持統天皇、山田寺

山田寺跡
磐余道の南限に大化改新時の右大臣蘇我倉山田石川麻呂建立の大寺があった。中門塔・金堂・講堂と南から北への直線式伽藍配置の建築様式だった。現地は水田の為礎石は殆どなくなる。昭和51年から毎年奈良国立文化財研究所によって発掘、昭和58年まで8回に及び、皇極二年(643)建立と判明。東廻廊連子窓の発見で法隆寺より半世紀も古い寺院とわかる。廻廊の礎石や講堂跡出土の銅板五尊像・その東側出土の宝蔵跡などの発掘で、豪荘な大寺であったと推定された。

濡れ衣を着せられ、自殺させられた石川麻呂

大化5年(649)3月24日、事件は石川麻呂の弟、蘇我臣日向(そがのおみひむか)の密告にはじまる。日向は皇太子・中大兄皇子に、「僕(やつかれ)が異母兄・麻呂、皇太子の海浜に遊べませるを伺ひて、害はむとす。反(そむ)きまつらむこと、其れ久しからじ」(日本書紀 大化5年3月の条)と告げる。「 私の異母の兄である麻呂は、皇太子が海辺で遊んでいる時を狙って暗殺しようとしています。」 と密告したのである。皇太子はこの密告を信じ、天皇に伝えた。天皇は使いを麻呂大臣のもとへさしむけその虚実を問いただす。大臣は「問はせたまふ報(みかへりこと)は、僕面(やつかれまのあたり)天皇之所(みもと)に陳さむ」「問われている事は、天皇の御前で申しひらきをいたします。」と訴えるが、天皇は聴き入れず、軍を興こして大臣の宅を囲もうとする。
大臣はちぬの道(現在の大阪府泉佐野市付近を通っている道)より逃げて大和の国に向かう。山田寺の造営にあたっていた大臣の長男興志(こし)は、父が逃げて来ることを聞いて今来(いまき:大和国高市郡の総称)の大槻の木の下で迎えて寺に入る。
興志は「自ら打って出て、来る軍を迎え防ごう」と進言するが大臣は許さず。その夜、興志、試みに小墾田宮(をはりだのみや)を焼こうと兵を集めるも、大臣から「汝(いまし)身(み)愛(をし)むや」と言われる。大臣は山田寺にいる僧や長男の興志と数十人を集め、「夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふることを構へむ。何ぞ父に孝ふことを失はむ。凡そ、此の伽藍は、元より自身の故に造れるに非ず。天皇の奉為に誓ひて作れるなり。今我身刺【身刺(むざし):蘇我臣日向のあざな】に譖ぢられて、横に誅れむことを恐る。聊に望はくは、黄泉にも尚忠しきことを懐きて退らむ。寺に来所以は終の時を易らかしめむとなり」と述べて、仏殿の戸を開き、仰ぎて「願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ。」と言い残し、石川麻呂は首をくくり自殺、妻子のほか8人が殉死した。讒言の翌日に、石川麻呂一族は滅びたのである。この事件の一月後、日本書紀、大化5年4月の条には、「夏4月の乙卯の朔甲午に、小紫巨勢徳陀古臣に、大紫を授けて左大臣とす。小紫大伴長徳連字は馬飼に、大紫を授けて、右大臣とす。」とある。
山田寺造営工事は当然中断されたが、程なく謀反は讒言であった事が発覚し、15年後に再開、天武天皇の時代に塔を、続いて講堂を建てた。造営の継続には石川麻呂の弟の蘇我連子や、孫娘の鵜野讃良(うののさらら:後の持統天皇)が深くかかわったとされる。寺観は平安遷都後も連子の子孫の石川氏などによって保たれていたが、やがて回廊が倒壊、12世紀後半には金堂や塔も焼失したようだ。今は特別史跡。その説明板に描いてある盛時の復元図を見ると、金堂と中門は法隆寺と同じような二重屋根の入り母屋造り、塔は五重、回廊は片側通路の単廊、講堂は平屋の入り母屋だ。伽藍全体に優美さが漂う。

「乙巳の変」を中大兄とともに起こしたのが蘇我倉山田石川麻呂です。645年「乙巳の変」の前年の 644 年(皇極3年)の正月に、石川麻呂は中臣鎌足の助言によって、自分の長女を中大兄に嫁がせようとします。 いわゆる政略結婚です。ところが、この長女は蘇我日向(そがのひむか)によって奪われてしまいます。これ を知った次女は自らが中大兄の妻となります。

その次女が、のちに 持統天皇や、建王のお母さんである越 智娘のことではないかと言われています。

641年 蘇我石川麻呂が山田寺建設に着手する
645年 乙巴の変で蘇我の入鹿が殺害される。この年持統天皇が誕生
649年 蘇我石川麻呂が、藤原鎌足と天智天皇(持統天皇の父)の謀略と思われる事件に巻き込まれ、山田寺で一族(三男一女と共に)と共に自害する。この時、石川麻呂の娘達は難を逃れるが、その後越智媛は持統天皇や大津皇子の母である大田皇女を産み、姪媛は御名部皇女(高市皇子の妻)や元明天皇を産む。祖父が子孫を守ったとも取れる自害であった。
さらに、石川麻呂の遺体の首を追っ手が切ったりし、越智媛は、それが元で心を痛め(夫が父、母、男兄弟を亡きものにしたためと思われる)数年後に亡くなる。(4−5歳の持統天皇)

「磐余(いわれ)の路」のそばに自らが造営中だった山田寺に入りました。石川 麻呂の子どもたちは父に挙兵を勧めますが、石川麻呂はこれを拒否します。そして、山田寺の法師たちを 集めて、「この山田寺は、自分のために造ったのではない。天皇家の為に造営したものだ。今、私は日向の 密告によって、殺されてしまうだろう。この寺にやって来たのは、忠誠心を抱いたまま死ぬためにやってきた のだ」と言い残して、自ら果てます。翌日の夕方、山田寺に到着した日向は、部下の二田塩(ふたつたのし ほ)に命じて、石川麻呂の首を斬らせました。

造媛
石川麻呂の次女が造媛。造媛は、中大兄の后でもあったのですが、父親が二田塩に斬られたと 聞き、「しほ」ということばを嫌い、近習の者は塩のことを堅塩(きたし)と言ったという記述も残っています。そ して、造媛はお父さんを失った傷心の余り、死んでしまうのです。
造媛が死んだというのを聞いた中大兄は、「愴然傷怛み哀泣しびたまふこと、極甚し」と、自分の妻の死を 悲しむ。いろいろあって妻が亡くなったので、とても悲しんだ。もっとも、自分が奥さんの父親を殺しているわ けですから、仕方ないといえば仕方ないのかも知れませんが。造媛の死を悲んだ。

斉明天皇の孫、越智娘の子の建王の死

658年の五月、皇孫(みまご)建王(たけるのみこ)、年(みとせ)八歳(やつ)にして薨(みう)せましぬ。今城(いまき の)谷の上に、殯(もがり)を起(た)てて収(をさ)む。天皇(すめらみこと)、本より皇孫の有順(みさをか) なるを以ちて器重(ことにあが)めたまふ。故(かれ)、哀(かなし)びに忍びず傷慟(いたみまと)ひたまふ こと極めて甚(はなはだ)し。群臣(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「万歳千秋(ば んざいせんしふ)の後に、要(かなら)ず朕(わ)が陵(みささぎ)に合(あは)せ葬(はぶ)れ」とのたまふ。 迺(すなは)ち作歌(みうたよみ)して曰はく、

今城(いまき)なる 小山(をむれ)が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か歎かむ其一(紀一一六)
射(い)ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ川上(かはへ)の 若草(わかくさ)の 若くありきと 吾が思(も)はな くに其二(紀一一七)
飛鳥川 漲(みなぎら)ひつつ 行く水の 間(あひだ)もなくも 思ほゆるかも其三(紀一一八)

とのたまふ。天皇、時々(ときとき)に唄(うた)ひたまひて悲哭(みね)したまふ

建王を傷む歌
658年です。10月 には、和歌山県の白浜に行幸します。
冬十月の庚戌(かうしゆつ)の朔(つきたち)にして甲子(かふし)に、紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。 天皇、皇孫建王(みまごたけるのみこ)を憶(おも)ほしいでて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまひ、乃 (すなは)ち口号(こうがう)して曰(のたま)はく、
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(いまき)の内(うち)は 忘らゆましじ其一(紀一一九) 水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり 後(うしろ)も暗(くれ)に 置きてか行(ゆ)かむ其二
(紀一二〇)
愛(うつく)しき 吾(あ)が若き子を 置きてか行かむ其三(紀一二一)
とのたまひ、秦大蔵造万里(はだのおほくらみやつこまろ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく「斯(こ) の歌を伝へて、世に忘らしむること勿(なか)れ」とのたまふ。

さらに斉明天皇は、この歌を歌うわけで す。
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(いまき)の内(うち)は 忘らゆましじ其一(紀一一九)
山を越えて海を渡っても、と歌います。飛鳥から白浜への旅は、巨勢(こせ)というところを通って、吉野川 (紀ノ川)を下っていく行程。

(天智)天皇の崩りましし後の時に、倭大后の作らす歌一首
人はよし 思ひ止むとも 玉蘰(たまかづら) 影に見えつつ 忘らえぬかも
(2・一四九)

天智天皇の大殯(たいひん)の時の歌
最初の歌は、
かからむと かねて知りせば 大御舟 泊(は)てし泊まりに 標結はましを
額田王(2・一五一)

最後の歌です。
やすみしし わご大君の 大御舟 待ちか恋ふらむ 志賀の唐崎
舎人吉年(2・一五二)

倭姫 倭大后=天智天皇の妃 子女は無

大化元年9月12日(645年10月7日)、父・古人大兄皇子が謀叛の疑いで中大兄皇子(後の天智天皇)に攻め殺される。天智天皇7年2月23日(668年4月10日)、中大兄皇子が天皇に即位したことにより大后となる。
舒明天皇の孫。古人大兄皇子の子。「倭」の名は、百済武寧王の後裔を称する渡来氏族の倭(やまと)氏に養育をうけた故であろう。天智七年(668)二月、大后となる。天智天皇の危篤および崩御の際に詠んだ歌四首が万葉集に収められている。
天智天皇が病に倒れた際、大海人皇子(後の天武天皇)は「倭姫王が即位し、大友皇子が太政大臣として摂政を執るべき」むね進言した。また、天智天皇崩御後に倭姫王の即位または称制があったとする説もある。

乙巳の変

大臣・蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのため、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(厩戸皇子の子)の存在が邪魔になり、643年11月、入鹿は斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。

645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った

IMG_3111.GIF