晉書列傳 四夷倭人

晋書は、西晋4代54年(265ー316)、東晋11代104年(317-402)を記した正史である。帝紀30巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻より成る。唐の貞観年間644年頃に編纂された。この時代は貞観の治と称されるように、文化的にも政治的にももっとも安定した時期であった。
 旧唐書、房玄齢伝によると、646年(唐の貞観年20年)時の太宗皇帝は、重臣の房玄齢(578~648)と皇帝政務秘書のちょ遂良に晋書の定本をつくるよう命じ、そこで房玄齢を作業主任として8名の責任者が分担を決めて史料の採集登録にあたり、その下に多数のスタッフが調査.考証に従事した。それまでの史書編纂がどちらかといえば個人的な業であったのに対して、いわば国家事業的に編纂されるところとなった。
一部に太宗皇帝自身が筆をとった個所があり、太宗勅撰の書とも云われる。

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晉書卷九十七列傳第六十七 四夷倭人

倭人在帶方東南大海中依山島爲國
地多山林无良田食海物 舊有百餘小國相接 
至魏時有三十國通好 戸有七萬 
男子无大小悉黥面文身 自謂太伯之後
又言上古使詣中國皆自稱大夫 
昔夏少康之子封于會稽斷髮文身以避蛟龍之害 
今倭人好沒取魚亦文身以厭水禽 
計其道里當會稽東冶之東 
其男子衣以横幅但結束相連略无縫綴 
婦人衣如單被穿其中央以貫頭 而皆被髮徒跣 
其地温暖俗種禾稻紵麻而蠶桑織績 
土无牛馬 有刀楯弓箭 以鐵爲鏃 
有屋宇父母兄弟臥息異處 食飮用俎豆 
嫁娶不持錢帛以衣迎之 死有棺无椁封土爲冢 
初喪哭泣不食肉 已葬舉家入水澡浴自潔以除不祥
其舉大事輙灼骨以占吉凶 
不知正歳四節但計秋收之時以爲年紀
人多壽百年或八九十 國多婦女不淫不妬无爭訟 
犯輕罪者没其妻孥重者族滅其家 舊以男子爲主 
漢末倭人亂攻伐不定 乃立女子爲王名曰彌呼 
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見 
(之=ツー 平=ピン 也=イエ)
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 
泰始初遣使重譯入貢
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倭人は帶方東南大海の中に在り、山島に依りて國を爲す。地に山林多く、良田无く、海物を食す。舊、百餘の小國相接して有り。魏の時に至り、好を通ずるに三十國有り。
戸は七萬有り。男子は大小と无く、悉く黥面文身す。
自ら太伯の後と謂う。又、上古使の中國に詣るや、皆自ら大夫と稱すと言う。
昔、夏少康の子會稽に封ぜられしに斷髮文身し以って蛟龍の害を避く。
今、倭人好く沒して魚を取り、亦た文身は以って水禽を厭わす。
其の道里を計るに、當に會稽東冶の東たるべし。其の男子の衣は横幅にして、但だ結束して相連ね、略ぼ縫い綴ること无し。婦人の衣は單被の如く、其の中央を
穿ち以って頭を貫く。皆、被髮し徒跣なり。其の地は温暖にして、俗は禾稻紵麻を種え、蠶桑織績す。土に牛馬无し。刀、楯、弓、箭、有り。鐵を以って鏃と爲す。屋宇有りて、父母兄弟臥息處を異にす。食飮に俎豆を用う。嫁を娶るに錢帛を持たず、衣を以って之を迎う。
死には棺有りて椁无し。土を封じて冢と爲す。初め喪するや、哭泣し、肉を食さず。
已に葬るや、家を舉げて水に入りて澡浴自潔し、以って不祥を除く。
其の大事を舉するに、輙ち骨を灼き以って吉凶を占う。
正歳四節を知らず、但だ秋に收むるの時を計りて以って年紀と爲す。
人多く壽は百年、或は八九十。國に婦女多く、淫せず妬せず、爭訟无し。輕き罪を犯す者は其の妻孥を没し、重き者は其の家、族を滅す。舊、男子を以って主と爲す。
漢の末、倭人亂れ攻伐して定まらず。
乃ち女子を立てて王と爲す。名を彌呼と曰う。宣帝の平ぐる公孫氏也。
其の女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其の後、貢聘絶えず。
文帝、相と作(な)るにおよび、又、數至る。泰始の初め、使を遣し譯を重ねて入貢す。
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唐 房玄齡等撰  
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倭人は太白の後裔??
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。
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「後漢書東夷伝」の序文の末尾には箕子朝鮮について次のように書かれています。

昔、殷の王族、箕子が殷の衰運を避けて朝鮮に移住した。それ以前の朝鮮の国の風俗については、何も伝えられていない。箕子の八条の規約が行われるようになって、朝鮮の人々に掟の必要なことを教えた。その結果、村にはみだりに盗むものがなく、家々は夜も門に閂(かんぬき)する必要がなく、箕子以前には頑迷無知な風俗によっていた人々も、ゆったりと大まかな法にしたがうようになった。この法は七、八百年も続き、それゆえ東夷諸種族は、一般に穏やかに行動し、心に謹しむことを慣習としている。この慣習が、東夷と他の三方の蛮夷との異なるところである。すくなくとも政治のゆきわたったところでは、道義が行なわれる。……省略……後に、中国との交易によって朝鮮との交通が次第に開け、中国王朝と交渉するようになったが、燕人の衛満は、その慣習を乱した。これより朝鮮の風習も次第に軽薄になった。老子は、「法令が多く出されることは盗賊が多く居ることだ」と言っている。箕子が条文を簡略にし信義をもってこれを運用したことは、聖賢が法律を定める基本を確立したものというべきである。(井上秀雄訳)