巨瀬氏、市尾墓山古墳

巨勢氏は、大和国高市郡巨勢郷(奈良県高市郡高取町西部)を本拠とした古代雄族である。

巨勢氏の祖は、『記』孝元段によると武内宿祢の二男(『三代実録』には五男)、許勢小柄宿祢とされる。許勢小柄の母は、葛城襲津彦と同じ葛城国造荒田彦の娘・葛比売ともいうから、もっとも葛城本宗に近い姓氏ともいえそうだが、その傍証もふくめ、系譜を裏付けるものがない。

許勢小柄の子供:星川建日子・田伊刀・乎利 別名:許勢小柄宿禰・雄柄・雄韓・男韓・男柄
伝承:小柄から男人まで越に本拠をおいていた。男人の時、葛城に領地を賜り移住。これが古瀬邑。この時元々越にあった小柄の墓を男人と合葬し葛上郡稲宿の新宮山に改葬した。
(許世都比古命神社の石碑記事)伝承小柄の墓:岩屋山古墳

しかし、巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。

欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていく。

議定官としては、大化時の左大臣徳陀古から始まり、天武天皇十三年には臣姓から巨勢朝臣姓を賜わり、近江朝の御史大夫(大納言相当)の人(比等とも書く名前)は壬申の乱のときに近江方につき流刑となったが、その子・奈弖麻呂は大納言になり、その後も一族から中納言の黒麻呂・邑治・麻呂や参議堺麻呂などを輩出し、平安前期の中納言野足まで顕官として朝廷にあった。

巨瀬氏の始まり

系譜所伝によると、巨勢小柄の後は、その子の「乎利-河上-男人」と続くとされるから、この系譜が正しければ、始祖の小柄は仁徳朝頃の人となる。同族には雀部(ささべ・さざきべ)臣・軽部臣があったと伝えるが、雀部氏のほうから系譜に異議が出された。すなわち、『続日本紀』天平勝宝三年(751)二月条に、正六位下内膳司典膳の雀部朝臣真人は、「継体・安閑天皇の御世に大臣となって仕えた雀部朝臣男人は、同祖である巨勢の名をとり、治部省管理の系譜には誤って巨勢男人大臣と記されているから、それを雀部大臣と改め名を長代に伝えたい」と奏言し、当時の氏の代表者たる大納言奈弖麻呂もこれを認めたことから、この願いは許されている。これが史実であれば、巨勢臣を名乗る前の本姓は雀部臣だったことになる。

『姓氏録』左京皇別の雀部朝臣の条では、祖の星河建彦宿祢が、応神朝に皇太子の大雀命に代わって御膳に奉仕し監督をしたので、その姓氏・雀部を負ったといい、子孫は雀部の伴造であって大膳職や内膳司の膳部(かしわで)に任じた者が多かったという。

『紀氏家牒』には、「建彦宿祢-巨勢川辺宿祢(亦曰く軽部宿祢)-巨勢川上宿祢-巨勢男人宿祢」という内容の記事が見えており、この系譜だと、世代的に「巨勢小柄=建彦宿祢」ということも考えられる。

雀部(さざきべ)臣
巨勢臣傍系氏族
『新撰姓氏録』左京皇別・・・「雀部朝臣 巨勢臣と同祖。建内宿禰の後なり。星河建彦宿禰、応神の御世、皇太子大鷦鷯尊(おほさざきのみこと=仁徳)に代わり、木綿襷(ゆうだすき)をかけて御膳を掌監す。よりて名を賜いて大雀臣という」

市尾墓山古墳

高取町西部の市尾駅北方近隣にある市尾墓山古墳(全長六六Mで二段築成)は馬具などを含む豪華な副葬品、埴輪Ⅴ式、木製埴輪などを出して六世紀前半の古墳とされ、男人の墳墓とする見方(河上邦彦氏など)がある。近隣には、国際色豊かな副葬品をもつ宮塚古墳(全長約五〇M)もある。この辺りから、西南の巨勢寺塔跡のある御所市古瀬にかけての地域が巨勢氏の主要居住地とみられている。巨勢山口神社もあり、巨勢寺の付近を巨勢川が流れる。

5世紀代、すなわち河内政権時代に築造された前方後円墳は、竪穴式石室に長持型石棺という埋葬施設であったが、この市尾墓山古墳は、新しく朝鮮半島から導入された横穴式石室に加え、刳抜式の家形石棺を内蔵するという、新タイプの埋葬施設を持つ前方後円墳だ。この墓山古墳の横穴式石室は、大和地方で最古式とされる平群の椿井宮塚古墳の横穴式石室と同系統の持ち送りの強い構造を持ち、椿井宮塚古墳同様、大和の導入期の横穴式石室に位置づけられる。更に家形石棺の形状も、発生期ものに位置づけられ、継体天皇の父彦主王の墓といわれる滋賀県高島町の鴨稲荷山古墳出土の家形石棺と同型であり、また使用されている石材も二上山産の白色凝灰岩と両者は共通している。

横穴式石室に前方後円墳というの墓制は、その後倭国の支配者層の標準的墓制となったが、その初現が市尾墓山古墳ということになる。

昭和53年(1978)に橿原考古学研究所がこの古墳の発掘調査をおこなった。その結果、後円部に初期の横穴式石室が築かれ、凝灰岩製の巨大な刳抜式(くりぬきしき)家型石棺が見つかった。石室の規模は全長9.5m、玄室の長さ5.9m、幅2.6m、高さ2.9m、右片袖の羨道は3.2m幅1.8m、高さ1,7mを計測した。珍しいことに、奥壁側にも長さ2m、幅2.1mの羨道が設けられている。2つの羨道を持つ古墳の例としては、飛鳥の真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳がある。

抜式家型石棺の大きさは、長さ2.6m、幅1.3m、高さ1.4mで、大和の古墳としては最大級の規模を誇る。すでに盗掘されていて、石棺内にはガラス玉しか残っていなかった。だが、石室内からは多くの武器・馬具・玉類・土器などが出土した。こうした出土品や石室、石棺の構造によって、墓の築造時期は6世紀初め頃と特定された。

市尾墓山では轡がはっきりしないが、異形剣菱形杏葉や鳥嘴形居木先飾金具とともに辻金具に鋲で鍛接した状態のものを含め革帯金具が70個体も出土している。なお市尾墓山は継体朝の大臣となった巨勢男人(529年没)の墓とする見解があり、これと同巧の沖ノ島出土品は、継体23年に伽耶で軍事活動を行ない、翌年失政での帰路に対馬で没した近江毛野が供献した可能性なども想像される。

後続する藤ノ木古墳B組では、鐘形杏葉・鏡板に伴って合計50個以上というやはり異常に多数の革帯金具が使用されており、鞍の覆輪の構造や鳥嘴形居木先金具の共通などからも、市尾墓山の系譜を引く馬装と考えられる。

『日本書紀』は継体天皇の朝廷で大臣(おおおみ)の要職にあった巨勢男人(こせのおひと)の名を伝えている。橿考研付属博物館の前館長だった河上邦彦氏などは、巨勢男人をこの古墳の被葬者に想定しておられる。

條ウル神古墳

 国内最大級の横穴式石室などを持つ御所市の條ウル神古墳(6世紀後半)について、同市教委は、長さ約70メートルの前方後円墳と確認したと発表した。後世の開発などで墳丘が壊されて規模や形が不明だったが、墳丘周辺の掘割(溝)などを確認した。市教委は「有力氏族でないと造れない規模」と指摘し、巨勢氏らヤマト政権下の有力豪族の墓と推測している。同古墳では2001年度の調査で、明日香村の石舞台古墳に匹敵する長さ7・1メートル以上、幅2・7メートル以上、高さ3・8メートル以上の玄室を確認。8個の縄掛け突起を持つ独特な石棺も出土して注目された。

市教委は13年から改めて調査を実施し、古墳周囲の11カ所を試掘。その結果、古墳の南側に盛り土で墳丘を造った跡があり、古墳南端にあたる幅約8メートルの掘割の一部を確認。遺構の状況から前方後円墳だったことがほぼ確実になった。市教委の金澤雄太技師は「畿内で前方後円墳の築造が終わる時期の事例として非常に貴重だ」と話している。

九州の巨瀬

筑後の浮羽郡に巨勢川(巨瀬川、九十瀬川)があって九十瀬入道の伝がある。

福岡県うきは市浮羽町妹川の大山祇神社内にある御神体の敷板には、九十瀬(こせ)入道の伝承が次の趣旨で書かれている。「妹川村地方は昔、巨勢氏の領地で、その同族の妹川朝臣が開墾した。巨勢大夫人は白鳳年中に勅命により賊を討ったが敗れて罪を蒙った。その子孫の蟻(あり)は僧となり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来住し、村民のために田園の守護神として山神を祀り、濯漑の便を図ることなどを教えた。蟻は後年自ら九十瀬入道と称したが、山に入って帰らなかったので、これを敬慕した村民が滝の傍に小祠を立て蟻権現と崇めたが、これが九十瀬水神である。

肥前国佐嘉郡に巨勢郷・巨勢神社(佐賀市巨勢町牛島にあり、巨勢大連が祭神とされる)・巨勢川があった。

筑後には、慶雲四年五月紀に筑後国山門郡の許勢部形見が見える。形見は、百済救援の白村江戦に参加して捕虜になり、長年唐にいて、遣唐使粟田朝臣真人に随行して帰国したので、その苦労に対して衣・塩・穀を賜ったということである。同じく捕虜となって帰国した人々のなかに筑紫君薩野馬などもいた。

なお、伯耆国西部の会見郡に巨勢郷・星川郷があり巨勢神社が鎮座する。また、巨勢臣の支族に巨勢神前臣があり、天智紀に巨勢神前臣譯語(おさ)が見える。その起源の地を太田亮博士は近江国神崎郡とするが、肥前国神埼郡との関係もあるかもしれない。

巨瀬男人

日本書紀によれば、巨勢男人は、武烈天皇亡き後、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が推す男大迹(ほほど)王を、物部麁鹿火(もののべのあらかい)と一緒に支持した人物で、継体天皇の代に大臣(おおおみ)として仕えた。527年に筑紫で磐井の乱が起こると、物部麁鹿火とともに将軍の一人として筑紫に下り、乱の鎮定に活躍した。没年はその2年後の529年と伝えられている。