大伴家持 陸奥国出金詔書 久米御県神社

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)

葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 

大伴氏とは

我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい

大和国高市郡 久米御県神社三座
祭神 高皇産霊神(タカミムスヒ)--天地開闢の時、高天原に出現した神
   大来目命(オオクメ)    --大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神
   天槵根命(アメノクシネ)  --久米氏の祖神と関係の深い神
久米氏がその祖神を祀った神社
延喜式に載る祈年祭祝詞には、御県神社として高市(タケチ)・葛木(カツラギ)・十市(トヲチ)・志貴(シキ)・山辺(ヤマノベ)・曾布(ソフ)の6社がみえる
延喜式神名帳で、これら6社はすべて大社として遇せられ、祭神一座であるが、当社のみは小社であり、しかも三座である

記紀の久米氏

天孫降臨の段
 ・古事記--そのとき天忍日命(アメノオシヒ)・天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。

 ・書紀(一書4)--大伴連の遠祖・天忍日命が、来目部の遠祖・天槵津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・

神武東征の段
 ・古事記--(宇陀の兄宇迦斯-エウカシ-が屋敷に罠を設けて神武を迎えようとしていると聞いて)大伴連の祖先・道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖・大久米命の二人が、エウカシに向かって「おまえが造った御殿の中に、おまえがまず入って、仕えようとする有様をはっきり見せろ」とエウカシを屋敷の中に追い込んだところ、エウカシは自分が仕掛けた押罠(オシワナ)に打たれて死んでしまった(書紀ではミチノオミのみでオオクメの名はない)。
 ・同--(神武即位後)天皇が皇后とする乙女を探し求められたとき、大久米命が「神の御子とされる乙女、オオクニヌシの娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)がおられます」といった(書紀には“ある人が・・・”とある)。

 ・書紀(神武即位前期)--(熊野で道に迷った神武を八咫烏が先導した時)大伴氏の先祖・日臣命(ヒノオミ=道臣命)は、大来目を率いて、大軍の統率者として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに仰ぎながら追いかけ、ついに宇陀の下道(ツモツコホリ)に着いた(古事記にはみえない)。
 ・同(同)--(八十哮師の残党の勢いが強かったので、神武は)密かに道臣命を呼んで、「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(オサカノムラ、桜井市忍坂付近)に造って、盛んに酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ」と命じられた。
 そこでミチノオミは忍坂に室を造り、敵を招いて盛大な酒宴を催し、敵が酒に酔ったところをみみはからって、道臣命の「忍坂の大室屋に 人多(サワ)に来入り居りとも みつみつし来目の子等が 頭椎(クブツツ)い石椎(イシツツ)い持ち 撃ちてし止まむ」との歌を合図に、料理人に化けていた米目の兵士たちが隠し持った武器をもって立ち敵兵を皆殺しにした(大意、古事記では、合図の歌の中に「勢い盛んな久米の子ら・・・」とある)。

神武即位後
 ・書紀(神武元年)--天皇が国政を始められる日に、大伴氏の先祖・道臣命が大来目部を率いて密命を受け、諷歌(ソエウタ、他のものになぞらえた諷刺歌)・倒語(サカシマゴト、味方だけに通じる隠語)をもって災いを払い除いた(古事記には見えない)。
 ・同(神武2年2月)--天皇は論功行賞をおこなわれた。道臣命は宅地を賜り築坂邑(ツキサカムラ、橿原市鳥屋町付近)に居らしめて特に目をかけられた。また大久米を畝傍山以西の川辺の地に居らしめた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁である(古事記にはみえない)。

垂仁天皇紀
 ・5年条--冬10月1日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
 ・27年条--この年、屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の田畑および収穫物を収納する倉庫)を来目邑に興(タ)てた。
 (古事記は久米、書紀は来目と表記が異なるが、以下、久米と記す)

 記紀にみる久米氏のほとんどが、戦闘にかかわる場面で登場するように、久米氏は大伴氏とともに古代ヤマト朝廷において軍事に携わった氏族という(親衛隊的氏族)。
 しかし、その記述内容は、古事記では大伴氏と久米氏は同格として並記されているが、書紀のそれは大伴氏に従うものとして記されており、格において違いがみえる。

 これに関して、古事記伝(1798、江戸後期初、本居宣長)は
 「久米直(アタヒ)は、白橿原の御世(神武朝)、大久米命などまでは、大伴と並びたる氏なりしを、其の子孫の至りては、痛く衰えて、大伴氏のみ栄えたりしほどに、久米は其の下に仕える者になりしを、書紀は神代の巻も神武の巻をも、後に其の子孫の衰えたる時の趣を以て記されたるものと見えたり」(岩波文庫版)
として、久米氏と大伴氏は神武朝では同格だったが、その後、久米氏の勢いが衰えて、同じ軍事氏族である大伴氏に従属するようになったが、その衰時の状態を神武朝にまで遡及したのが書紀の記述という。

 これに対して、古事記注釈(1975、西郷信綱)は
 ・大伴という名は、多くの伴(伴造-トモノミヤツコ、職能集団)を有しそれを率いているのにもとずく名で、久米氏もそれら伴のひとつであったらしい。
 ・大伴氏の姓(カバネ)は、古代氏姓制度での最高位である“臣”(オミ)とともに朝政に関与する“連”(ムラジ)であったが(雄略朝で大伴室屋が大連となって朝政を主導した)、久米氏のそれは格下の“直”(アタイ、国造級に与えられる姓)でしかなかった。
として、久米氏は古くから大伴氏に属する格下の氏族ではなかったかとして、その傍証として、万葉集にある大伴家持の
 陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に
   大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、その中で、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
 「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という(大意)。