安閑天皇、高屋神社、屯倉

安閑の父・継体天皇と物部氏

継体天皇を擁立し、磐井の乱を平定した、物部麁鹿火(あらかひ)は、継体の子の安閑・宣化の代にも大連を務めています。

安閑の后の一人・宅媛は物部木蓮子の娘で、物部麁鹿火の叔母にあたります。

高屋連

「ニギハヤヒ十世の孫、伊己止足尼(いことすくね)大連の後なり」

と記され、物部の系統に属し、高屋神社の鎮座する古市一帯を支配していた豪族のようです。また安閑の妃として、物部木蓮子連の娘である宅媛が嫁いでいますから、彼の王権が幾重にも物部(もののべ)たちの武力によって支えられていたことを窺わせます。伊己止足尼は「五十琴宿禰」とも表記されることから、この人物の妹・五十琴姫命が第十二代景行帝に嫁いで男子(五十功彦命)を儲けています。また、彼の妻の名が香児媛(カゴひめ)である。

安閑の時代の屯倉
全国規模で屯倉を設置

安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉士に「屯倉の税を主掌らし」める詔の記事が記載されています。おそらくは、上記の通り列挙した全国各地の屯倉に向けて、徴税を行うべく記載の人物を大和政権内部から派遣したものと思われます。
あるいは、宣化天皇元年五月条にある通り、尾張地方の首長らしき尾張連なる人物が、蘇我大臣稲目宿禰の命により尾張屯倉の穀(もみ)を運ぶ役目を負ったように、大和政権より何らかの官職を任命された者もおります。

継体天皇二十二年条
筑紫国:1個所<糟屋>
安閑天皇元年条
武蔵国:4個所<横渟・橘花・多氷・倉樔>
上総国:1個所<伊甚>
安芸国:1個所<廬城部>
安閑天皇二年五月条
筑紫国:2個所<穂波・鎌>
豊 国:5個所<みさき・桑原・肝等(かと)・大抜・我鹿(あか)>
火 国:1個所<春日部>
播磨国:2個所<越部・牛鹿>
備後国:8個所<後城・多禰・来履・葉稚・河音・婀娜胆殖・婀娜胆年部>
阿波国:3個所<春日部>
紀 国:2個所<経湍(ふせ)・河辺>
丹波国:1個所<蘇斯岐(そしき)>
近江国:1個所<葦浦>
尾張国:2個所<間敷・入鹿>
上毛野国:1個所<緑野>
駿河国:1個所<稚贄>

『日本書紀』安閑天皇元年(532年)に過戸廬城部(あまるべのいほきべ)屯倉が安芸国に、翌年には備後国に後城(しつき)・多禰(たね)・来履(くくつ)・葉稚(はわか)・河音(かわと)の各屯倉、婀娜国(あなのくに)に膽殖(いにえ)・膽年(いとし)部屯倉が設置されたことがみえる。屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。

安閑天皇と犬飼部

『日本書紀』によれば、犬養部は安閑天皇二年(538)八月、同年五月の屯倉の大量設置をうけて国々に設置された。この記事の近接性と、現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があったことが想定され、現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。

犬養部の正確な設置時期は不明であるが、安閑天皇の居地であると『日本書紀』が伝える勾金橋宮の故地に「犬貝」の地名が現存していることから、安閑期頃の6世紀前半である可能性が示唆されている。『日本書紀』の記述には、安閑天皇の前後から屯倉の設置記事が多く見られるようになる。屯倉の発展に犬養部の設置が大きく寄与していたことが考えられる。なお、屯倉の広域展開がのちの国・郡・里制の基礎となっていったとの指摘もある。

那津官家の設置と軍事

安閑天皇が二年目で崩御し、その同母弟である宣化天皇が即位します。その年(西暦536年か)の五月条の書紀の記述にて、那津官家の成立を示しています。那津官家の設置理由として、筑紫・肥・豊の三国の屯倉が遠く運搬に不便な場所にあり、穀物を一箇所にまとめて貯蔵する必要があることを挙げています。実際に、福岡市博多区の比恵遺跡にて大型倉庫群の遺構が発見されております。那津官家がこの福岡市博多区に実在していた
書紀の記述における那津官家設置の目的は、非常の事態に備えて民の命を守るためとあります。そして、翌年十月条には任那・百済救出のために大伴磐・狭手彦の兄弟が筑紫へ派遣されたあたり、軍事行動のための拠点として設置されたことも考えられます。このとき、磐が筑紫に残留して「政を執」ったとあることから、那津官家が九州における地方支配の拠点であるか。

「山幸彦」の名で知られる天津日高彦火火出見尊(神武天皇の祖父とされる)は、鹿児島県姶良郡の「日向の高屋山上陵」に葬られたと書紀が伝えています。

武蔵国造の抗争

「磐井の乱」勃発よりおよそ八年後、安閑天皇元年(西暦534年か)における書紀の記述に、武蔵国における首長同士による抗争の発生をみることができます。抗争の当事者は「武蔵国造笠原直使主」と「同族小杵」で、武蔵の「国造」の地位をめぐって「相争」ったとあります。このとき、上野国の地方支配の首長と推定できる「上毛野君小熊」なる人物が、小杵の陣営に支援を行います。一方、使主は大和政権の支援を受けます。上毛野君小熊の支援により小杵は、使主の謀殺を試みます。しかし、使主は東国から「京」へ逃亡し、大和政権の助力によって逆に小杵を誅殺することに成功しました。

書紀の語りに従えば、「性阻有逆・心高無順」な小杵に殺されそうになった使主が、大和政権の「臨断」によって保護されたことになります。しかし、見方を変えれば、笠原直一族における地位の抗争を東国内部で解決することに対し、大和政権がこれを許容しなかったという解釈も可能です。少なくとも、上毛野君小熊による東国内部での「臨断」は否定されたのです。さらに想像をたくましくすれば、笠原直小杵や上毛野君小熊が筑紫の磐井と同じ立場にあったのではと考えることもできます。つまり、実際に発生したのは大和政権に対する東国の「反乱」ではなかったのではと。

使主は「武蔵国造」の地位に就くことができ、その謝礼として、「横渟(埼玉県比企郡?)」・「橘花(川崎市)」・「多氷『氷』を『末』の誤記とする説あり)」・「倉樔(くらす、『樔』を『樹』の誤記とする説あり)」の屯倉を設置、大和政権に奉ります。
「磐井の乱」の結末と類似している
「磐井の乱」でも、筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上している。

右京 皇別   笠朝臣 臣   孝霊天皇皇子稚武彦命之後也 応神天皇巡幸吉備国。登加佐米山之時。飄風吹放御笠。天皇怪之。鴨別命言。神祇欲奉天皇。故其状尓。天皇欲知其真偽。令猟其山。所得甚多。天皇大悦。賜名賀佐 

右京 皇別   笠臣 臣 笠朝臣同祖 稚武彦命孫鴨別命之後也 

右京 皇別   吉備臣 臣   稚武彦命孫御友別命之後也 

右京 皇別   真髪部     同命男吉備武彦命之後也 

右京 皇別   廬原公 公 笠朝臣同祖 稚武彦命之後也 孫吉備武彦命。景行天皇御世。被遣東方。伐毛人及凶鬼神。到于阿倍廬原国。復命之日以廬原国給之  

上総国と伊甚屯倉
安閑天皇元年四月の書紀の記事では、房総半島の地方支配を行っていた「伊甚直稚子」が重い「科」によって「伊甚屯倉」を献上したとの記述があります。
「伊甚」とは、現在の千葉県夷隅郡の語源と考えられます。同じ記事には、この屯倉付近の郡を分割して上総国を設置したとあります。
「科」の内容は、真珠の上納ができなかった伊甚直稚子が膳臣大麻呂に詰問された際に、逃亡して後宮に闖入して春日皇后の御不興を買ってしまったことです。

高屋神社、羽曳野の安閑に関連する神社
高屋神社(羽曳野市・古市)
祭神:饒速日命、安閑天皇
高屋神社は、大阪府羽曳野市の近鉄古市駅の南800m程の住宅街にある式内社です。
『新撰姓氏録』の高屋氏

当地を本拠地とする高屋氏は物部氏の系統で、饒速日命の十世の孫、伊己止尼大連の後

高屋神社は古市一帯を支配していた豪族の高屋氏が先祖とこの地に縁があったと思われる安閑天皇を祭った神社。

高屋氏の一人に奈良時代の役人の高屋連枚人(ひらひと)がおり、太子叡福寺裏山の古代墓から「宝亀7年(776)の高屋連枚人墓誌」が出土しています。

墓誌から高屋連枚人は目(さかん)という役割で、常陸国に行政官として派遣されていたことが判りました。

目(さかん)には大目と小目があり、公務の記録や公文の草案作成を行う役目

古市の安閑天皇と皇后の陵墓
古市駅で下車し、国道を南に1km余り歩いた所に安閑帝の陵があるのですが、更に南東数百mには皇后・春日山田皇女陵があって、

明らかに二つの古墳が存在しているにも拘らず

日本書紀は安閑二年冬十二月条で、

是の月に、天皇を河内の古市高屋丘陵に葬りまつる。
皇后、春日山田皇女および天皇の妹、神前皇女を以って、是の陵に合わせ葬れり

と異例の「合葬」を記録しています。
「延喜諸陵式」にも『春日山田皇女の古市高屋墓が河内国古市郡に在り、守戸二烟』とあり、通常「兄弟姉妹」だけの合葬陵は考えられないのですが、神前皇女は安閑の父・継体と坂田大俣王の娘・黒姫(又の名・広姫)との間に産まれた王女ですから、当時の「風習」として異母妹を、大王位を継ぐために「皇女」を正妃に迎える「前」に妻としていた可能性は十分にあり「元・正妃」であった黒姫を一緒に葬ったと考えられないこともありません。

終の住処は高屋
安閑一族が都としていたのは、現在、橿原市曲川町大垣内に比定されている勾金橋宮で、彼の諡も「勾大兄」だったのですが、終の棲家は隣国河内・高屋の地に造営されました。
安閑と高屋に一体どのような繋がりがあったのでしょうか?

襲国の高屋

高屋神社 宮崎県宮崎市

日本書紀 景行天皇の12年7月
熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、天皇は筑紫(九州)に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮(あんぐう)を建て、住まいとした。
同13年5月、ことごとく熊襲の国を平定。すでに高屋の宮に居ること6年となり、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して、妃(きさき)とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。

景行天皇は 竹田で土蜘蛛を征伐した後熊襲の国 襲国の高屋に行宮(あんぐう)を建て住んだようです。

讃岐、観音寺市の高屋神社
延喜式内社讃岐二十四社の一つ。本宮は稲積山の山上にあり、下に下宮(遙拝所)があります。この社は当初稲積山頂にあったのを1600年頃に、山の中腹に移し、さらに1760年頃に山嶺に移しましたが、里人はその祟りをおそれ、1831年に山頂の旧地に再び本殿を造営しました。山の名を取り稲積社とも呼ばれています。

神代三山陵

初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山

二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山稜

三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵

大和朝廷は、畿内に神代三山陵の先坣僑位を設け、祀っていたことが判る。持統天皇が、その治世中、九年間に三十回以上も吉野御幸を繰り返したのも、実は祖霊信仰だったのである。