巴形銅器

日本列島で今までに出土した筒形銅器の数は71本で、朝鮮半島での出土例はかっては数個だった。しかも、巴形銅器、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)、碧玉製石鏃(せきぞく)など日本の前期古墳の副葬品を特徴づけるものと一括して出土している。したがって、何らかの目的で日本列島からもたらされたものが、半島で出土したとする説は 妥当?

 第二は、巴形銅器だ。井原(糸島)、桜馬場(唐津)から、この異形の、見事な銅器が出土したことは、すでにのべた。ところが、井原と同じ糸島郡の古墳たる丸隈山古墳(横穴式)に、巴形銅器が埋蔵されていた。
 この特徴的な器物についても、糸島郡において、古冢(弥生)時代から古墳へ、と文明が連続していることは疑いないのである。

巴形銅器とスイジ貝
    一般的には4本脚の形を指すらしいが、これは4世紀になってから見られるのであって、似たようなものとして、弥生時代後期(2世紀末)からスイジ貝を模したと思われる形器が出土しているらしい。脚は6~8本とばらつきがあるという。
貝そのものは法螺貝よりは中央が丸くて生物学的には脚は6本。それが時代とともに装飾性が加味されて脚の数が増えたり、中央のとんがりが階段状になったりした挙句に突起はより明瞭になって脚は4本に収束したのが4世紀後半(東大寺山古墳など)。

弥生時代の巴型銅器の脚状突起は7本から9本。
一方、古墳時代の巴型銅器の脚状突起は4本から5本とされています。
武石出土の巴型銅器はその形状からして弥生時代に比定されるものです。

大阪府の黄金塚古墳

実は、つい近年まで「巴型銅器」が何に使われたか不明でした。
最近、大阪府の黄金塚古墳から楯に配された3個の巴型銅器の出土
によって、その用途が解明されるに至りました。「景初三年鏡」(画文帯神獣鏡)が出土した古墳

「景初三年」画文帯神獣鏡 三角縁盤竜鏡他 計6面 和泉黄金塚古墳
大阪府和泉市

信太山丘陵先端に位置する、二段築成と推定される墳丘をもつ前方後円墳で、その規模は全長約94m、後円部は直径約60m・高さ約9m、前方部は推定幅約42m・高さ約6.5m
本古墳後円部の粘土槨に木製棺の埋葬施設が3つ平行に並んでいたらしい。
後円部の3基の粘土槨のうち、中央槨は長さ8.7mほどの割竹式木棺,東棺と西棺は長さ4mほどの箱形木棺と考えられている。

1950年から1951年にかけて、発掘調査が実施されが、中央槨の棺内からは半三角縁二神二獣鏡・勾玉・管玉・石釧・車輪石などが、棺外からは景初三年銘の画文帯四神四獣鏡・鉄刀・鉄剣・鉄斧・鉄鎌などが出土。

東槨からは、棺内から三角縁盤龍鏡・画文帯四神四獣鏡(2面)・甲・冑・勾玉・管玉・鍬形石・水晶製大型切子玉などが、棺外からは鉄槍・鉄鉾・鉄鏃などが出土したと云う。

これら多量の出土品は、一括して国の重要文化財に指定されており、東京国立博物館に所蔵されているらしい。

古墳時代前期の古墳から硬玉翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が出土する事が多く、大阪府和泉市黄金塚古墳では、大小の勾玉が三十四個も見つかり、この内には翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)が二十六個が含まれている

さぬき市森広遺跡

遺跡の範囲は森広遺跡(石田高校校庭含む)・森広天神遺跡・加藤遺跡・石田神社遺跡(平形銅剣出土)からなる遺跡群で構成される。
これらの遺跡からは100軒以上の竪穴住居が出土しており、長い期間に地域の中心的な存在であったことが窺い知れる。
森広天神遺跡からは巴形銅器が発見されており、全国で22例しか発見されていない貴重な遺物でそのうち8個が出土した。

巴形銅器鋳型 弥生時代後期 2世紀頃
九州大学埋蔵文化財調査室蔵品

 全国で2例目の巴形銅器の鋳型である。石製で、黒変していることから実際に使用していることがうかがえる。なお、この鋳型で製作した製品が香川県さぬき市森広天神遺跡より出土していたことが判明した。鋳型と製品が合致するのは銅鐸を除いて初めてであり、弥生時代の九州と瀬戸内との交流を示す資料である。

 九州大学埋蔵文化財調査室は2008年4月17日、福岡県の同大敷地から出土した弥生時代後期(2世紀ごろ)の巴(ともえ)形銅器の鋳型と、香川県の遺跡から出土した巴形銅器3点が一致したと発表した。弥生時代の青銅器で、銅鐸(どうたく)以外で鋳型と製品が完全に一致したのは初めてという。

 鋳型は98年に、福岡県春日市と大野城市にまたがる同大筑紫地区遺跡群から出土。石英長石斑岩製で縦6.4センチ、横7.4センチの方形状で全体の4分の1が残っていた。一方、巴形銅器は1911年に香川県さぬき市の森広遺跡から出土した3点で、東京国立博物館に収蔵されていた。

 同調査室によると今年1月、鋳型と巴形銅器を重ね合わせたところ、巴形の脚間の幅や曲がり具合、脚裏面の中心線などが完全に一致。3点がこの鋳型から製造されたことが確認された。このことから、少なくとも3回は同じ鋳型での鋳造が可能ということが明らかになった。

吉野ヶ里の巴型銅器鋳型片
盾の飾り金具や魔除け、まじないに使われていたといわれる巴形銅器。鋳型片の出土は国内で初めて。吉野ヶ里は弥生時代の最先端の鋳造技術を持っていた

博多区那珂遺跡群
今のところ全国で3例目の弥生時代の巴形銅器の鋳型が出土しました
この巴形銅器の鋳型は江戸時代に青柳種信が記録を残した、現在の糸島市井原で出土した巴形銅器に類似しています
遺跡(前原市)から出土した銅器と極めて似ていることから、市教委は「奴国で製造された銅器が、伊都国王墓に副葬された可能性が高く、貴重な発見」としている。
市教委によると、出土したのは、青銅を流し込み、冷やして固める巴形銅器鋳型の一部で、大小二つの石片。7月に見つかり、大きい石片の最大幅が10.8センチで、鋳型全体は復元すれば、縦18.5センチ、横17センチ以上、厚さ6.5センチだったと推定される。
青銅を流し込む溝に、綾杉文と呼ばれる羽状の文様が掘られていることや、製造されたヒトデ形の銅器が、直径15センチ前後の大型だったとみられる点が特徴。巴形銅器は、弥生後期-古墳前期、装飾具や権威の象徴として用いられたとされる。
綾杉文や大きさが、井原鑓溝遺跡から江戸時代に出土した資料が残る巴形銅器の記録と非常に似ており、市教委は「奴国と伊都国の関係を考えるうえで、興味深い」としている。

桜馬場遺跡出土の巴形銅器

盾などにはめ込んでいたようである。3個発見された。
桜馬場遺跡出土の素縁方格規矩渦巻文鏡(ほうかくきくししんきょう)。弥生中期も発見。

唐津市・桜馬場遺跡
唐津市桜馬場遺跡は、弥生時代中期からAD1世紀あたりの後期の甕棺墓地である。松浦川左岸砂丘上に当たり、戦中防空壕構築中に桜馬場3丁目の宅地から甕棺が出土し、棺内から副葬品として、後漢鏡2面、銅釧26個、巴形銅器3個、鉄刀片1個、ガラス小玉1個が発見された。昭和30年に発掘調査が行われ、これらの副葬品を納めていた甕棺が後期初頭のものと位置づけられた。銅鏡2面は、「流雲文縁方格規矩四神鏡」と「素縁方格規矩渦文鏡」でいずれも王莽の新代から後漢初期の鏡である。有鈎銅釧は南海産のゴホウラ製貝釧をモデルとしたもので、巴形銅器は小型で、有鈎と無鈎のものがある。
これらは一括して国の重要文化財に指定され(昭和32年2月19日指定)、佐賀市城内の佐賀県立博物館にある。その豊富な副葬品から、宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡と続く、3代にわたる弥生後期の「末廬国」王墓とされている。

柳沢遺跡

柳沢遺跡の銅鐸・銅戈の伴出と言う歴史的な大発見と同時に
武石出土の巴型銅器の存在も忘れずに考え併せると何か違った角度で見えないものが段々と見えてくる。
尚、同じく武石の「鳥羽山洞窟遺跡」出土の渡来系遺物の存在も看過できません。

 佐味田古墳(奈良県北蔦城郡)、ここにも巴形銅器が出現している。古冢(弥生)期の近畿にこんなものは一切ないから、“近畿における、古冢(弥生)時代と古墳時代間の文明の断絶”を見事に証明しているのである(この点、大阪府藤井寺市国府遣跡から「弥生巴形銅器?」が出土した〈昭和五十三年十二月十七日各紙〉と伝えられるのは、本来の近畿のものか、九州からのものか、興味深い課題である〈ただし鎌倉期の地層から出土〉)。
 ところが一方、この巴形銅器なるものは、九州の古冢(弥生)・古墳時代の巴形銅器に比べると、技術的内容は全くちがっている。九州の場合、古冢(弥生)時代の井原・桜馬場出土のものも、古墳時代の丸隈出土のものも、文字通りの立体的作品だった。芸術品と言いたいほどだ。これに対し、この近畿の佐味田のもの、まるで銅板を切り抜いて貼りつけたような、何とも不細工なものなのである。
彼等近畿の工人は、その外形を新支配者から提示されて作らされたのである。その器物に対するみずからの技術的伝統なしに。このように解して、はじめて、この不細工な平面的工作物としての巴形銅器の存在が、ありていに理解せられるのではあるまいか。

巴型銅器 丸隈山古墳
井原(糸島)、桜馬場(唐津)から、この異形の、見事な銅器が出土したことは、すでにのべた。ところが、井原と同じ糸島郡の古墳たる丸隈山古墳(横穴式)に、同じく見事な巴形銅器が埋蔵されていた

熊本
弥生時代に北九州で発達した甕棺墓は、宇土市付近まで広がっていたとされています。

邪馬台国関係で比較的語られることの多い北部だけでなく、中部や南部にも触れてみたいと思います。熊本からは、弥生時代の鉄器が非常に多く出土しています。しかし、中国製の銅鏡の出土の少ないのが特徴です。

方保田東原遺跡 かとうだひがしばるいせき
時代 弥生/古墳
所在地 熊本県山鹿市方保田東原
遺物概要
巴形銅器市指定・石庖丁形鉄器。 埋文研究会20(巴形銅器+銅鏡(小型倭製内行花文鏡)+銅鏃+石庖丁形鉄器 歴博報56、弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)(銘文なし、完形7.5cm、1982年発掘、山鹿市立博物館蔵)
遺跡の内容 弥生時代後期から古墳時代前期にかけて県内最大級の集落遺跡
遺跡の広さ 約35ha(史跡指定地;約2.7ha)

 この地域は多量の鉄器が見つかると同時にうてな遺跡では中国の貨泉が見つかっている。また、方保田東原遺跡では山陰や山陽など西日本各地でつくられたと考えられる土器が多数出土していることから、交易が盛んに行われ、繁栄していたようである。

 弥生時代の大規模集落遺も「うてな遺跡」だけに限らない。吉野ケ里遺跡に匹敵する大環濠集落の方保田東原遺跡がある。また、熊本平野弥生時代の鉄器生産の中心だったらしく、鍛治工房跡の数は日本一を誇っている。

うてな遺跡

七城町の弥生時代の環濠集落であるうてな遺跡は、部分的な発掘しか行われておらず、話題にはなっていないが、環濠の大きさや集落の規模は、佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵するのではないかと言われることがある。

関東の巴型銅器

昭和63年、石岡市の常陸風土記の丘に含まれる宮平遺跡の発掘調査の時に発見された。青銅製で、全径が5cm、脚が5脚、重さが14gの小型銅器であり、魔よけに使われたものと思われる。
 巴型銅器は九州から西国地方にかけて多く見られるが、東国の発見例は数例しかなく、その意味で珍しい、貴重な遺品である。制作時期は古墳時代を考えられる。

 黄金塚古墳の被葬者は女性を中心

景初三年鏡200年伝世と副葬の謎
左右を男子の武人二人が守護するように寄り添って葬られている。だからこれを壹與の墓に見立てた学者もいた。

2013年8月10日の新聞各紙は、考古学者(同志社大名誉教授)の森浩一さんの死去を報道した。享年85歳だった。

旧制中学のころから奈良県の橿原考古学研究所に出入りし、19才(1947年)で、大学予科2年生のときに大量の短甲(たんこう・鎧)が出土した大阪府の黒姫山古墳、大学予科にまだ入学していない17才のとき(1945年12月)に、中国・魏の年号「景初三年」銘の銅鏡が出土した同府の和泉黄金塚古墳の発掘調査などに加わった。

黒姫山古墳は、堺市美原区内に残る唯一の前方後円墳です。5世紀中頃(古墳時代中期)に造られ、全長114メートル、後円部径65メートル、高さ11.6メートル、2段築成の中規模古墳です。
昭和22年(1947)に故末永 雅雄先生と森 浩一先生らにより発掘調査され、墳丘前方部の頂上とくびれ部とのほぼ中間で竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)を発見し、その中に冑(かぶと)や短甲(たんこう)などが一組になるように24領納められていることがわかりました。
 一つの古墳で24領もの甲冑を出土した例は他にはありません。石室に納められていたのは、甲冑やその付属具(頸甲(あかべよろい)・肩甲・草摺(くさずり))だけではなく、鉄刀・鉄剣・鉄鏃(てつぞく)・鉄刀子・鉄矛先・鉄石突などの武器類が大量に納められていました。人骨は発見されておらず、武器・武具類の副葬品のみを納めた石室と考えられています。
 百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)と古市古墳群(ふるいちこふんぐん)との中間、美原の地にたったひとつ作られた前方後円墳、日本国内古墳で最多数となる甲冑の出土と、謎の多い古墳。