大国主、御井神、木俣神、大井神社

木俣神(きのまたのかみ、このまたのかみ)は日本神話の中で、大穴牟遅神が因幡の八上比売に生ませた神。日本書記にはない。

八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神(みいのかみ)という。

『古事記』では性別不詳であるが、祭神としている各神社の社伝では、大穴牟遅神の長男としている例が多い

古事記の話
大穴牟遅神おほなむちのかみは、八十神たちのたびたびの迫害に遭ってゐた。ある日、八十神たちは、大穴牟遅神をだまして山に連れて入ると、大樹を切り伏せ、茹矢(ひめや、氷目矢とも書く)をその木に打ち立て、その中に大穴牟遅神を入れたといふ。ヒメ矢とは、楔に似た物だと注釈され、大樹に打ちこんで幹を割き、その割れ目の中に大穴牟遅神を入れたのである。そして「そのヒメ矢を打ち離ちて、拷ち殺したまひき」とあり、ヒメ矢を外したときに割れ目がもとに戻り、中の大穴牟遅神は圧死した。ヒメ矢がどんなものかは、よくわからないが、その割け目に人が入れたほど大きな物であったかもしれない。そこへ御祖みおやの命(親?)が現はれて大穴牟遅神を見つけ、木を折って大穴牟遅神を取り出し、生き返らせたといふ。そして大穴牟遅神を木の国(紀伊国)の大屋毘古神おほやびこのかみの所へ逃れさせた。八十神たちが木の国まで追ひかけてきて矢を構へると、大屋毘古神は、「須佐之男命すさのをのみことの坐します根の堅州国かたすくにに参向ふべし」と言って、大穴牟遅神を木の俣から逃がしてやったといふ
中略

根の国は、木の神の祖おやの須佐之男命が住む世界である。正妻といわれるのが、根(ね)の堅州国(かたすくに)で出会ったスサノオノミコト(須佐之男命)の娘スセリヒメ(須勢理毘売)です。スセリヒメとはオオクニヌシに対する火攻めなど数々の試練を乗り越えて結ばれました。出雲市東神西町には2人を祀る那売佐(なめさ)神社がひっそりと鎮座しています。

 大穴牟遅神は八上姫と結婚して子も生まれたが、根の国での妻の須勢理姫すせりびめの嫉妬を恐れて、その子は木の俣に刺し挟んで置いて、八上姫は国へ帰ったといふ。その子の名が木俣神であるといふ。

木俣神は、またの名を御井神といふと古事記にあるが、木俣神と御井神がなぜ同じ神なのかは謎とされてきた。
ただ、多くの御井神社が木俣神を祀るので、別称でしょう。
御井神社(島根県出雲市)
御井神社(兵庫県養父市)
御井神社(奈良県宇陀市)
津田神社(三重県多気町)
五百井神社(滋賀県栗東市)
気多若宮神社(岐阜県飛騨市)
御井神社(岐阜県各務原市)
御井神社(岐阜県養老郡養老町)
大井神社(京都府亀岡市)

木俣神 = 御井神 = 大屋毘古?
「但馬国養父郡大屋町の式内社の御井神社は御井神を祀るようですが、古典には大屋比古命、大屋比賣命を祭神とする説もあり(資料名紛失)、大屋毘古神もまた木の俣に座したのかも。」と瀬藤禎祥氏はいふ

御井神をお祀りする神社の分布を調べると、斐川町の御井神社以外はほとんどが因幡より東で、但馬(兵庫県北部)、播磨(兵庫県南部)、丹波(京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北東部周辺)、河内(大阪)、山城(京都南部)、越(北陸・東北の一部)、信濃(長野県)、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県西部)、三河(愛知県東部)、遠江(静岡県大井川以西)に多く、研究者のなかには御井神は出雲系の神ではなく、天孫系の物部氏一族の起源を越の国として、その氏神だったのではないか、または皇祖神・天孫士族の遠祖ではないかというような説もあります。

『神道大辞典』御井神の由来

その命名の由来を「処々に井を作りて民利を起し給へる功徳あるに依るものか。また座摩神五座のうち、生井・栄井・綱長井三神の汎称とも云はる」とされる。すなわち、生井・栄井(福井)・綱長井の三神とは、その実、御井神一神ということでもあろう。因みに、座摩神五座のうち、他の二神とは波比伎神・阿須波神であり、この二神も『古事記』では大年神が天知流美豆比売を娶って生んだ九神のなかに竈神二神・大山咋神らと並んであげられるから、この記事に拠る限り、やはり出雲神(海神族)の系統に属する神ということになる。

皇居の地を守護する神、すなわち座摩神(いかすりのかみ:ざましん)の五神のなかに、生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)が配されています。ちなみに、あと二神は波比岐神(はいきのかみ)、阿須波神(あすわのかみ)です。生井・福井・綱長井とは木俣神が産湯につかった神聖な井戸のことです。
斐川町の御井神社の近くに今もちゃんとお祀りされ守られています。

大井神社
「月讀命、市杵嶋姫命、木股命」京都府亀岡市大井町並河1-3-25 
由緒掲示板
和銅三年(710)の創建、光秀の兵火で焼失した社殿を、天正十二年(1584) 秀吉が片桐且元を奉行として再建せしめたものという。祭神は、御井神、月読命、市 杵島姫命で、伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の 亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りか えて、ここ大井に上陸して鎮座されたということである。為に当社の氏子は鯉を尊び 、食用は勿論、捕えることも禁じ、五月の節句に鯉のぼりもあげない風習が続いてい る。十月十六日の例祭には、古く貞観八年(866)に始まったという勇壮な競馬が 当社の馬場で武者姿の氏子によって奉納される。

常陸國那賀郡 大井神社
御祭神 神八井耳命

社伝によると、大同元年の創祀。太郎明神とも称される神社。
祭神は神武天皇の皇子・神八井耳命。神武天皇崩御後、手研耳命が異母弟である神八井耳命、彦八井耳命を殺害しようとした時、逆に、兄弟神が手研耳命を討った。その際、兄・神八井耳命は手足が震えて殺すことができず弟・彦八井耳命がとどめをさした。この失態を恥じた兄・神八井耳命は弟に皇位を譲り神官となって仕えたという。

社伝によると、東国統治のため当地に来た神八井耳命は日立那留大井濃水乃清氣禮婆世乎大平仁渡留浮橋と和礼山に宮を定めたという。

中世、大井の地を割いて金井、大淵の二村を置き福田、飯田、石寺、寺崎、日沢五村を合わせた地域の総鎮守であった。
また、当社(大井)、箱田、石井、来栖の四社を山内四所宮といいその一宮であったという。

大井神社(おおいじんじゃ)
茨城県水戸市にある神社。式内社論社で、旧社格は村社

祭神 建借馬命 初代仲国造。
配祀神 木花開耶姫命
境内社の本殿への合祀による。

祭神の建借馬命について、『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、伊予国造と同祖で、成務天皇の御世に初代仲国造に任じられたとある
仲国造はのちの常陸国東部(当地を含む周辺)を治めたとされる国造で、『古事記』に神八井耳命がその祖であると記されている。そして明治の『大日本神名辞書』では、建借馬命を神八井耳命の後裔とし、夷賊退治の功により仲国造に任じられたとする

現在に残るものとしては水戸市愛宕町の前方後円墳・愛宕山古墳(位置)があり、仲国造のつながりが深いとされ、年代から建借馬命の墓とする説がある。また社名「おおい」や地名「飯富」の語源について、建借馬命の出身が神八井耳命を祖とする意富臣(おふのおみ)であることによるとも伝えられる。

借馬(たけかしま)
①父:武恵賀前 母:不明
②子供:武沼田・伊都許利   別名:建借間
③常陸風土記:那河国造祖。崇神朝記事。
国造本紀:成務朝に仲国造に任じられた。この流れから長狭国造・印旛国造派生。鹿島神宮と関係あるや?

信濃の神八井耳命
「科野」の字が当てられた。『古事記』中巻には「神八井耳命者科野国造等之祖也」と記されている。

信濃も多氏がいたか?