宇佐神宮、宇佐八幡、神功皇后

宇佐八幡とは
『延喜式神名帳』によれば宇佐三座(八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫神社)であり名神大社として祭祀にあずかっている。
しかし『記・紀』の神功・応神条には全く触れていないし、神代の巻でも宗像三神・綿津見三神は書かれているが、宇佐は記紀成立時点では大和朝廷の神統譜の外に置かれていた。

神功皇后とは別人の大帯姫がいるのか?

『播磨国風土記』揖保郡の条に、「言挙阜 右 所三以称二言挙阜一者 大帯日売命(韓国還上)之時行レ軍之日 御二於此阜一 而教二令軍中一曰 此御軍者 慇懃勿レ為二言挙一 故号曰二言挙前」

とあり。ここに出てくる大帯日売命(オオタラシヒメノミコト)は今迄すべて神功皇后とされてきた。

『播磨国風土記』と大帯考によれば、橿日宮に伝わる大帯日売伝承から

「 『古事記』では仲哀の条、『日本書紀』では仲哀紀と神功紀に書かれている神功事績は本来、橿日宮に伝わる大帯日売伝承であり、景行の九州遠征記事よりはるかに古い」
とある。

大帯日売命とは

『八幡宇佐宮御託宣集』や『八幡愚童訓』
「住吉縁起云。大帯姫新羅軍之時。登四天王寿山。爾時無寿無像 後令造之。 祈願云。欲降伏隣敵。天王護助給。又以大鈴附榊枝高振呼云。朝底神達乞施神威令降伏敵国」

とある。

大帯日売命の系譜
『八幡宇佐宮御託宣集』所引『聖母大菩薩因縁記』に筑前香栖屋郡御廟香椎大明神其名大帯姫とある。その系譜はつぎのように書かれている。

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古事記に見える大帯日子天皇

倭建の子孫の条に
「又娶二其入レ海弟橘比売命一、生御子、若建王。・・・娶二飯野真黒比売一、生子、須売伊呂大中日子王。此王、娶二淡海之柴野入杵之女、柴野比売一、生子、迦具漏比売命。故大帯日子天皇、娶二此迦具漏比売命一、生子、大江王」
とある。
また、『記』の景行条に
「又娶二倭建命之曽孫、名須売伊呂大中日子王之女、詞具漏比売、生御子、大江王」

とある。

「イロド」という言葉があって、同じ母から生まれた弟・妹(同性の兄弟、姉妹の間の場合で、兄から見た同母の弟、姉から見た同母の妹)を指すものだそうです。先に欽明の子の例を引きましたが、記紀の時代の大王などはたいてい一夫多妻であって、異母の兄弟姉妹もたくさんいました。その中で母を同じくする兄弟姉妹にとくに「イロ-」を付けて呼んだもののようです。
「スメイロド」を字義どおり厳密に「天皇(大王)の同母弟」となるが、例外も多いようです。

安康段、大日下王(おほくさかのおほきみ)の妹若日下王(わかくさかのおほきみ)を弟雄略の妻にしようとした安康が根臣(ねのおみ)を大日下王のもとに遣わす際の記述は「天皇、為伊呂弟大長谷王子而(後略)」で、ここも「伊呂弟」表記です。両者の生母は允恭皇后の忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと、『日本書紀』では「忍坂大中姫」)です。
  ほかに、
允恭段、木梨之軽太子と同母妹軽大郎女との一件では「姧其伊呂妹軽大郎女而歌曰」、「伊呂妹」(イロモ)であり、両者の生母は忍坂之大中津比売命です。

景行天皇が子(倭建命)の曽孫と結婚出来るはずがない。
この記事の詞具漏比売が間違いと考えて、記の倭建の子孫の条のとおりと考えれば、つぎのような日本武尊の系図が書ける。

日本武尊(弟橘比売命)ーー若建王(娶二飯野真黒比売) ーー須売伊呂大中日子王(娶淡海之柴野入杵の子の柴野比売)ーー迦具漏比売命(?景行でない)ーー大江
ーー大中津比賣命(仲哀天皇)ーーー香坂王。忍熊王

注意1.この場合には、迦具漏比売命の夫が不明になる。
注意.2 古事記の「大江王の女,大中津比賣命を娶して,生みませる御子,香坂王。忍熊王」を書き加えてある。

応神天皇の妃に迦具漏比売(かぐろひめ) がなっている。
原文
また日向の泉長比売(イヅミノナガヒメ)を娶して生みましし御子、大羽江命(オホハエノミコ)、次に小羽江王(ヲハエノミコ)、次に幡日之若郎女(ハタヒノワキイラツメ)。三柱。また迦具漏比売(カグロヒメ)を娶して生みましし御子、川原田郎女(カハラダノイラツメ)、次に玉郎女(タマノイラツメ)、次に忍坂大中比売(オサカノオホナカツヒメ)、次に登富志郎女(トホシノイラツメ)、次に迦多遅王(カタヂノミコ)。五柱。

忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。

父:稚野毛二派皇子
母:弟日売真若比売命
同母兄:意富富杼王
同母妹:衣通姫
夫:允恭天皇
子:木梨軽皇子・名形大娘皇女・境黒彦皇子・安康天皇・軽大娘皇女・八釣白彦皇子・雄略天皇・但馬橘大娘皇女・酒見皇女

須売保礼命とは、須売伊呂大中日子王と同じか?

景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君

景行天皇と五十河媛の間の子、神櫛皇子が讃岐國造の始祖なり(書紀巻7)三世、須売保礼命の子が鯽魚磯別王とされる。

この記事から、「大帯日子天皇である景行天皇が迦具漏比売を娶って、大江王が生まれた」ことがわかります。『書紀』には迦具漏比売は、いない。

この迦具漏比売が、大帯日子天皇の妃であるから、大帯姫とよばれていたと考えよう。
オオタラシヒメは香椎の女王であり、オオタラシヒコの対語

 讃岐では、一宮は田村神社、二宮は大水上神社、三宮は由良大明神、四宮は櫛梨神社、五宮は大麻神社といわれています。ただし、由良神社は戦国期に後退し、三宮の地位から外れていき、水主神社を三宮とする説もあるそうです

讃岐の由良・清水神社
清水神社 祭神 神櫛明命
 由緒
 景行天皇五十四年(784)の創祀と言う。古くは好井社・由良明神・正一位清水大明神と奉称せらる。『全讃史』によれば、「景行天皇の皇子神櫛王封を山田郡に受け屋島の下に止り給ふ。千摩命・能摩命(須米保禮命)・森葉摩命・大別命・古美大人を経て油良大人封を山田郡油良に移す油良氏の祖なり。」とあれば、油良氏の奉斎する所なるべし。『別当自性院記録』によれば、「大同三年(808)正月勅伊豫親王定荘厳寺之三綱及び二伯三師神祇職於好井社焉自性院為上綱・・・・文章博士阿刀氏制冊税及び諸律也其某者神田の里(亀田村也)・・・今之實有之千石千貫之例也千爰荘厳寺初営也」とあり。

「大足彦(一族)」の九州平定譚
九州平定譚は、この景行12~19年条(周芳の娑婆―豊前の菟狭・御木・長峡(京)―大分の速見・直入・来田見・稲葉・禰疑野・柏峡―日向の高屋―子湯縣―夷守―諸縣―熊縣―葦北・水島―火国の八代縣の豊村―高来縣―玉杵名邑―阿蘇国―筑紫後国の御木の高田行宮―八女縣―的邑)の他、神武即位前紀戊午年6月条(海中)、神功摂政前紀3・4月条(橿日宮・松峡宮・御笠・安―山門縣―肥前の松浦縣の玉嶋)、仲哀8年正月条(穴門の豊浦宮―周芳の娑婆―岡縣―儺縣―橿日宮 逆?)、神武31年4月条(大分の由布?)など、『紀』のあちこちに散らばる。

大足彦の播磨平定
一方でこの12景行は、もう一つ別の顔を持っている。『古事記』12の祖父母は共に丹波の住人らしい。そして、『風土記』の12もやはり、丹波から播磨に入り、賀毛郡を通って瀬戸内海に面した印南郡で印南大嬢に妻問をしている。大足彦の播磨平定譚である。
ところが13成務は近江にいて、比古汝茅を国境へ派遣する。そこへ吉備比古・吉備比賣が出迎えて、比古汝茅と吉備比賣との間に印南の別嬢が生まれる。吉備は、筑紫の周芳進出に脅威を感じて、近畿との同盟に踏み切ったものであろうか。