あべのおみ)事代主が朝鮮半島に遣わされたとき壱岐で宣託を受け京都に祀られるようになったとも忍見宿祢(おしみのすくね。壱岐県主の先祖)が京都に伝え祀ったとも伝えられ、日本に神道が根付くもとになった古社である。

一大国と原の辻遺跡

倭人伝は、壱岐国に一大国の好字を当てている。
原の辻遺跡の発掘調査が進み、一大国の王都に相応しい遺物、遺構が発見されその姿が明らかになりつつある。三重の環濠がめぐる住居址は、約24万平方メートルもある。構造船が出入りしたであろう弥生時代の船着場(写真上は壱岐・原の辻展示館のジオラマ)や百十個所余りの高床式建物等の柱穴が発見され、青銅の舶載鏡や剣、鉄製の斧、鋤先、鎌等やトンボ玉、卜占に用いられたシカ、イノシシの卜骨などおびただしい遺物が出土した。

忍見命の子孫と卜部氏
「忍見命」の同じ裔孫であるといい、忍見命が京都洛西月読神社に祠官と
なられて以来代々その職をうけ継がれ、歌荒す(註・部首木へんの右に巣《木巣》)田占部伊岐氏、中古より松室氏と称して連綿と続く一族である。
日本書記によれば、弘計天皇(顕宗)三年春二月一日阿へ(註・間の日の代わりに下)臣事代は命をうけて出向し、任那に使した。このとき月神(壱岐島月読神社の祭神)が人にかかって語り、「わが祖高御産巣日神たかみむすびのかみはあらかじめ天地を鎔造した功がある民地かきどころをわが月神に奉れ。もし請うように我に奉ったなら、慶福があるだろう」といった。事代はこのことを京にもどってありのままを天皇に奏した。

そこで山城葛野郡、歌荒す田(今の京都洛西松尾の里)を奉献した。そして、忍見宿禰を壱岐より招き、これに仕えさせた。このことから、松尾一族は押見命を初代として、その子孫が連綿相承けて祠職をつぎ、今日に及んだとしている。

壱岐直、真根子
天児屋根命九世の孫・雷大臣の後なりとあり、神功皇后の世に父に従い三韓に赴き帰朝の後は城にとどまり、三韓
の守りについていた。真根子は壱岐直の祖で、子孫は伊岐、雪、伊吉、あるいは卜部宿禰を名乗った。忍見命(押見宿禰・壱岐県主で月読尊を壱岐から京都に分霊)は真根子の子孫(松尾社家系図)。
小経耳⇒こえみみ。真根子の子。

壱岐直・真根子の尽忠
若木町川古かわごに伏尺ふし神社がある。昔から格式の高い村一番の神であった。伝説によれば神功皇后の三韓征伐にも従い筑紫に下向した武内宿禰は、応神天皇の九年四月筑紫観察のために滞在し、横辺田よこべた(今の大町福母)にいた。しかるに弟の甘味宿禰は兄の出世を喜ばず、天皇のご信任の厚いことをうらやみ、「兄は三韓と通じて不敬を計はかる企くはだてあり」と讒言した。朝廷はその真意を確かめ、その事実があれば討てと命
じて使臣を発向させた。その頃、壱岐に壱岐直・真根子あり、壱岐直の祖であったが百済に渡り観察し、もとよりその事実も無く全くの不実であることを知った。この人その顔形はなはだ、武内宿禰に似ているので宿禰が
罪なく空しく死することを惜しみ、身代わりとなりて自ら剣に伏し死んだ。武内宿禰は大いに悲しみ尺に伏して慟哭してやまなかった。
http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/ikimaneko/ikimaneko.htm

高良大社の境内社 真根子社

真根子社について。
真根子社は高良大社の境内末社の一で、本殿向かって右の透塀の外に鎮祭されている。同社は「壱岐真根子」を祭る社であるが、これは高良大社の主祭神「高良玉垂命」を「武内宿禰」とする祭神説に基づく。(高良玉垂宮略縁起)

伏尺神社
http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/ikimaneko/ikimaneko.htm
「弘治二年馬渡八郎左エ門賢俊之女」とある棟札が社殿建立を証明する。弘治二年は後奈良天皇の御世で室町時代も末期天文二十四年十月二十三日兵革により、弘治と改元されたほど世はまさに戦国時代である。
馬渡賢俊は永禄九年正月二十日武雄領主・五島貴明に討伐せられた馬渡甲斐守俊明入道秀岩の一族であり、今(昭和53年)を去る432年に建立されたものである。
馬渡一族は、清和源氏八幡太郎義家の弟の、加茂二郎左ェ門尉美濃守義綱の子孫が北肥前に住し、貴志岳きしだけ城主波多はた氏に居属していた後に、川古を領有の渋江しぶえ氏に属している。
馬渡一族が壱岐直真根子を崇拝し、氏神として社殿を建立する動機は、古くから鎮守社として奉られていたとしても、壱岐と交渉の深かった北肥前に住していたのに起因するのではなかろうか。
川古地方は一時、小康を保ち、本部には淀姫大明神創建のことあり。渋江氏・岸岳城主波多氏の息女を室とし、日鼓城にあり、嫡男・公親は日鼓城にて生まれ、落城後は波多氏を頼りて壱岐に蟄居して再起をはかり、雌伏15年波多氏の援助を得て日鼓城に入り、壱岐との結びつきはさらに深くなり、伏尺神社の建立に至ったのではないかと推定される。

伏尺神社の葬表銘


 「聞くに伏尺社は真根子の霊をいつきまつる。吾れ船岳記を見るところ、武内大臣嘗て筑紫にいましときに甘美内の離るに会い、ことすでに迫る。時に壱岐の直、真根子という人あり、深くこれを惜しみていへらく。
容貌は大臣に似たる、もって代わりて死すべし。すなはち剣に伏たりて自ら尽きたり。武内は伏尺によりかかわりて撫で慟哭することはなはだし、ついに難を免れるを得たり。皇朝は特にその仁徳を嘉せられ、子の小経耳を火の国の宰となしたまふ。子孫は杵島郡川古郷に剣廟し、ここに決めて奉祀りたもうはこれ真根子の霊なり。嗚呼義士これ徳を尚び仁人これを憂えるか。切に至るという可し。世人何時の禁みてまつりなすところ風雨をもってし、疫を払いたもうて福とする人、今に少なからず。祠官土佐少将克長、緒郷にひらに募り葬表一基を建て銘を作り、その功徳祈る。あきらかに務ること盛んなればそれ百福をうるおしもって忠誠なれば担これ胆痛む。つつしみて霜を塞ぎ和風あきらかに申元禄八年春の四月                      武雄本司少輔伴宿禰義門記  

六人部鯖麻呂の挽歌である。

わたつみの かしこき路を安けくも 無く悩み来て 今だにも 喪も無く行かむと 壱岐ゆきの海人あまの上手ほっての卜占うらへを かた灼やきて  行かむとするに 夢いめのごと 道の空路そらじにわかれする君>

反歌二首
<昔よりいひける言ことのから国の辛からくもここに別わかれするかも>
<新羅へか家にか帰る壱岐ゆきの島ゆかむたどきも思いかねつも>

恐ろしい海路を安穏なこともなく悩み来て、せめて今からでも無事で行こうと壱岐の島の上手な占いをして行こうとする矢先に、まるで夢のように旅先で死んでしまつた君

「から国のからくも」と昔から言った言葉のように、つらく悲しくもこの壱岐の島でお別れすることは!!
新羅の国へ行くべきかそれとも家に帰るべきか。これは「ゆきの島」というが、行くすべも思い定めかねているよ。

日神

頃顕宗天皇の時(450-487)に、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に日神が降り、その神託に従って日神の祖・高皇産霊(たかむすび)に大和の磐余(いわれ)の田を奉り、対馬下県直が祠に仕えたという。大和の磐余(いわれ)は、現在の奈良県橿原市で、目原坐高御魂神社(めはらにいますたかみむすびじんじゃ)に比定する説と、月神と同じ山背国葛野郡の木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)にあてる説があるという。日神とは天日神命(あまひのかみのみこと)のことで、対馬島下県郡阿麻氏留(あまてる/氏の下に_ )神社に祀られている。又、日神の祖とされる高皇産霊(たかむすび)は対馬島下県郡高御魂神社(対馬市厳原町豆酘・現在は多久頭魂神社の境内に鎮座する)が元という。

建仁寺 黙雷禅師

黙雷禅師は、安政元年(1854)7月3日、壱岐郡香椎村(現在の勝本町西戸触)の生まれで、本姓は竹田氏、父は平戸藩士勝治、母
は川上氏、五男二女で師は四男、幼名は熊雄、
慶應4年15歳の時、笈を負うて海を渡られる
明治22年・36歳(梅林寺での9年間の修業)・「仏祖の心印を付与される」(禅宗史上、最若年)
明治25年・39歳・京都の建仁寺管長に推挙されました。
黙雷禅師が建仁寺に晋山されると、僧籍者だけでなく、各界の多くの人達が、その「学と禅と徳」を慕って参堂(参禅)しています。その後、昭和5年、77歳で死去されるまで僧籍にあり、その間約40年、管長を勤められました。

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年表

487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祭る(神社考)
壱岐県主が分霊して京都に祭る
・541年 伊吉公乙等を筑紫伊と(註・《者見》)県に遣わし、神石を求
め、のち山城国月読神社に奉納する(壱岐名勝図誌)
・562年 新羅、任那を滅ぼす
・593年 聖徳太子摂政となる
・607年 小野妹子を隋に遣わす
・630年 第一次遣唐使
・632年 犬上御田鋤帰朝の記事中に伊岐史乙等の名あり(壱岐国史)
・645年(大化 1)大化の改新(初めての年号・大化)
・700年 伊吉博徳、大宝律令編纂に参与、功により賜禄される(続
日本紀)
・729年(天平 1)壱岐郡・石田郡の郡境を定める(壱岐名勝図誌)
・730年(天平 2)壱岐守板氏安麻呂、壱岐目村氏彼方、大宰府師
老宅での九州全国官人の宴に出席(万葉集)
・736年(天平 8)雪連宅満、遣新羅使の一行に加わり病死、
壱岐の石田野に埋葬する(万葉集)