大山祇神社、三島大社、越智・河野氏

大山祇神社
今治市大三島町宮浦にあり、日本総鎮守と呼ばれ、各地の三島神社の総本山。
大三島は古くは御島と書かれ、後に三島となり、大三島となったらしい。

静岡県三島市に鎮座する三島大社(祭神:大山祇神・事代主神)は、愛媛県越智郡大三島町に鎮座する大三島神社(祭神:大山祇神)の分社との説がある。逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説があり、まったく別の神社とする説もある。

大山祇神社
●所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦
●祭神:大山積神(和多志大神、三島大明神)
古事記「大山津見神」風土記「大山積神」
日本書紀「大山祇神」と記され、
現在は神名「大山積神」神社名「大山祇神社」と分けて記されている。
・その他祭神:岩長比売、木花開耶姫、
●祖神:饒速日尊、又は伊予皇子
●神格:全国の山祇・三島神社約11,000社の総本社。
日本総鎮守(平安時代朝廷より下賜)。延喜式名神大社。
伊予国一宮、伊予国総社、国幣大社(四国で唯一の大社)。
●境内:66万m2(約20万坪)神域:約4万m2(約12,000坪)
●宝物:国宝8件  重文75件
●天然記念物:大山祇神社楠木群(樹齢約1,500-3,000年?)
●由緒:山の神、海の神、戦神、武運長久の神
諸説
・大山祇神の子孫「乎千命」がこの地に築いた。
・静岡県三嶋大社から分霊した。(三嶋大社が、大山祇神社の分社であるとの説もある)
・朝鮮半島から渡来した神。
・大阪三島江から移動した。(一般的)
四社詣(大山祇神社、出雲熊野大社、厳島神社、宇佐神宮)
五社詣(さらに太宰府天満宮)の中心的神社。

伊予風土記
「御嶋、坐す神の御名は大山積の神、一名は、和多志の大神(海上安全守護神)なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此の神、百済の国より度り来まして、津の国の御嶋に坐しき。ーーー御嶋というは、津の国の御嶋なり。」

大三島記文「仁徳天皇の御宇に、乎知命が祖神・大山祇命を祀った」三島宮社記「推古2年大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年現在地へ遷座。16年の歳月をかけ社殿を造営。719年遷宮の儀が執り行われた。」

社記「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に鎮座されたのは、神武天皇の砌、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。---本社は、社号を日本総鎮守、三島大明神、大三島宮と称され、歴代朝廷の尊崇、国民の崇敬篤く、奈良時代までに全国津々浦々に分社が奉斎された。ーーー」

小千命は、15応神天皇の時代、今治地方が小千と奴麻の二国に統一されたとき、小千国造として最初に下向した。これが小千(乎致)という人物である。
この小千が大山祇神社を創祀した小千命の末裔であり、小千族は、大山祇の子孫、同時に饒速日尊の末裔であるという説がある。関連神社として勝岡八幡宮(松山市)、大浜八幡宮(今治市)があり、今治市馬越には乎致命の墓とされる「鯨山古墳」(愛媛県史跡指定)がある。
1579年に書かれた三島大祝越智安任の手記に「小千御子墓在馬越邑」と記されてあるらしい。

和銅5年(712年)~神亀5年(728年)8月23日は、越智氏族の大きな変革期であり、その当時のことを考える上で、きっと重要な出来事ではないかと思っています。

築島神社
*東温市大字下林甲2616番地
*祭神:大山祇命(おほやまつみのみこと)
*和銅5年8月23日伊予国司三位越智宿称玉興が大三島宮より勧請し、拝志郷一宮三島大明神と称え、氏神として崇敬したと云う。
仁平3年正月源三位頼政が心願あって社殿を再建、神領久米田、別当、社僧読経料、水田等の寄進があった。
後に十城別王が伊予に封じられたとき、当郷御瀧峯伊邪那岐、伊邪那美二柱の神を奉斎したが、天正18年官命により三島宮へ合祀、築島大明神として改めた。
寛文6年大旱魃の際、浮穴郡十三ヵ村より雨乞の祈願をして神威顕現瑞雨を得たので一三ヵ村より本殿を改築し、爾来十三ヵ村の祈念祈雨の祈願所と崇め、天保8年の神殿改築にも前例により十三ヵ村より寄進があった。
昭和35年一二五〇年祭執行、同41年神殿屋根を銅版に葺き替えた

丹沢の大山と秦氏/秦野
意外と知られていないのが、丹沢の大山である
大山阿夫利神社が丹沢山塊東端にある。
下社の祭神は、開運の大山祗神・雨を司る雷神・高おかみ(竜神)の三神のほかに、航海の神、鳥石楠船神。大山(丹沢山塊東端の独立峰)は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。
これは元は、雨降山といったのかもしれない。相模の人々が信仰対象とする大山阿夫利神社は、関東総鎮護の役割を担っている。丹沢山麓の地が「秦野」と名付けられた由来が「秦氏」の開拓にあると伝える碑が、蓑毛大日堂の境内に2基と、個人の墓地になるが室町(養泉院)にも1基存在する。
何れも秦川(河)勝に関するものである。

讃岐の大水上神社 三嶋龍神

 大水上神社は多くの境内社を抱えていますが、本社祭神の神徳とみてよい「水霊」に深く関わる社が「滝の宮神社」です。この社は、次のように説明されています。

滝の宮神社 鰻渕の神 祭神 滝田比古命・滝田比]命
古くは三嶋龍神と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代からの祈雨神祭遺跡で白鰻・黒鰻の伝えがある。

滝宮神は「鰻渕の神」とあり、また「雨の神」(祈雨神)でもあったようです。鰻渕は宮川上流、大水上神社本殿右背後にあり、そこには、次のような案内板が立っています

うなぎ(鰻)淵は「竜王淵」の異称をもっていたわけですが、「竜王淵」は、ここに「三嶋龍神」がまつられていたことによる名称でしょう。
 この竜王淵の近くには「大師参拝の神言」とされる、大師(弘法大師)こと空海の歌を刻んだ石碑があります。

往来は心安かれ空の海
   水上清きわれは竜神

空海は大水上神社へ参拝して、その境内社の神をわざわざ詠んだわけではないでしょう。空海は、大水上神社の本来の神を「水上清きわれは竜神」と、神(三嶋龍神)になりかわって詠んだものと読めます。

江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』には、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」といった記録がみられる。円空は「龍田比売」を外宮神と見立てて金剛界大日如来の瀟洒な像を彫り、さらに「龍田姫かさしの玉のおほよわ見ミたれにけりとけさの白露」という、解読がとても困難な歌を詠んでいる。

持統天皇5(691)年は、4月から雨が降り始め、5月、6月と季節はずれの長雨が続いた。
この状況をみて、持統天皇は農耕に大きな被害が出るかもしれないと、心を痛められた。そして、解決の手だてを図られるのである。通常の祭祀としては、天武天皇より継続して、4月と7月に広瀬大忌神(おおいみのかみ)(水神)と竜田風神(風神)とを祀らせている。
特別の対応として、まず公卿、役人に飲食を制限させ、修養と悔過(罪を懺悔し、罪報から免れるための儀式)につとめさせている。さらに、京及び畿内の諸寺に読経させている。6月には大祓(おおはらえ)も実施した。その上に、8月には、改めて竜田風神と、全国の中から殊に信濃の須波・水内(みのち)等の神を祭らせたのである。

白鳳地震(はくほうじしん)は、白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年(684年)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、白鳳大地震(はくほうおおじしん)、あるいは天武地震(てんむじしん)とも呼ばれる。
記録による土佐や伊予の被害の様相から南海地震と考えられていたため、白鳳南海地震(はくほうなんかいじしん)とも呼ばれてきたが、発掘調査により、ほぼ同時期に東海地震・東南海地震も連動したと推定されている。

685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。

讃岐国には、讃岐国三野郡大水上神社と寒川郡大蓑彦神社の2社の式内社があり、一方石見国には水上神社があります。