弓月君、秦氏、蚕

百済より弓月の君が来た。「百済の120県に住んでいた」と伝わる。
新羅が阻んだ
高句麗が百済を攻撃した370年以降の出来事でしょうか?380年ごろか?

新羅や百済本記に弓月君の記載がない。

【新羅本紀】 369年 高句麗王斯由(故国原王)が歩兵・騎馬3万人を率いて雉壌(黄海道延白郡か)に結集略奪。百済急襲・応戦。

370年ころ:斯盧の奈勿ナモツ王は即位15年ほどであったが、辰韓諸国を統一して国名を「新羅」とした。

371年 高句麗軍大挙して来襲、バイ河(臨津江か)にて応戦。百済王近肖古王以下3万で高句麗平壌を攻撃、高句麗故国原王は流れ矢に当たり戦死

371年:百済は王都を慰礼城より漢山城に遷した。同じ年百済肖古王は高句麗の平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させた。高句麗では、小獣林王が立った。

375 年 百済・高句麗の戦い(三国史記)
375年:百済肖古王が亡くなり、王子の近仇首王(在位375−384年)が立った

385年 高句麗遼東を奪取(高句麗本紀)
百済辰斯王即位(百済本紀)

391年 倭が百済新羅加羅を破る(好太王碑文)

393 年 倭人が金城を包囲(新羅本紀)
402年 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀)

『日本書紀』巻十応神天皇十四年(癸卯二八三)是歳◆是歳。弓月君自百濟來歸。因以奏之曰。臣領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒。皆留加羅國爰遣葛城襲津彦。而召弓月之人夫於加羅。然經三年而襲津彦不來焉。

応神紀十四年 弓月君、百済より来帰り。因りて奏して曰さく。「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅國に留れり」とまうす。 ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。

『日本書紀』巻十応神天皇十六年(乙巳二八五)八月◆八月。遣平群木菟宿禰。的戸田宿禰於加羅。仍授精兵詔之曰。襲津彦久之不還。必由新羅人拒而滞之。汝等急往之撃新羅披其道路。於是木菟宿禰等進精兵莅于新羅之境。新羅王愕之服其罪。乃率弓月之人夫。與襲津彦共來焉。
応神紀十六年 平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わす。(中略)       乃ち弓月の人夫を率て、襲津彦と共に来り。

『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢
太秦公宿禰
 出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王(一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。

忌宮神社

仲哀天皇元年に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。

仲哀天皇8年に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請・合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。

 忌宮神社の伝承では、弥生時代の仲哀7年、新羅軍などが、仲哀天皇率いる朝廷軍を攻めた。仲哀天皇は敵将・塵輪(じんりん)を弓で射抜き、その首を埋葬して、石でふたをした。塵輪が鬼の形相であったことから、その石を「鬼石」と呼ぶようになったという。

牛窓の神功皇后伝説
塵輪鬼ちんりんきと 牛鬼ぎゅうき
(岡山藩士大澤惟貞「吉備温故秘録」・逸文「備前風土記」など)
仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后が同道で三韓に向かう途次のこと、牛窓の浦で、塵輪鬼(ちんりんき)という頭の八つある怪物が、黒雲に乗って襲ってきた。天皇が討つと、首と胴と
に分かれて海に落ちた。首は鬼島(きしま・今の黄島)、胴は塵輪島(今の前島)、尾は尾島(今の青島)となった。
しかし、鬼も天皇を矢で射り、そのため天皇は崩じた。そのとき、皇后は海辺を逃げる異人の王子を見付け、追い射止めた。それは、新羅の王子「唐琴(からこと)」であった。そこで、この牛窓の瀬戸を「唐琴の瀬戸」と呼んだという。その後、皇后は住吉明神(今の五香宮[ごこうぐう])に戦勝祈願し、男装して出征した。凱旋の途次、この浦にさしかかったとき、塵輪鬼の魂魄が牛鬼となって船を覆そうとした。その時、住吉明神が白髪の翁となって現れ、牛鬼の角を捉えて投げ倒した。そこでこの地を、「牛転(うしまろび)」と言うようになったが、のちに訛って「牛窓(うしまど)」となった。牛鬼の死骸は骸島(むくろじま・今の黒島)となり、腸(はらわた)が百尋岨(ひゃくひろそわえ)となった。