安寧天皇、威徳天皇、渟名底仲媛命、磯城津彦

渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)

安寧天皇の皇后。息石耳命と懿徳天皇と磯城津彦らの生母。
『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。『事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。

『先代旧事本紀』では
「三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美良姬 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底姬命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子彥耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津彥命 次 手研彥奇友背命也」とあり渟中底姬命といい、天日方奇日方命の娘。
なお、『古事記』での皇后は、師木県主波延の娘 阿久斗比売、
『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛、第2の一書での皇后は大間宿禰の娘である糸井媛。

威徳天皇、日本書記に

大日本彥耜友天皇(懿徳天皇)は磯城津彥玉手看天皇(安寧天皇)の第二子です。母(イロハ)は渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)といいます。事代主(コトシロヌシ)の孫の鴨王(カモノキミ)の娘です。
磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)の11年春1月1日に大日本彥耜友天皇(=懿徳天皇)は皇太子になりました。年齢は16歳でした。
安寧天皇38年のとくに、磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)が崩(カムアガリ=神になって天に上がる…死ぬこと)しました。懿徳天皇元年の春2月4日に皇位につきました。秋8月に磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)を於畝傍山南御陰井上陵(ウネビヤマノミナミノミホトノイノヘノミサギ)に葬りました。9月に皇后(先代安寧天皇の皇后の渟名底仲媛命のこと)を尊び皇太后としました。この年は太歲辛卯でした。

2年の春1月5日。都を軽(カル=奈良県橿原市大軽町)に移しました。これを曲峽宮(マガリオノミヤ)といいます。2月の11日。天豐津媛命爲皇后(アマトヨツヒメノミコト)を立てて皇后(キサキ)としました。
ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシノハエ)の弟の猪手(イテ)の娘の泉媛(イズミヒメ)といいます。
また、ある書によると磯城縣主太眞稚彥(シキノアガタヌシフトマワカヒコ)の娘の飯日媛(イイヒヒメ)といいます。
后は觀松彥香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)を生みました。
ある書によると懿徳天皇の弟の武石彥奇友背命(タケシヒコアヤシトモセノミコト)です。