対馬、壱岐、天照御魂神、瓊瓊杵命、素戔嗚

先代旧事本紀は・天日神命を 対馬縣主等の祖、とする。(阿麻氏留神社)
月神命を 壱岐縣主の祖、としている。(月読神社)

対馬県主祖・天日神命(対馬・阿麻氏留神社祭神)は、饒速日命の天上での妃である天道日女の父にあたります。
別名は天照御魂神です。(男神)

建比良鳥は古事記に、天菩比命の御子で津嶋県直等の祖とされている。また小枚宿祢は建比良鳥の裔で、神功皇后に従軍したともいつている。
当社の裏山の山中に境内社天神社があり、式内天神多久頭魂神社に比定する説がある。

大日孁貴神=天照大神
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)[とされている。

1.ニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵は可愛山陵 – 薩摩川内市の新田神社

2.ウガヤフキアエズ(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)とタマヨリビメ(玉依姫)の陵は、吾平山上陵 – 鹿屋市(旧吾平町)

3.ホオリ(天津日高彦火火出見尊)は、高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ) 霧島山山麓(現・鹿児島県霧島市溝辺町麓)

英彦山神社
天照大神の御子であるオシホミミを祀る神社

英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。

昔は「彦山」のみを用いていたが、享保十四年(1729)、霊元法皇より、天下に抜きん出ている霊山として「英」の美称を許され、英彦山と書かれるようになった。
創祀年代は不詳だが、一説に、継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山中で修行中、猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現し、鹿に檜の葉に浸した水を与えると、鹿は蘇生して逃げ去った。その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって上宮三社を建立したという。
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阿麻氏留神社
神社の祭神
天日神命(ヒニミタマ)。津嶋縣直の祖神として、『神名帳考證』にも「阿麻氏留神是天日神命也」とある。
『特撰神名牒』は、山城の天照御魂神社、丹波の天照玉命神社等と同じく、当社も天照國照彦火明命なるべし、と考定してゐる。阿麻氏留といふのは天照であり、それは本来この地方の神名で、「天照神」だつたのではないか。それはまた照日神(テルヒノカミ)とも称したことは、『対馬神社誌』に明らかである。

『日本書紀』の顕宗天皇三年の条に、阿閇臣事代という者が、朝命により任那に使いし、対馬を通過した際、日神が人に著って託宣したもので、高皇産霊が天地を鎔造した功を称し、「磐余の田を以て、我が祖高皇産霊尊に献れ」とのたまう。対馬下県直、祠に待ふ。
高皇産霊神の中央進出である。式内社の目原坐高御魂神社である。

多久頭魂神社(たくずだま)
長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)
天照大神、天忍穂耳命、日子穂穂出見尊、彦火能邇邇芸尊、鵜茅草葺不合尊
祭神は天照大神など5柱とされているが、本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神である。『続日本後紀』承和4年(837年)2月5日条に多久都神を無位から従五位下に叙する旨の記述があり、当社の祭神を指すものとみられる。当社は対馬特有の信仰である天道信仰の社であった。天道信仰は母子神信仰、太陽信仰、山岳信仰などが習合したものであり、当社は本来は神殿を持たず、禁足の聖山である天道山(竜良山(たつらさん))の遥拝所となっていた

那祖師神社
対馬市上対馬町豊字大多1337番地

祭神
曽戸茂利 素盞嗚尊 
合祀 天狭手依姫命、五十猛命
由緒 
対馬島上県郡の那祖師神社に式内社島大国魂神社と若宮神社を合祀している。
島大国魂神社は対馬の国魂を祀る。即ち『古事記』の島生みの段で、津島を生みたまひき。またの名を天狭手依比売といふ。による。
『津島紀略』によると、「島大国魂神を上県郡の最高峰で第一の霊山とされる御嶽の神。」と比定している。宝暦十年(1760)の「大小神社帳」では、島頭神社とし、祭神も天日神命とし、脇宮に那祖師(素盞嗚尊)、御子若宮(五十猛命)としている。
『長崎県の地名』によると、「明治七年、那祖師神社と若宮神社は独立した神社になった。」とのこと。

那祖師神社は基本的には山中などに鎮座する御子神の遙拝所であり、また親神でもあったようだ。これは曽根崎神社の例でも明かであり、祭神は素盞嗚尊となる場合がある。そうすれば御子神は五十猛神で、現在も不通浜(とおらずのはま)の先に鎮座の若宮神社の祭神である。宮司さんによると、「昔は船で参詣したが、今はそれも行われなくなった。」とのこと。

『長崎県の地名』には、「島大国魂、古くは島頭大明神は椎根島に鎮座、椎根津彦を祀った地と推定。瀬戸内海から朝鮮に渡る海部の重要な祭祀だった。」と書いている。

上縣郡 和多都美神社 名神大
上縣郡 和多都美御子神社 名神大

伝承では、山幸彦(彦火火出見尊)が辿り着いた海宮の古跡。山幸彦は、ここに三年留まり、豊玉姫命を妃としたという。

名神大社 和多都美神社
御祭神
 彦火々出見尊(ひこほほでみ)
 豊玉姫命(とよたまひめ)
御由緒
 当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」 であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中 に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。 貞観元年(八五九年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、 「三代実録」によれば、永徳元年(一三八一年)に、更に従一位を叙 せられ、名社大社の一つ に数えられた。
 縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を 造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮 殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。 そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々 出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。
 豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り 針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして 豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生 まれたものである。
満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、 海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須 の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これ を夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。  また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵) である。このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩 主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄 進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地か らの参拝が多い。
-境内由緒-

天道神社

 福岡県飯塚市天道
祭神 大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
 大日孁貴命は天照大神のことでこの神社の祭神である。創建年代は定かでないが藤原純友の乱(941年)の時、源満仲がここで祈願をし純友軍を撃滅したとする伝えがあることから、これ以前から存在した。「天道」はここの地名であるが、大分(だいぶ)から英彦山へと通ずる道沿いである

目原坐高御魂神社(めはら)

『延喜式』に、「目原坐高御魂神社二座」と、あるので、2柱の神が祀られていた。1柱はタカミムスヒとし、あとの1柱については、『多神宮注進状』に、
「外宮 目原神社 天神高御産巣日尊 皇妃栲幡千々媛命」とある。高皇産霊神の御子神のタカハタチヂヒメになります。
外宮とあるからには当然「内宮」もあるはずです。
内宮は、目原坐高御魂神社を外宮と記す『多神宮注進状』の多神社である。
多神社は『延喜式』に「多坐弥志理津比古神社二座」と、記されており、古くは多坐弥志理津比古神社という名称であり、祭神が2柱であった。
この2柱の祭神については、『多神宮注進状』に、祭神は珍子賢津日霊神尊(ウツノミコサカツヒコ)と天祖賢津日女神尊(アマツヲヤサカツヒメ)とあり、珍子賢津日霊神尊は天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)のこととしています。
内宮の多神社では天孫ホノニニギの父オシホミミとその母オオヒルメ(天照大御神の原像)を祀り、外宮では天孫ホノニニギの母タクハタチヂヒメとその父タカミムスヒを祀っている、ということになるのです。

目原坐高御魂神社が鎮座する十市郡にある竹田神社の祭神アメノカグヤマの命は、ホアカリの御子神ですが、ホアカリもまたアメノオシホミミとタクハタチヂヒメの子です。
対馬の阿麻氐留神社の祭神アメノヒミタマがホアカリと同神といわれるのは、阿麻氐留神社の祭神が神社の名前にあるように、本来はアマテル神を祀っていたと考えられているからで、アマテル神はホアカリと同神と考えられているからです。

内宮の多神社の祭祀氏族は多氏(太氏)ですが、外宮の目原坐高御魂神社の祭祀氏族は、『多神宮注進状』には、成務天皇五年に武恵賀前命の孫仲津臣が「外戚天神皇妃両神」を目原に祀ったのが目原神社のはじまり、とあります。
この仲津臣とは、『新撰姓氏録』に「多朝臣と同じ祖、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の子孫なり。
五世の孫、武恵賀前命の孫、中津臣子上(なかつおみのねかみ)、成務天皇の御世に、尾張国の島田上下の二県に悪神あり。子上を遣わして征伐した。復命申す時に、島田臣の姓を賜わった」
と、記される仲津臣子上のこととされる。
そうすると島田臣が目原坐高御魂神社の祭祀氏族ということになる
『古事記』にも、
「神八井耳命は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、
筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国
造、道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の
丹羽臣、島田臣等の始祖」
とあるので、やはりカムヤイミミを祖とする氏族のひとつとされていた
ようです。
 カムヤイミミは神武天皇と皇后イスケヨリビメとの間に生まれた皇子ですが、イスケヨリビメはオオモノヌシの御子です。

アマツヲヤサカツヒメがオオヒルメ(天照大御神の原像)である、とされているのは、多神社社伝の「社司多神命秘伝」に、アマツヲヤサカツヒメを天疎向津姫命(アマサカルムカツヒメノミコト)としているからです。

『日本書紀』仲哀天皇八年九月の記事に、天皇が熊襲を討とうと筑紫に坐
した時に、皇后(神功皇后)に神が憑き、
「吾を祀れば、熊襲は服従する。また、この海の向こうには、金銀財宝のある新羅という国がある。この国もまた服従するであろう」
と、神託を下します。
ところが、丘に登って海を眺めた天皇が、「見渡しても海しか見えない。きっと、いいかげんな神が吾をだましたの
だろう」と、言って信じなかったので、この神が再び皇后に憑き、

 「吾の言うことを信じず誹謗するような天皇は新羅を得ることはないであろう。今皇后は懐妊している。新羅は皇后が生む皇子が得るであろう」
と、語ります。
 結局天皇は熊襲征伐に失敗し、揚句、病にかかって薨去していまします
が、『日本書紀』は、天皇の死を、神託を信じなかったために神の祟りに
よって亡くなったのだ、と記しています。
 神功皇后はみずからこの神を呼びよせ、
「先日天皇に教えし神はいずれの神であるか、願わくばその名を教えたまえ」
と願うと、
「吾は神風の伊勢の、度逢(度会)縣の析鈴五十鈴宮に坐す神、名は天疎向津姫命(アマサカルムカツヒメノミコト)」
と、記している。

枚聞神社 ひらききじんじゃ
鹿児島県指宿市開聞十町
式内社 薩摩國穎娃郡 枚聞神社
旧國幣小社 薩摩國一宮

御祭神 大日孁貴命
配祀 五男三女神
鹿児島県指宿市にある。
開聞岳(922m)の北麓にあり、開聞岳遥拝する。

開聞岳を背景にしているようで、境内入口は北向き。
創祀年代は不詳。一説には聖武天皇の御代の創祀。貞観二年には従四位を授けられた古社で式内社・枚聞神社に比定されている神社。
延喜式では枚聞神社と記されているが、多くの古史料では開門神となっている。また、「綿積神社」「和多都美神社」と称する史料もあるらしい。
伝承によると、当地は山幸彦が訪れた龍宮。海神豊玉彦の宮地であるといい、よって「和多都美」と称されたようだ。
また、他の伝承によると、景行天皇の御代、池田湖が陥没し、開聞岳が出現した。僧・智通が開聞岳山腹の岩窟で虚空蔵求聞持法を修して開門神の出現を念じた時、塩土翁が現れた。閼伽水を汲んで給仕したところ、鹿が飲んで開門神を生んだ。さらに口から神女を吐き出して、北天へ飛び去り北斗尊星となった。神女は、十三歳で召されて天智天皇の妃となった。

現在の主祭神は大日孁貴命だが、上記のような海神とするものや猿田彦神とするもの、天智天皇后とするなどの異説もある。
枚聞神社(おかいもんさま)旧国幣小社
揖宿郡開聞町十 指宿線 開聞駅

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彦火瓊瓊杵尊は日子、英彦山の御子である。だからこそ彦が付いている。
英彦山は高皇産霊神の宮である。
天津日高彦瓊瓊杵命というが、祖母が天照大神、祖父が高皇産霊神である。父は、天忍穂耳である。

壱岐の神社や松浦の神社で祀られているので、これら地域の長官をつとめていたのであろう。ニキは、一大卒の長官名である。海の中道の交易を指揮していたか?

彦山神社
松浦市調川町松山田免441
彦火瓊瓊杵尊

富士山神社
南島原市口之津町丙1212
天津彦火瓊々杵命

天降神社
平戸市大島村大島前平免字通山1366
天津日髙彦火瓊々藝命

中津神社
壱岐市勝本町北触大屋226
天津日髙彦火瓊々杵尊

対馬の大国魂

北端に近い上対馬町豊(とよ)にある島大国魂(しまおおくにたま)神社
スサノオを祭神とし、「上古スサノオ、御子大己貴、五十猛を率い韓地ソシモリの処に渡り給いし時の行宮(あんぐう)(仮の宮殿)の古跡たり。今に古(いにしえ)の如く神籬(ひもろぎ)磐境(いわさか)の古制あり。里人懼(おそ)れてこの内へ人入るを禁ず故に海辺に遥拝所を置く。この州(しま)、スサノオを祭る始めの祠(ほこら)なり。
貞観十二年(870年)正五位下に除せらる云々」と伝える。
当社が神功皇后以前に祭られていたことは、厳原(いづはら)にある八幡宮神社の境内社宇努刀(うのと)神社の次の由緒よりわかる。

「神功皇后、新羅(しらぎ)征伐終わらせ給いて凱旋のとき、上県郡(かみあがたぐん)豊村(現在は上(かみ)対馬町豊)に着せ給いて島大国魂(しまおおくにたま)神社(祭神スサノオ)を拝しそれより佐賀村に着せられこの地に島大国魂神社の神霊をわかちて皇后自ら祭り給う。これ延喜式神名帳所載の上県郡宇努力神社これなるを延徳三年(1491)六月十四日佐賀村よりこの地に移し祭る、云々。スサノオをこの州(しま)に祭ること上県郡(かみあがたぐん)豊村に始まる。豊村鎮座ある地はスサノオ御子五十猛を率いて韓地に渡らせ給うときの行宮の古跡なり」とあって、先の伝承と一致している。

 さらにスサノオを祭る島大国魂神社はこれとは別に厳原町南室(いづはらまちなむろ)の乙宮(おとみや)神社の境内にも勧請されており、対馬にはスサノオの新羅渡海伝承がしっかりと根付いていることがわかる

対馬にはスサノオを島の大国魂として祭る神社が三社ある

上対馬町の豊の若宮神社
五十猛を祭神とする
「五十猛はスサノオの御子にして韓地に渡らせ給うとき、この地は行宮の古跡なり。のちその霊を祭り若宮神社と称す。古より国主の建立の社なり」と伝える。
半島に渡ったとされるスサノオと大己貴、五十猛親子の三人は、それぞれが祭神として上記三社に別々に祭られている(上対馬町豊の二社は、現在立ち入り禁止区域、あるいは陸路での交通至難ということで、豊(とよ)漁港の那祖師(なそし)神社に合祀されている)。

 上対馬町河内の岩楯(いわたて)神社
由緒には「往昔スサノオが韓土より帰り給うとき、この浦に御船を寄せ給いしという。よりて後年に至り神徳を仰ぎ祭るところなり」とある。この社の祭神はスサノオ,五十猛,蛭子(ひるこ)である