大和の前期古墳、

大和と河内の出現期の古墳の特徴

1.主要な土器が庄内式土器であ ること
2.東海系土器が周辺 の遺跡 よりも多く出 土す ること
3.若干のズ レは あるものの、基本的には庄内式期古相段階 に突如出現する

大和
奈良盆地東 南部の纏向遺跡 や柳本遺跡 は主 と して庄 内式土器 を使用 し、 それ以外の地域 の遺跡 は主 として第V様 式系土器 を使用す るという傾向が
窺 える

外来系土器は庄内式期新相段階に急激に増加する傾向にある。その分布
は盆地東南部の成願寺遺跡 、柳本遺跡 、纏向遺跡 に集 中する

外来系土器は庄内式期新相段階に急激に増加する傾向にある。その分布
は盆地東南部の成願寺遺跡 、柳本遺跡 、纏向遺跡 に集 中する。

天理市、桜井市に前期の大型古墳が集中している。

集落が複数存在 し、その範囲内か ら多 くの竪穴式住居、掘建柱建物 、 方形周溝墓 などが 多数検出 された ことを確認で きた。 この ことは、同地 にて 多くの人が定住生活 を行 ってい たことを物語 るとい える。また、その立地 上、 西 日本か ら物品 ・情報 ・文化 など持 ち込 まれ る一 大流通拠点であった。

土器、埴輪の製造と流通の拠点
土師氏に注目すべき。

主な古墳 ウィキペディアより
1 3c中 三輪 箸墓古墳 奈良県 桜井市箸中 倭迹迹日百襲媛命
(第7代孝霊天皇皇女)
2 3c後 西殿塚古墳 天理市中山町 手白香皇女
(第26代継体天皇皇后)
3 3c末 外山茶臼山古墳
(桜井茶臼山古墳) 桜井市外山 (治定なし)
4 4c初 メスリ山古墳 桜井市高田 (治定なし)
5 4c前 行燈山古墳 天理市柳本町 第10代崇神天皇
6 4c中 渋谷向山古墳 天理市渋谷町 第12代景行天皇
7 4c後 佐紀 宝来山古墳 奈良市尼ケ辻町 第11代垂仁天皇
8 4c後 五社神古墳 奈良市山陵町 神功皇后
(第14代仲哀天皇皇后)

中河内

旧大和川流域沿 いに多 くの遺跡(群)が 存在す る。特 に支流 の長瀬川流
域沿いに1L地する東郷遺跡 ・成法寺遺跡 ・小阪合遺跡などが存在する地域 と加美遺跡 ・久宝寺遺跡などが存在する地域は継続期間や遺構の検出情況 を考慮 したとき、広大な面積を有する一つの集落遺跡 と考えられる。

旧大和川流域沿いの遺跡は主として庄内式土器を使用し、それ以外の地 域の遺跡は=f;として第V様 式系土器を使用する傾向が窺える。

3外来系土器は庄内式期新相段階に急激に増加する傾向にある。またその 分布は 西岩田遺跡 ・加美遺跡 ・久宝寺遺跡 ・本郷 遺跡 ・船橋遺跡 などの旧大和川流域沿 いの遺跡 に集中す る

前期古墳

3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

この時期の主な王墓
奈良県桜井市、箸墓古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
奈良県天理市、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)
奈良県天理市、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)
奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280メートル)
奈良県桜井市、メスリ山古墳(240メートル)

大型墳丘墓から前方後円墳に

弥生後期、近畿地方や瀬戸内海沿岸で、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(特殊器台・特殊壺)。なかでも岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は直径約45メートル、高さ約5メートルの円丘の両側に方形の張り出しを持ち、全長約80メートルもある双方中円墳の形をしている。この地域の代表的な首長の墓と考えられ、その築造年代は、3世紀前後に比定されている。なお、兵庫県たつの市揖保川町養久山(やくやま)5号墳も突出部を二つ持っている。これらの突出部は、祭壇などではなく、棺を担いだ埋葬の葬列が通る「道」だったと考えられる。前方後円墳の成立時には、前方部に変化していった。一方では山陰にも墳丘墓の大型化が起こるが形態は四隅突出型墳丘墓と呼ばれる方墳の角が突き出したような形態となっている。墳丘墓全体に貼り石を敷き詰めたような高度な土木技術が用いられたものもある。この形態は北陸地方にも伝播していることから、環日本海的な勢力に発展しており日本神話の述べる古代出雲の存在感と通ずる発見がなされている。

これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。そのため、墳丘墓の呼称を弥生後期の大規模なものに限るべきとする意見が、多数となりつつある。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。墳丘墓にはまだ地域性が見られたが、古墳は全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなっている。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆するという説が主流である。

古墳時代の3期区分について
前期の始まりは大型前方後円墳箸墓の登場、中期の始まりは円筒埴輪Ⅳ式・馬形/人物埴輪・家形石棺・須恵器(TK73)・馬具・鋲留短甲・挂甲の登場と三角縁神獣鏡・石製腕飾品・筒型銅器の消滅、後期の始まりは円筒埴輪Ⅴ式・(近畿式)横穴石室の登場と粘土槨・長持式石棺・長方/三角/横矧板革綴短甲・鋲留短甲の消滅と定義した。そして実年代については、
前期は250年~400年、
中期は400年~470年、
後期は470年~(600年)
と定めた。ただし、後期の終わりについては確定した年代ではない。

小札革綴冑
小札革綴冑は、33面の三角縁神獣鏡が出土した奈良の黒塚古墳、32面が出土した京都の椿井大塚山古墳、7面が出土した兵庫の西求女塚古墳、7面が出土した福岡の石塚山古墳から出土している。これらの古墳は円筒埴輪が出現する以前(0式)の古墳である。
また、円筒埴輪Ⅰ式の時代を飛び越して、Ⅱ式の時代にも大阪の久米田貝吹山古墳、京都の瓦谷1号墳・黄金塚2号墳、三重の石山古墳、4基の古墳から小札革綴冑が出土している。小札革綴冑は0式~Ⅱ式まで連続して出現していると考える学者もいる。

『横穴式石室誕生』(近つ飛鳥博物館 2007年)では、老司古墳を4世紀後葉とし、鋤崎古墳を4世紀後葉~5世紀前葉としている。

三角縁神獣鏡には「景初三年」「正始元年」銘の鏡があることから、卑弥呼が魏から貰った百枚の鏡が含まれていることが予想され、古墳時代の初めから存在していたことは確かである。弥生時代から鏡は墓に副葬されていたのだから、古墳時代の初めから三角縁神獣鏡が副葬されていたことは予想出来る。
三角縁神獣鏡の円筒埴輪0式(円筒埴輪なし)にある4基の古墳は、小札革綴冑で述べた奈良の黒塚古墳、京都の椿井大塚山古墳、兵庫の西求女塚古墳、福岡の石塚山古墳である。三角縁神獣鏡は円筒埴輪Ⅲ式の時代で消滅している。

鍬形石・石釧・車輪石の石製腕飾は円筒埴輪Ⅰ式の奈良の新山古墳、大阪の池田茶臼山古墳、京都の寺戸大塚古墳・平尾城山古墳から出土している。合子・琴柱形の石製品は円筒埴輪Ⅱ式からで、琴柱形石製品が出土した奈良の新沢500号墳は方形板革綴短甲を共伴している。

三角縁神獣鏡と小札革綴冑を出土した、奈良の黒塚古墳、京都の椿井大塚山古墳、兵庫の西求女塚古墳、福岡の石塚山古墳かは円筒埴輪が出土していない。円筒埴輪Ⅰ期の始まりは、これら4古墳は築造された後になる

粘土槨はに示すように、円筒埴輪Ⅱ式で始まり、Ⅳ式で終わっている。粘土槨の円筒埴輪Ⅱ式の古墳としては、大阪の和泉黄金塚古墳、奈良の東大寺山古墳、京都の瓦谷1号墳、岐阜の長塚古墳、山梨の岡銚子塚古墳などの10基の古墳である。この内、奈良の新沢500号墳、京都の垣内古墳・瓦谷1号墳は方形板革綴短甲を出土しており、粘土槨は円筒埴輪Ⅱ式ⓐの時代から出現したと言える。

楯築遺跡 (2世紀後半~3世紀前半)
岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。「楯築墳丘墓」とも。国の史跡に指定されている。
形状は双方中円墳。古くは「片岡山古墳」とも称された。
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である

櫛山古墳
大和の柳本古墳群の一つで、行燈山古墳の後円部に接して、より山側の高い位置にある。双方中円墳という特異な墳形をしている。この特異な墳形をもつ古墳としては、他に岡山県の楯築遺跡や香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)古墳群の猫塚古墳がある。櫛山古墳や猫塚は、古墳前期でもその後半に属する古墳で、楯築弥生墳丘墓よりも100年ほど後に築造された。

纒向勝山古墳
奈良県桜井市の纒向古墳群に属する前方後円墳
桜井市東田(ひがいだ)町字勝山
埋葬者:不明
築造時期:古墳時代前期初頭
墳 形:前方後円墳(葺石・埴輪なし)
規 模:全長約115メートル、後円部径約70メートル、前方部長約45メートル、くびれ部幅26メートル、後円部の高さ約7メートル。周濠幅約25メートル
出土遺物:主として周濠部より出土。
木製の刀剣把手 団扇 槽等の祭祀具
U字形木製品(くびれ部の周濠から出土) 土師器(布留0式土器)
2001年(平成13年)5月30日。第4次調査において周濠くびれ部埋土中より検出されたヒノキ板材を奈良文化財研究所埋蔵文化財センターにて年輪年代測定の結果、伐採年代は、新しく見積もっても西暦210年頃と推定されることが判明する。年輪年代測定以前は、布留0式土器の出土により土器編年を利用し年代基準を決定していた。土器編年による年代は西暦300年前後。

纏向石塚古墳
奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する古墳。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある
奈良県桜井市太田字石塚に位置する纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル、前方部の長さ約32メートル、幅約34メートル。くびれ部の幅15-16メートル。周濠幅約20メートルである。後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない
築造時期は古墳時代前期初頭と推定される。3世紀の初頭(庄内0式期、西側周濠の出土土器による)、前半(庄内1式期、盛土内出土土器による)、または中頃(庄内3式期、導水溝出土土器による)という3つの説がある。

周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土している。その他、弧紋円盤(こもんえんばん、吉備系の祭祀用遺物)、朱塗の鶏形木製品、木製鋤・鍬、横槌、水槽、建築部材などの木製品、土師器(纒向I式期)が出土した。

ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)
奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。
 纒向遺跡には、3世紀後半に築造された箸墓古墳よりも、さらに古い時期の前方後円形墳墓が存在する。纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳などである。これらは後円部に対して未発達な前方部を有し、部分的な調査によって3世紀前半代に遡る可能性が指摘されてきた。
所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。
出土品
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本 鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口 加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具 二重口縁壺20体(庄内式) 布留0式土器3点

ヒエ塚古墳
大和(おおやまと)古墳群の北端にあるヒエ塚古墳(天理市萱生町)の発掘調査をしていた天理市教委は24日、墳丘を覆っていた葺石(ふきいし)や周濠(しゅうごう)とみられる溝跡を確認したと発表した。埴輪(はにわ)が見つかっていないことなどから古墳時代前期前半(3世紀半ば~4世紀初)に築造された可能性が高いと確認された。
ヒエ塚古墳は、全長130メートルある大型の前方後円墳で、1977年に県立橿原考古学研究所が調査している。
墳丘の裾部から多数の10~20センチ大の石と二回りほど大きな石が出土した。いずれも自然石で、葺石とそれを下部で支える基底石とみられる。すぐ南側は幅4・1メートルの溝跡があり、周濠の遺構と判断した。葺石と周濠の間に基壇状の平らな部分も確認できた。

箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)
奈良県桜井市にある前方後円墳。箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。しかし1980年代以降に考古学的年代決定論が精度を増し、箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説が主流となった。

中山大塚古墳
奈良県天理市中山町大塚に所在する古墳時代前期初頭の前方後円墳である
墳丘は前方部を南西に向けた前方後円墳で、全長約130メートル、後円部の径約67メートル・高さ約11.3メートル、3段築成で、後円部北側の墳丘裾に扇型に開く張り出し部分が付属することが確認された。後円部に張り出しが付くということは、すぐ南にある柳本古墳群中の代表的な双方中円墳の櫛山古墳の墳形に繋がるのではないかと推定される。前方部後方東側にも三角形の張り出しが付けられている。前方部と後円部の高さは、前方部が低く、前方部前面が緩やかに曲線を描いており、出現期前方後円墳の特徴を備えている。また、後円部の張り出し付近から特殊器台の破片が見つかっており、箸墓古墳に次ぐ最古級の前方後円墳であると推定されている。

メスリ山古墳
奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の前方後円墳である。
特徴的なのは、埋葬施設の副石室が遺品庫の様相を呈していることである。箸墓古墳の方が、年代的に先行する。別称は鉢巻山古墳、東出塚古墳などと呼称される。
奈良県桜井市大字高田字メスリ
形状 前方後円墳
規模 墳丘長224m
高さ23m(後円部)
築造年代 4世紀初頭(古墳時代前期)
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺)
出土品 三角縁神獣鏡・鉄弓等鉄製品・銅鏃・碧玉管玉・埴輪など多数

後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室(長さ約8.06メートル、幅約1.18メートル、高さ1.76メートル、8石の天井石で覆われている。)にあたる竪穴式石室がある。
主石室の横にあった副石室は、長さ6メートル、幅70センチメートル、高さ60~70センチメートルで盗掘を免れている。また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部で合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納されていて、格納庫、遺品庫であったと考えられる。
副葬品は奈良県の前期古墳の埋納品の一端がしのばれる。主石室は、遺体を埋葬し、玉石製品では翡翠の勾玉、碧玉の管玉、貝輪を真似た石製の腕輪類、ミニチュア化した石製の椅子、櫛、合子などを納めた。盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っている。出土した遺物は、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧(いしくろ)・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子(ごうす)などと玉類・刀剣などである。

副石室は、副葬品を納め、212本の茎式鉄矛、これらの鉄矛は、約半数ずつ石室の両端に鋒(きつさき)を向け合った形になっていた。いずれも長柄をつけていたと想像される。集団戦に用いられる武器である。鉄剣形の槍先にした鉄矛は、朝鮮半島南部や北九州でも出土していて、当時の武器の中心になっていた。この武器は日本列島で大流行し、日本でも鍛造技術が駆使されたことは間違いない。236本の銅鏃、50本の石鏃、鉄弓1本(長さ182センチメートル、弦も鉄製)、鉄製矢5本(長さ80センチメートル)、漆塗り盾。鉄弓や鉄矢は、実用性ではなく、武器本来の機能である威嚇用である。木製の弓もあったであろうと思われる。鉄剣、鉄刀それぞれ1本。さらに、斧(鉄斧14)、手鎌(19)、鑿、やりがんな(51)、錐、刀子、鋸などの農耕具。玉状に似た石製品

桜井茶臼山古墳
奈良県桜井市にある前方後円墳。所在地の地名を冠して「外山茶臼山古墳」とも。
所在地 奈良県桜井市外山
形状 前方後円墳 規模 墳丘長207m 高さ23m
築造年代 4世紀初頭
埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺)
出土品 石製腕飾類・銅鏡片

本古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形を呈する柄鏡式古墳である。古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、箸墓古墳に後続する時期に造営された巨大な前方後円墳である。この古墳の存在が知られるようになったのは、戦後しばらくたってからであり、雑木林に覆われて、単なる丘陵の観を呈していた。後円部の頂に高さ2メートル弱、一辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器(二重口縁壺形土器)が壇の裾周りに巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がない。段築面には葺石が施されている。また、陪墳群がみられない。

この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。宗像神社は、全国に散在していて、この大和にある神社は、いつ頃からの鎮座か、詳細は不明である。しかし、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。
前期古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしていることである。

破片から復元すると斜縁二神二獣鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、平縁の神獣鏡各1面、内行花文鏡3面、三角縁神獣鏡4種6面[7]、計9種類で少なくとも13面の鏡が副葬されていた。
銅鏡の破片の中に「是」とみられる文字が書かれていたものがあり、三次元計測によって群馬県蟹沢古墳で出土した正始元年(240年。正始は魏の年号)の銘文を持つ三角縁神獣鏡と一致したと発表された。これを魏志倭人伝に記載されている、魏皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚のうちの一つであるとする説も出現した。
ヒスイの勾玉、ガラス製の管玉、小玉などの首飾り
鉄刀・鉄剣・銅鏃などの武器類
碧玉製の腕飾類、
玉杖(ぎょくじょう)

吉備や讃岐、阿波には3、4世紀の古墳が多い。