広瀬神社

創建
崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地社殿を建て祀られるようになる。(神社縁起)
日本書紀天武天皇四年四月十日(675年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祭られたことが記されている。

鎮座地
奈良県北葛城郡河合町大字川合。
JR法隆寺駅から2km

河合の地域
大和川が蛇行しながら、東から西へ流れ、東から寺川、飛鳥川、そして、葛城川が曽我川に合流して、大和川に注いでいます。北から流れてきた佐保川と富雄川も大和川に合流している河合の地域です
奈良中のすべての川が合流している所になります。
奈良盆地で最も海抜が低い(海抜 ほぼ40m)。

 

【主神】 若宇加能売命
 【相殿】 櫛玉命 穂雷命 

由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことである。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。 

江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっている。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)。

同じく、「和州広瀬郡広瀬大明神之図」に神社の南方に、定林寺が描かれています。定林寺は、廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、金堂(本尊・弥勒)、講堂(本尊・釈迦)三重塔・太子堂、経堂、食堂、鐘楼、天神社、弁財天社、楼門などのある大伽藍で、聖徳太子が推古天皇の病気平癒祈願に建立したと注記。

現在、寺の遺構はない。同図に神社西方に描かれていた神宮寺のところに、江戸中期に定林寺が移ったらしい。現在、そこに定林寺と称する護摩堂一宇が残るのみです。

神社のすぐ、西には、前方後円墳の城山古墳と大塚山古墳。ほかにも五基の古墳。東には、島の山古墳があります。大塚山古墳と島の山古墳は、同じ方向を向いて造られていますから、同じ系統の人たちが、広瀬神社を挟んで勢力を有していたか?

神社から、南西の方角、2.5kmのあたりに、馬見丘陵古墳群。

饒速日命の末裔の一部の人が、奈良盆地でもっとも条件の悪い低湿地で生活していた?