日本の古代の年号、法興について

日本最初の公年号は孝徳天皇の制定した「大化」であるが、中世に成立した寺院縁起・年代記には、大化前代から年号があたかも使用されたもののごとくに記載され、これらを俗に古代年号と呼ぶことがある。
古代年号は総じて仏教的色彩が濃く、殊に太子信仰の影響を強く受けていることから、現在そのほとんどは後世の仏家によって仮託された架空の年号であると考えられている。ただし、「法興」だけは例外で、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られる。これが年号か否かの解釈については議論の余地があるものの、聖徳太子を讃仰する僧侶によって使用されたものとみて間違いなかろう。また、「白鳳」「朱雀」は公年号の「白雉」「朱鳥」からそれぞれ派生した年号であると考えられ、殊に「白鳳」は、現在でも文化史上の時代呼称(白鳳文化)として通用している。

法興元年 591年

591年すなわち法興元年に近い出来事は、天皇以下全員死亡と記された531年の重大事である。
531年は継体天皇の御世で、591年は崇峻天皇のときです。

鎌倉時代から南北朝時代に書かれた「源平盛衰記」の巻第39に、法興元世21年壬子(592年)2月18日に太子(聖徳)が妃と一緒に彼寺(長光寺)に御幸した記事がある。
 つまり、聖徳が即位する592年(壬子)までの21年間は「法興元世」という私年号が使われていた形跡かもしれない。しかし、源平盛衰記」の法興元世21年(592年)から逆算するとその元年は572年であり、日本紀によればそれは敏達元年ということになる。なぜ敏達元年に私年号の始まりと思われる「法興元世」が建てられたのか?

伊予湯岡碑文とは

碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っています。 『釈日本紀』や『万葉集註釈』が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされています。

原文『釈日本紀』が引用した古書「伊予風土記」逸文

「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首  惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)

梅原氏の現代語訳(福永光司氏の読み下し文に従って)

「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事(まつりごと)は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。 かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」(『聖徳太子』梅原猛・著。集英社)

『伊予風土記逸文』には、聖徳太子他5度の行幸を記しています。
1.景行天皇とその皇后
2.仲哀天皇と神功皇后
3.聖徳太子
4.舒明天皇とその皇后
5.斉明天皇・天智天皇・天武天皇

法興年号と推古天皇時代の出来事の対比

・ 593年(法興3年・推古元年)【書紀年齢20歳】…聖徳太子摂政となる
・ 594年(法興4年・推古2年)…三宝興隆の詔
・ 595年(法興5年・推古3年)…慧慈法師来日
・ 596年(法興6年・推古4年)…伊予湯岡訪問
・ 600年(法興10年・推古8年)…「阿輩鶏彌・アメノタリシヒコ」遣隋使派遣

法興寺の着工を記念して「法興」という説などもありますが、着工は588年ですので3年のズレが生じます。

九州年号は北は青森県五所川原市の「三橋家文書・系図」(善記)から南は鹿児島県指宿市の『開聞故事縁起』(白雉・白鳳・大化・大長)まで、全国各地の古文書に現れている。

【筑後地方の九州年号使用史料一覧】
 九州年号   西暦     出典・備考
 善記 元年  五二二     大善寺玉垂宮縁起
 明安戊辰年  五四八    久留米藩社方開基、三井郡大保村「御勢大霊大明神再興」 ※『二中歴』では「明要」。
 貴楽 二年  五五三     久留米藩社方開基、三井郡東鰺坂両村「若宮大菩薩建立」
 知僧 二年  五六六     久留米藩社方開基、山本郡蜷川村「荒五郎大明神龍神出現」 ※『二中歴』では「和僧」。
 金光 元年  五七〇      柳川鷹尾八幡太神祝詞、久留米市教育委員会蔵。
 端正 元年  五八九     大善寺玉垂宮縁起軸銘文・太宰管内志 ※二中歴では「端政」。
 白鳳 九年  六六九     筑後志巻之二、御勢大霊石神社※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」の可能性も有り。
 白鳳 九年  六六九     永勝寺縁起、久留米市史。久留米市山本町 ※同右。
 白鳳 元年  六七二     全国神社名鑑、八女市「熊野速玉神社縁起」 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳十三年  六七三     高良玉垂宮縁起
 白鳳十三年  六七三     高良山高隆寺縁起
 白鳳十三年  六七三     高良記 ※他にも白鳳年号が散見される。
 白鳳 二年  六七三     二十二社註式、高良玉垂神社縁起。 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     高良山隆慶上人伝 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     家勤記得集 ※元年を六七二とする後代の改変型「白鳳」。
 白鳳 二年  六七三     久留米藩社方開基、竹野郡樋口村「清水寺観世音建立」 ※後代の改変型「白鳳」。
 白鳳中    六六一~六八三 大善寺古縁起二軸 外箱蓋銘
 白鳳年中   六六一~六八三 筑後志巻之三、御井寺
 白鳳年中   六六一~六八三 久留米藩社方開基、山本郡柳坂村「薬師堂建立」
 白鳳年中   六六一~六八三 高良山雑記
 朱雀二年   六八五     宝満宮年譜、井本家記録。三池郡開村新開。
 朱雀年中   六八四~六八五 高良山雑記
 朱鳥元年丁亥 六八六     高良山隆慶上人伝 ※干支に一年のずれがある。『二中歴』では朱鳥元年は丙戌

 日蓮がわが国の創始年号について記した文書に『報恩抄 』がある。

 此れ又何れの王・何れの年時ぞ漢土には建元を初めとして日本には大宝を初めとして緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣も年号も日時もなきや。(『報恩抄』一二七六)

夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云々。(『神国王御書」一二七五述作)

 抑日本国と申すは十の名あり、扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり。(『秋元御書』一二八○述作)

筑紫九国一切諸人(『一代五時図』一二六〇述作)

 八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども(『新尼御前御返事』一二七五述作)

西海道十一ケ国、亦鎮西と云い、又太宰府と云々。(『神国王御書』一二七五述作)
 壱岐・対馬・九ケ国(『乙御前御消息』一二七五述作)

 日蓮はいまだ、つくしを見ず、えぞしらず。(『清澄寺大衆中』一二七六述作)