大山咋命、鳴鏑神


松尾大明神が一本の鏑矢に姿を変えて川を流れ、拾った女性を妊娠させたという伝承がある。 

『山城風土記』では賀茂の社の謂れとして、鳴鏑のかわりに丹塗矢とした似た話がある。 このことから鳴鏑神は、賀茂社に祀られる雷神と同様の神である。

日吉大社

東本宮が中心である。

古事記には、大山咋神は「近海淡海国の日枝山に坐す」と書かれている。神代の昔から、比叡山の地主神として祀られた神。その神体山が、378mの八王子山(牛尾山)。山頂には磐座と奥宮(牛尾神社)が鎮座している。東本宮(男神・大山咋神)と樹下宮(女神・鴨玉依姫神)が里宮であり、牛尾神社(大山咋神荒魂)と三宮宮(鴨玉依姫神荒魂)が奥宮となる。

一方、西本宮の大己貴神は、天智天皇七年(668年)大津京遷都の際に、
大津京鎮護のため、大和三輪山(大神神社)から勧請したもの。

葛城地方に残る伝承

高天彦神社 
 高天彦神とは高皇産霊神の別称。 付近一帯は高天の地名が残り、神話の高天原に比定され史跡となっている。葛城氏が、大和盆地へと下り、勢力を広げていったことが、後に天孫降臨として伝えられたと伝えられている。 御祭神は高皇産霊尊。 天忍穂耳尊に、本社の御祭神の娘・栲幡千々姫が嫁ぎ、御子の瓊瓊杵尊が高天原から降臨される。その神話にいう高天原がこの台地である。

高鴨神社 
 御祭神は味耜高彦根命・下照姫命・天稚彦命 鴨の一族の発祥の地。弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた。 味耜高彦根神の本拠地

鴨都波神社 
 御祭神は積羽八重事代主神・下照比売命。 下鴨神社ともいう。事代主神の最初の誕生の地。鴨族の発祥地。

葛木坐御歳神社 
 中鴨神社ともいう。御祭神は御歳神で、相殿に大年神・高照姫命が祀られています。御歳神は大年神の娘。
古事記には須佐之男命と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されている。

相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神である。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われている。

葛木坐御歳神社の御年神は大歳神(饒速日尊)の娘となっている。また、近くの二上山は饒速日尊の降臨した山とも伝えられており、饒速日尊は葛城一族に対してもマレビトとして入り込んだようである。高照姫は別名下照姫と呼ばれており事代主命の妹とされている。御歳神=高照姫=下照姫という関係も考えられる。

賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)

建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・

三輪高宮家系譜に言代主が二代続いている。他の系図との比較によりこの系譜だけが1世多い。また、大国主命と都美波八重事代主命が共に大物主の別名を持っている。

三輪高宮家系譜では猿田彦命の子が事代主命となっている。ここでいう事代主命は賀茂建角身命の娘玉依姫と結婚している。

京都府亀岡市の桑田神社・請田神社においては大山咋命が市杵島姫と共に亀岡盆地を開拓したと伝えられている。また、松尾大社でも大山咋命と市杵島姫が共に祭られている。市杵島姫は猿田彦命の妻であった。このことは、 奈良市今御門町一番地の猿田彦神社で市杵島姫が妻神として祭られている事からわかる。(このことと三輪高宮家系譜をつなぐと事代主命は猿田彦命の子となるが、、)

『古事記』の大国主命の系譜では、大国主命と多紀理姫の間に阿遅鉏高日子根神と下照姫を生んだと記されている。多紀理姫は、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫の別名としている。

須佐之男神が天照大御神に会うため高天原に登ると国土・山河が揺れ動いたとされ、 泣げば青山は枯山と化し、海河をことごとく泣き乾したという巨人的な性格をもっている。
この時、須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、須佐之男神は三女(宗像三女神多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命天之菩卑能命天津日子根命活津日子根命熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。

天細女命が饒速日尊の天孫降臨の随伴者に名を連ねている。猿田彦命と天細女命は饒速日尊の天孫降臨時に出会ったことになる。(饒速日尊とともに大和に降臨し大和で事代主命が誕生した?)

伊豫國越智郡 大山積神社 名神大

正面に拝殿。拝殿後方、玉垣内に、本社を中心に、上津社と下津社が並び、三社を総称して三島宮と呼ぶ。上津社には上津姫・雷神、下津社には下津姫・高靇神を祀る。本殿後方には、三社並んだ姫子邑神社(木花開耶姫命とその御子神)。

創祀は、『大三島記文』によると、仁徳天皇の御宇に、乎知命が祖神・大山祇命を祀ったとある。『三島宮社記』では、推古天皇2年。大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年、現在地へ遷座し、16年の歳月をかけて、社殿を造営。養老3年(719)に遷宮の儀が執り行われた。各地の三島神社の総本山であり、日本総鎮守とも呼ばれる神社。大三島は古くは御島と書かれ、後に三島となり、大三島となったらしい。また、三島神を奉祭するが故に、大三島となったとも。


伊豫國風土記逸文には、以下のように記されている。

「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」風土記では、仁徳天皇の御宇に大阪高槻市三島江に出現し、そこから、伊予へ移ったとされている。また、山の神でありながら、渡しの神でもある。