弘法大師 空海

勤操大徳 : 弘法大師空海の師

天平勝宝六年(754年)、大和国高市に生を受けました。

 弘法大師の『勤操大徳影の讃序』によると、父は秦氏、母は嶋史氏で、初め子がないのを憂え、駕竜寺に詣でて一子が授かるよう祈ったところ、在る夜、明星が懐に入るという霊夢を見て懐妊したとされ、生まれてまもなく父とは死別。母の手一つで養育されたようです。

 12才で大安寺信霊の門に入り、16才にして「南獄の窟」に登り修行したとあります。そして23歳のころ具足戒を受け、大安寺僧として善議大徳に師事し三論の奥義を授けられました。

 次第に三論の法匠として頭角をあらわし、弘仁四年(813年)には伝灯大法師位として律師に任ぜられ、嵯峨天皇は勤操律師に大極殿において最勝王経を講ぜしめられました。

阿刀大足と空海
空海の叔父にあたる、都にいる「阿刀大足」(あとのおおたり)という政界の実力者の推奨を受けたと思われます。阿刀大足は桓武天皇の息子である伊予親王の侍講(個人教授)を務めている実力者でもありました。阿刀大足は空海を大学に入れるために自ら儒教などを教えたりして力を注ぎましたが、空海が大学を中退して仏道に進むときに強く反対したといわれています。

玄昉
奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)
義淵に師事。717年(養老元年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の735年(天平7年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した[4]。736年(天平8年)封戸を与えられた。翌737年(天平9年)僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。
聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの740年(天平12年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌741年(天平13年)7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している[5]。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌746年(天平18年)任地で没した。