斯盧国、新羅

後の慶尚北道にあり、辰韓12ヶ国の中心となり、更に後代「新羅」として韓民族の中心国家となった「斯盧」国

当初、この国は三国志(魏志弁辰伝)に「斯盧」国として現れます。「斯盧」は「シロ」siroと発音し、日本語の「白」の意味だと思われます。韓国朝鮮語の「白」を意味する言葉は、ヘ(hε)で、太陽を意味する言葉より出た(日本語の「ヒ(日)」と同源でしょう)といわれています。尚、例の高句麗地名に「尸臘」シラsiraがあり、満州語サラカ(saraka、白髪頭)、サラカビ(sarakabi、白髪)、蒙古語シラ(sira,siro)、アイヌ語シル(siru,白)など、アルタイ諸言語(アイヌ語のsiruは日本語からの借用かもしれません)に、同じ色彩語「白」の類似が見られます。

魏志韓伝の馬韓54国、辰韓12国、弁辰(弁韓)12国の内、「邪馬」の入る国名は、「弥烏邪馬国」のみであり、魏志倭人伝では、そのものずばりの「邪馬国」と「邪馬台国」の2国のみが「やま」のある国です。これらの3カ国は、倭人の諸部族国家の山岳信仰の「聖山」を祭祀し、周辺の倭人諸部族国家と祭祀同盟を結んでいたのではないでしょうか?

2011年に発見された梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にした。
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斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

新羅の建国が倭人により行われたと考えられる理由は、三国史記新羅本紀での王統譜で、新羅の王家が、朴氏、昔(積)氏、金氏と交替したとの伝承があるる。歴史時代の新羅の王家は金氏であり、新羅滅亡前に朴氏の王が存在しました。一般に、「昔氏」は架空の存在と考えられていますが、この昔氏の始祖(新羅王は初めの三代は朴氏とされています)の第四代脱解尼師今は、倭人と考えられています(倭国~女王国の東北1千里の多婆那国~花廈国の生まれ)。

新羅本紀
21代炤知麻立干(479-500)

480年靺鞨が北部国境地帯を犯した
481年高句麗と靺鞨が北部国境地帯に侵入し、狐鳴など7城を奪い、さらに進んで弥秩夫まで来た。
わが軍は百済・加耶の援軍と協力して街道ごとに侵入軍を防いだ。
賊軍が敗退したので、追撃して、泥河の西岸で撃破し、斬った首だけでも千余級もあった
482年倭人が辺境を犯した
484年高句麗が北部国境地帯を犯したので、わが軍は百済と協力して母山城付近で戦い、大いに撃破した
485年仇伐城を築いた。百済の使者が来訪した。
486年正月、一善地方の丁夫3千人を徴発し、3年・屈山の2城を改築した
同年4月、倭人が国境地帯を犯す
同年8月、狼山の南に多くの軍隊を集めて訓練した
487年初めて全国に郵駅を置き、役人に命じて官道を修理させた
488年正月、王が月城に居を移した
同年7月、刀那城を築く
489年9月、高句麗が東部国境地帯に侵入、戈峴まで攻め込む
同年10月、狐山城が陥落
490年鄙羅城を再築城


491年高句麗の長寿王没す
新羅も百済もこれ以降も高句麗の攻撃はあるが、大きな重圧が取り除かれたといえる。

493年3月、百済王(東城王)が使者を派遣し、花嫁を求めてきたので、伊伐飡の比智の娘を送った
同年7月、臨海、長嶺の2鎮を設置した。これらは倭賊に備えるためである

494年将軍実竹らが高句麗軍と「薩水」の河原で戦ったが、勝つことができず、退いて犬牙城に籠城。高句麗軍は包囲したが、百済王(東城王)が3000の軍を派遣して、高句麗の包囲を解き放った

薩水とは
山形明郷著「古代史犯罪」から
かって無量百数十万の兵を指し、高句麗討伐を行なった隋の時代、高句麗との決戦は「薩水」が中心となっている。すなわち「東、薩水を渡り平壌に近づくこと何十里・・・」とある。
つまり高句麗の平壌を衝くためには、薩水という河を越えなければならなかった次第である。
・・・薩水とは今日の「渾江」下流域に付されていた別名である。この渾江にはいくつかの亦名があり、古くは「塩難水・猪灘水・淹淲水・沸流水・婆猪江・沛水・佟佳江」などがある。
鴨緑江にも複数名が存在し、古くは「馬訾水・鴨緑大水・沛水・大定江」などがある。
この河川を南に控えて高句麗の「平壌」が存在したからこそ、隋も唐もみな、鴨緑江や薩水(渾江下流)から侵入しているのである。

新羅も百済も鴨緑江の周辺で高句麗と戦っている。百済や新羅が朝鮮半島の南に位置していたとしたら、大変な大遠征をしなければならないことになる。高句麗と薩水で戦えるということは、その近くに国があったとしか考えられないのである。