大伴氏、紀伊の名草、豊日別

天忍日命━天津彦日中咋命━日臣命(道臣命)━味日命━稚日臣命━大日命━

ー角日命━豊日命━武日命━武以(建持)━室屋ー談━ー金村

大伴武日命
垂仁天皇朝~景行天皇朝。
「建日」とも記される。
父は大伴豊日。子に大伴武以がいる。
垂仁天皇25(紀元前5)年に、武渟川別(阿倍氏祖)、彦国葺(和珥氏祖)、
大鹿島(中臣氏祖)、物部十千根(十市根、物部氏祖)らと共に、大伴武日は、垂仁天皇から祭祀に関する詔を下される。

景行天皇40(110)年、日本武尊の遠征に、吉備武彦と共に従軍。
甲斐国酒折宮で、日本武尊から靫部を下賜される。
さらに、戦役後には、讃岐国を下賜された、と伝えられる。

靫部は、弓矢を入れる道具を背負う者たち、即ち、兵士のことで、
地方の国造の子弟たちによって編成された軍事力である。
後世、大伴氏は、この靫部を管掌し、朝廷の建物の警護に当たった。

何故 宮廷警護の長に、讃岐の国が下賜されたか?

靭部とは、大化前代,大和政権の宮廷武力集団の一。主に西日本の中小豪族の子弟から採られ,名代の部によって資養された。六世紀半ばに大伴氏のもとに編成されたが,その組織は律令制には継承されなかった。
衛門府またはその官人の別名。

岩田本「神体神骨石( 太古日本外史の六 )」

天国天越根中国日見日高見アカリ池上神明。御皇城山の棟梁皇祖皇太神宮。分神天伊勢太神宮、天越根中日見日高見国の棟梁皇祖皇太神宮、日の神月の神の川上八岐田川天伊勢太神と云う伊勢一山と云ふ始め太古代の分神。二分神。丹波の本伊勢太神宮、別祖太神宮祭神百柱神。三分神。
遠久後、神倭十代御間城入彦五十仁殖天皇即位三年イヤヨ月立三日他人に秘密に詔し、大申政神主
竹内屋主忍雄親王命受。天越根中国日見高見光池上神明万国祖棟梁皇祖皇太神宮の神体神骨像石神代文字付四十八体の内二体分神遷し。丹波本伊勢太神宮に一体分神勧請。
神倭十代天皇即位四年カナメ月円六日詔し神体神骨像石神代文字付。
大和笠縫邑に天疎日向津姫天皇( あまさかるひにむかいつひめスメラミコト )改天照太神と勧請の神体神骨像石神代文字付一体。天越根中国より遷し。
祭主、天皇、祭長。紀竹内屋主忍雄親王、祭官大彦命、武淳川別命、吉備津彦命、丹波道主命、武埴安彦命、大伴豊日命

越中の皇祖皇太神宮の御神宝、神体神骨像石神代文字付四十八体のうち二体を、丹波元伊勢と大和笠縫村に勧請したというのである。それは秘密裡に行われ、祭官として四道将軍が名前を連ねていた。その中には大友豊日命、吉備津彦命も居たというのである。

武埴安彦
この木津川・淀川地域で第10代崇神天皇10年には武埴安彦(たけはにやすひこ)と妻・吾田媛(あたひめ)の反乱が起こっている。武埴安彦は葛城地方を本拠地とした第8代孝元天皇の王子であり、これは葛城王朝が王権奪取を目指して大和政権に起こした反乱である
神功皇后摂政前紀の条に「忍熊王(おしくまおう)とかご坂王(かごさかおう)が、三韓征伐に赴いた神功皇后が筑紫で生んだ御子(後の応神天皇)に対して群臣が皆従っていることに不満を持ち、我ら兄がどうして弟などに従えようかと不満を持ち反乱を起こした」と記され、神功皇后紀にはその戦いの様子も詳しく記述されている。神功皇后としては仲哀天皇の妃が生んだ忍熊王やかご坂王に王位を渡したくはなかったであろう。
この2度の反乱後、木津川・淀川流域の勢力は大和朝廷の勢力に屈服していった

『古屋家家譜』
甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。

高皇産霊尊-安牟須比命-香都知命(紀国名草郡)-天雷命(名草郡)-天石門別安国玉主命(名草郡)-
天押日命-天押人命-天日咋命-刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命-道臣命(名草郡)本名日臣命-味日命-推日命-大日命-角日命-豊日命-武日命-建持連公-室屋大連公-金村大連公-狭手彦-

佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後

上記家譜での名草郡の式内社

香都知命(紀国名草郡)香都知神社 香都知神社
天雷命(名草郡)鳴神社 鳴神社
天石門別安国玉主命(名草郡)朝椋神社 元九頭神社朝椋神社、九頭神社
刺田比古命(名草郡)元九頭神社 刺田比古神社
道臣命(名草郡片岡) 刺田比古神社

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豊日別とは日本書紀の神、神名の豊は豊国(豊前・豊後)の意。

豊日別神を祀る豊日別宮(福岡県行橋市)の社伝では、欽明天皇2年、筑紫の日別大神の神官・大伴連牟彌奈里に「吾は猿田彦神なり」と神託があり、猿田彦は天照大神の分神であり、 豊日別大神を本宮とし、猿田彦を別宮とするとの記述がある。ここから、豊日別は猿田彦と同一神格と見られている
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豊日別宮(草場神社)
豊前 仲津 福岡県行橋市南泉7-13-11
豐日別命 配 罔象女命、高神

由緒
豊前國風土記には、行橋市一帯を「宮処の郡 子え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。蓋し、天照大神の神京なり」としている。
行橋市の川の上遺跡は三世紀の墳墓群であり、後漢から三国時代の道鏡、勾玉、鉄刀などが出土していると云う。 相当な権力の存在を思わせる。
神社の創建はこの社に伝わる古文書では、人皇三十代欽明天皇、(附記欽明天皇は人皇二十九代なり)即位二年秋九月十八日神化老翁之相而現矣託于筑紫日別大神神官大伴連牟彌奈里曰吾和是佐留多毘古乃大神奈利云々(中略)夫猿田彦者天照大神之分神也因之日別大神宮以猿田彦為別宮云々(下略) 即ち、筑紫の日別大神の神官である大伴連牟彌奈里に吾は佐留多毘古乃大神なりと神託があり、豊日別の本宮の為に伊勢神宮並の神宮を建て、猿田彦は別宮としたとある。
猿田彦神を天照大神の分身としてあるい。
どの様な渡来系の権力者が到来しても、喜んで出迎え、道案内を勤める、通過点の旅籠のおやじ見たいな存在であったのだろう。これから見ると豊日別と猿田彦は同一神格と考えられる。 それがこの世を生き抜く術だったと云う事だろう。
ここから3km西の天生田の清地神社の由緒に素盞嗚尊と五十猛命が豊前国を経由した時、豊日別が嚮導したとある。
この説がいつ頃出来たのか、創建由来に筑紫の日別大神の神官である大伴氏がからんでいる。この神官の来訪を白日別の神が来たととれる。神社建立の為なら豊日別も嚮導すると記されてもしかたはない。

行橋は古来は都だったと云う。美夜古と云う美しい名を持っている町である。しかし、直ぐに忘れられている。大和の王権がやってきてもここを古来の都、天照大神の神京なりと感慨を持った者はいない。

宇佐神宮の放生会で、香春からここを経由して宇佐へ銅鏡が運ばれる。やはり経由地の意味はあるが、売りがそれでは情けない。

それによると大伴連牟彌奈里の祖父は大伴金村大連で父は大伴狭手彦、母は松浦佐用媛との事である。
この神社は中臣の里に鎮座し、欽明朝に開かれた神道神官の修業の地の赤幡の行場を中心に、高天原になぞらえる地名があるとの事である。

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