怡土県主、五十迹手と山幸彦

高祖神社 たかすじんじゃ
福岡県糸島市
祭神
天津日高彦火々出見命、玉依比売命、息長足姫

ホホデミ(山幸彦)は豊玉姫と結婚して、ウガヤフキアエズを生む。ウガヤフキアエズは、玉依姫と結ばれて、神武天皇を生む。

糸島のどこからでも目に入る秀麗な山が高祖山。標高416m。
山には城があり、麓には神社がある。
平原遺跡も三雲遺跡も細石神社も日向峠も田んぼの向うです。神功皇后は凱旋後、神恩に報いようと神殿を建てますが、それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。

五十迹手伝承がある。この神社は怡土県主が祀る神社である。

福岡県神社誌によれば
社説に曰く、当社の創立の起源ははっきりしないが、怡土県(いとのあがた)の鎮土の社として上代から鎮座していて、怡土県主(いとのあがたぬし)の崇敬が厚かったことがはっきりしている。

怡土県主・五十迹手(いとて)の勤王ぶりはひとえに当社を尊崇しているからだと思われる。神功皇后が三韓を征伐する時、香椎宮からここまで御幸があって、高祖の神に異国降伏の御恵みを祈願されて、その通りに神助が深くあったので、皇后は帰還ののち、報恩のお祭りとして新たに御宮を造り、乾に向かって御社を建てられた。

時代が下がって、奈良朝の孝謙天皇の御代に吉備真備に命じて怡土城を築かせたが、その時、当社を怡土(いと)城の鎮護の神とされた。当社は城内の中央の岡の上にある。
三代実録に(略)高磯比咩神従五位下とある。

五十迹手(いとて)とは

五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。

筑前国風土記逸文に、「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」と紹介されているように、天日槍の子孫が伊蘇国と名づけ、それが訛って、伊都国になったという。

日本書紀
仲哀天皇・神功皇后の熊襲遠征の記事

時に岡県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(おやわに)、天皇の車駕(みゆき)を聞き て、予(あらかじ)め、五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を抜き取りて、以て九尋 (ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝(かみつえ)には白銅鏡(ますみの) を掛け、中枝(なかつえ)には十握(とつか)剣を掛け、下枝(しもつえ)には八尺瓊 (やさかに)を掛けて、周芳(すわ)の娑麼(さば)の浦に参り迎ふ。〈仲哀紀8年〉

又、筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)、天皇の行を聞き、 五百枝の賢木を抜き取り、船の舳艫(もとへ)に立て、上枝には八尺瓊を掛け、中枝に は白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(あなど)の引嶋(ひきしま)に参り 迎へて献る。〈同上〉

穴戸まで出迎えて、迎えたようです

景行12年、9月、周芳の娑麼

爰(ここ)に女人有り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰ふ。 其の徒衆(やから)甚だ多し。一国の魁帥(ひとごのかみ)なり。天皇の使者至るを聆(き)きて、 則ち磯津山の賢木を抜きて、以て上枝には八握剣を挂(か)け、中枝には八咫(やたの)鏡を挂け、 下枝には八尺瓊を挂け、亦素幡(しらはた)を船の舳に樹(た)てて、参り向ひて啓して曰く、 ‥‥‥〈景行紀〉

同じタイプの説話である
違う点は舟の上の三つの枝に飾る宝器の順序だけだ、と古田さんは指摘している。

 播磨国風土記に「天日槍は伊都志に在しき。」とあり「伊都志」は「いつし(出石)」とされています。しかし、「伊豆志」と「伊都志」を使い分けていること、天日槍の子孫とされる糸井造ゆかりの地、糸井郷に天日槍の岳父(奥さんのお父さん)を祭る佐伎都比古阿流知命神社があることから、「但馬二千年桂」では、「伊」と「都」が組み合わさった場合は伊都国のように「いと」と読み、「伊都志」は、「いとし」で糸井ではないかという仮説もあるようです。

玄海灘を挟む朝鮮半島南部と西北九州は縄文時代か ら一つの文化圏。これを物語る遺跡が双方に。壱岐から 伊都を目指した古代の人々は火山・可也山を目標に引津 湾に入り、加布里港近くを河口とする雷山川を遡り、 泊・志登付近で小舟に乗り換え、波多江・有田・平原・ 三雲に上陸したのであろう。
古代志摩半島は引津湾・博多湾の両方から入江となり、 志登周辺が志摩と怡土を結ぶ陸橋であったという。志登 から雷山川を少し遡った池田・波多江に産宮神社(祭神 奈留多姫・玉依姫・彦ウガヤフキアエズ)、波多江神社 (祭神国常立尊)。北方志登に式内大社志登神社(祭神 豊玉姫・彦火火出身尊)。周辺は国史蹟志登遺蹟群。弥 生後期後半から古墳時代にかけて竪穴住居跡約百、堀立 小屋二十~三十、支石墓十、甕棺八出土。

神功皇后紀に伊都縣主五十迹は、加耶の王子 天日桙の子孫と称したと記されている。志摩には加耶に 因む地名が多い。可也山、芥屋、加布里、加布羅等。加 布里は乾拓を祀い歌舞した古事に因むとの説もある。

南の高祖山山頂に七五六年、太宰大弐吉備眞備が築いた怡土城跡。中腹に高祖神社(祭神は高木姫。又彦火火出身尊、玉依姫との説)。もとは高木神(タカムスビ神)

平原・三雲・井原遺跡がある。曽根丘陵麓の平 原遺跡から巨大内行花文鏡ほか多数の出土品。鏡の出土 数では日本一。三世紀前半の方形周溝墓は九州最古で王 墓と目されている。三雲遺跡群は弥生時代から五世紀前 半までの住居跡と墓域が一単位をなしたものが群在。樂 浪系漢式土器の密集地で怡土国の中心地と目され、井原 鑓溝遺跡は後漢鏡が多数出土し、王墓とされている。

志登神社(しとじんじゃ)
海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしい。ここはかつて港だった。
糸島市(旧前原市)、JR波多江駅から北へ500m強の畑の中にある。
御祭神 豊玉姫命
相殿 和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿祢命
相殿 高祖明神 志賀明神 神功皇后 高良明神 『和漢三才図会』
相殿 高祖明神 神功皇后 高良明神 『筑前国続風土記』

鰐河神社 讃岐國三木郡 和尓賀波神社
御祭神 豊玉姫命 應神天皇

 太古の昔、豊玉姫神、鰐魚に乗り、この地に来たり社を建立緒神緒仏遊戯の地となりぬ延喜式内、和称賀波神社はこの産社なり

香川県三木町にある。高松琴平電鉄白山駅から真っ直ぐに南1.5Kmほどの四條。社前を新川が流れる境内は南向き。石橋を渡って、境内に入ると正面に社殿がある。
境内右手に境内社が2つ並んでいる。本宮神社(玉依姫命)と若宮神社(宇治稚郎子命)だろうか。

創祀年代は不詳。
祭神は、豊玉姫命。社伝によれば、豊玉姫命は、讃岐国山田郡(高松あたり)に亀に乗ってやって来て、ウガヤヒキアエズ尊をお生みになり、鰐魚に乗って、川を遡り、当地に鎮座したという。よって、当社は鰐河神社となった。
拝殿には、鰐に乗った姫が当社へ向かう絵が奉納されていた。

 屋島町の鵜羽神社は、鵜茸草茸不合尊を祀り、これに関連して井戸村郷社和尓賀波神社・下高岡村郷社鰐河神社に豊玉姫命が鰐魚になって川を遡り鎮座したと伝承がある。この、どちらかが延喜式内社である。

 また、香川郡直島村の村社豊玉姫神社・豊玉依姫神社などもこれを伝承する。

延喜式内社 讃岐三宮 多和神社
さぬき市志度121 (志度町大字志度字越窓)
志度の地、古くは多和と称し、玉の浦は多和の浦の轉訛にして、讃留霊記の附録にも多和神社志度村多和志度舊名なりとある。

『速秋津姫命』この地を去るに及びて土人「大久支古」に眞澄鏡を授け給ひて、こを我が御魂と取託て多和の水門を祓戸と定め、國人此処に集ひて祓せば犯せる罪も自ら失せなむ
ここに其の御鏡を御魂實として多和大神と鎮めましきと云ふ。
ご祭神 速秋津姫命
相殿
大鞆和氣命
帯仲津彦命
天照大日孁尊
息長帯姫命
大雀尊
倭武尊

寛平六年(895)、大祝讃岐朝臣春雄が神託によりて相殿六柱の神を奉齋してより多和八幡宮と称する。
当初、志度寺の傍ら(現弁天宮)に鎮座していたが、文明11年(1479)兵火により焼失、元和九年現今の地に遷座する。寛文11年(1671)高松藩主松平頼重公が志度寺再興に際して現在の鎮座地に社殿を新営し遷宮された。