宇陀と吉野の水分神社、御井神社

第十代崇神天皇七年二月の勅祭と伝えられている。また、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たるのが、当社である。

宇陀市にある。芳野川中流。

 玉岡水分神社とも称される神社で、式内社・宇太水分神社の論社。

宇太水分神社は大和四水分神の一つ。大和四水分神とは、大和の東西南北に配された以下の水分神。宇太水分神社、葛木水分神社、吉野水分神社、都祁水分神社。

宇陀郡の宇太川水系の水分信仰は盛んで,現在では菟田野(うたの)町古市場の宇太水分神社を中心に全国的な水利関係者の信仰を集めている。なお平安時代から〈みくまり〉をなまって〈みこもり〉とし,御子守明神と呼んで子授け安産の産育信仰の対象ともなった。とくに吉野山の吉野水分神社は《枕草子》や《紫式部日記》などに子守明神とあり,豊臣秀頼や本居宣長などはこの神の申し子として厚い信仰を寄せた

 創祀年代は不詳。社伝によると、垂仁天皇の御代、伊勢神宮の神職・玉造村尾が神託によって御裳濯川の水を分けて水分神体とし、高見山に登って鎮座地を請い、大和の宇陀に、東西二社の社殿を構え当社を本社と定めて、井谷(下井足)と中山(上芳野)の社を摂社とし田口(下田口の水分社)と平尾(平尾の水分社)の社を末社としたという。

一説には、当社には天水分神、下井足には国水分神、上芳野には若水分神を祀ったとも。

あるいは、当社には男神、下井足には女神、上芳野には童神を祀ったとも。

一般には、下井足の社を下宮、当社を上宮と区別しているようだ。

 瑞垣内に末社春日神社と宗像神社があり、どちらも重要文化財。

境内には、金毘羅社と恵比須社が祀られている。恵比須社は市の守護神として祀られ、市場が松山町に移った際に移転していたが大正十年、兵庫の西宮神社の分霊を受け、旧社地へ戻したもの。


式内社・御井神社

以前は、食井明神とも称したらしく、食井明神とは御食津大神のことで、気比明神とも称された神。だが、本来は御井神であり、木俣神とも呼ばれる素盞鳴尊の御子神なのだ。

奈良県宇陀郡榛原町檜牧。旧郷社。御井大神・天照皇大神・春日大神・水分大神を祀る。延喜の制小社に列せられ、明治の初期郷社になったという。例祭一〇月二一日。

-『神社辞典』-

大国主命は最初の妻八上比売命との間に御子をもうけるが、 嫡妻である須勢理比売命を畏れ、 八上比売命は御子を三叉の枝に挾んでおいて、生れ故郷の因幡へ帰ってしまった。 この御子を木俣神といい、またの名を御井神

  • 木の二股には新たな霊魂を発生させる機能があったと信じられていた。

吉野水分神社 

 吉野山上千本の急坂を登りつめた子守集落の丘陵上に鎮座の社が、『延喜式』神名帳吉野郡十座の筆頭にあげられている吉野水分神社である。創祀は明らかでないが、大同元年に紳封一戸をあてられ(『新抄格勅符抄』)、承和七年(840)十月七日无位の水分神に従五位下(『続日本後記』)を、貞観元年(859)正月二十七日に正五位下に進叙(『三代実録』)、同年九月八日風雨祈願のための遣使奉幣神社43社の中に列している(同前)。『延喜式』神名帳には大社に列し、四時祭式には祈年祭に奉幣物へ馬一匹を加えられ、臨時祭式では、祈雨祭神85座の中に「吉野水分社一座」として記されている(『延喜式』巻三)。  

祭神は現在

中央正殿に主神の天水分神、

右殿に天萬栲幡千幡姫命・玉依姫命・瓊々杵命を、

左殿に高皇産霊神・少彦名神・御子神

を祀る外、隋紳として女柱10柱と男柱三柱を合祀している。  旧鎮座地は古く、現在の吉野山山頂の青根が峯(858メートル)に比定される芳野水分峰神として、『続日本紀』文部天皇の二年(698)四月二十九日に、雨を祈るため馬を奉ったと記されている地点であったとされる。しかも当社本来の旧地(拝所)は、水分峰神の鎮まる山頂から約一キロメートル西北の字ヒロノ1416番地で、今も元水分社跡と伝えられている。ここから拝む山は、文字通り神体山特有の円錐形の山容で、東へ音無川、西へ秋野川、南へ丹生川、北へ象川(喜佐川)を流す四水流の分水嶺として水分神の鎮座地にふさわしい地形である。

特に各四水流沿いにはそれぞれ古代寺社や遺跡があり、中でも北の宮瀧遺跡は有名である。現社地への遷座の時期は明らかでないが、遅くとも当社や金峯神社に神位を授けられた平安初期ごろとみられぬだろうか。 

印度の仏が日本の神として垂迹したという神仏習合の傾向が強くなると、水分神も『金峯山秘密伝』にあるように、地蔵菩薩の垂迹とされ、明治初年の廃仏棄釈まで当社は社僧と神官によって護持された。
この信仰は今日もなお生き、子授け祈願の人も少ない。これについては、水配-みくまり-みこもり(水籠・身籠)-こもり(子守)などと転音したという通説であるが、あらゆる生産の根源としての水の持つ神秘性や、生命力への古代人の驚きから水の神の持つ属性として、農耕紳・子守紳との二重神格が生まれたのでないかとの故景山春樹氏の説にうなずけるものがある。  本殿は、高い石段の上に建ち、中央春日造の主殿に左右流造の三殿が一棟につなぐ特有な水分造で、桃山後期の特色を持つ重要文化財。  右殿奉安の玉依姫命神像は、建長三年(1751)十月十六日等の胎内銘を持つ国定で、鎌倉の美術精神があふれている。同殿内の天萬栲幡千千姫命も重文に指定されている。
     -奈良県史(神社)より-