大倭

694年、藤原に宮処を定めて鎮祭を行った時の記述が日本書紀に残っている。
「五月庚寅遣使者奉弊干四所伊勢。大倭。住吉。紀伊大神。告以新宮。」
「五月庚寅の日、使者を派遣して伊勢国。大倭国。摂津国。紀伊国の四か国の国魂乃神に弊を奉り、藤原の新宮処が完成したことを告げた。」と書いてある。
使者が大倭国に走ったということは本国は大倭であるわけがない。本国が大倭ならそんなことはするはずがないのだ。

大倭姫

この『勘注系図』の六世孫に、とてつもない名前を持つ女性が登場する。
その名前を、宇那比姫命(うなびひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たかのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。何れも一人の女性の別名である。

先ず注目されるのは大倭姫(おおやまとひめ)である。
『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。

天皇の名前
初 代 神武天皇 神倭伊波禮毘古命カムヤマトイハレビコミコト
第2代 綏靖天皇 神沼河耳命カムヌナカワミミノミコト
第3代 安寧天皇 師木津日子玉手見命シキツヒコタマテミノミコト
第4代 懿徳天皇 大倭日子?友命オオヤマトヒコスキトモノミコト)*…金+且
第5代 考昭天皇 御真津日子訶恵志泥命ミマツヒコカエシネノミコト
第6代 考安天皇 大倭帯日子国押人命オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
第7代 考霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命オオヤマトネコヒコフトニノミコト
第8代 考元天皇 大倭根子日子国玖琉命オオヤマトネコヒコクニクルノミコト
第9代 開化天皇 若倭根子日子大毘々命ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト
天皇の名前の前の部分は、出身地だと思われます。

美作国に、久米郡があり、久米北条郡と久米南条 郡に分割されました。明治22年6月1日 町村制施行のときの13村、三保村・打穴村・大垪和村 ・倭 文西村・西川村・垪和村・久米村・大井東村・大井西村・大倭村・倭文東村・倭文中村・鶴田村の中 に見つけることができます。
明治33年4月1日 久米南条郡と合併して久米郡となっています。

 岡山県久米郡久米町宮尾は、昔は久米郡大倭村と言われたところです。久米廃寺の周辺です。 どうして、廃寺に「久米廃寺」と名づけられたのか知りたいものです。
岡山の久米廃寺:大倭村
白鳳時代創建の寺院跡。主要伽藍は、塔を中心に東側に金堂、西側に講堂を配した独特のもの です。近くに全長35mの三成古墳があります。4世紀築造の前方後方墳と云われています。4体の人 骨、変形四獣鏡、鉄剣、鉄鏃片、鉄斧、勾玉などが出土。

・天孫本紀 倭国造祖・比香賀君玉彦媛:物部伊呂弗妃・子供:物部目?
・和銅7年(714)記事:大倭国添下郡大倭忌寸果安
・天平15年(743)記事:倭武助が典薬頭従五位下に叙せられた。
・天平20年(748)記事:大和連深田・魚名 宿禰姓になる。
・天平勝宝3年(751)記事:大和連田長・古人が宿禰姓となる。
・天平宝字2年(758)記事:大和宿禰弟守従五位下。大和宿禰斐大麻呂が外従五位下に叙せられた。 
・宝亀8年(777)記事:大和宿禰西麻呂従五位下。 
・延暦2年(783)記事:大倭伊美生羽が伊勢少目になる。
・貞観5年(863)記事:大和国城上郡人正6位上大和宿禰水胤・典兵外従五位下大和宿禰継子など本拠を改め右京職となった。
・大和連虫麻呂:造東大寺司人
・仁安二年(1167)記事:大倭歳繁による「大倭神社注進状」発行。

大倭

倭人伝に祖賦を収むるに邸閣あり、国に一り、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむと書あれている。(原文が正しい)
 米倉国(狗奴国)とは久米国の東部津山だある。ここには高床式倉庫があったと鳥越氏の〝吉備の古代王国〟170頁に説明がある。
 大倭は久米郡大倭村が該当?
 久米国には師団があり、男王が居った。被服しようがあったと説明ずみだ。大倭で監督したと、倭人伝が証明してくれた。
 〝古代の吉備の王国〟には久米と津山周辺に前方後円墓が約70基あると書かれている。学者ならこの異常値に説明が入要だ。これこそ久米国存在の理由だ。恐らく将校の古墳だと考えたい。

「大倭木満致執国政」の「大倭」は、魏志倭人伝の邪馬台国の官職「大倭」とも同じですね。

「租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。」

百済系木氏の木満致、一説によれば仁徳朝の蘇我満智ですが、百済系でありながら、新羅もしくは秦韓系の母親をもち、日本と行き来していたことが推測されます。

「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ」

3-4世紀の話です。