塩の神、和布刈神事、少彦名神

塩竈
宮城県塩竈市に鎮座の塩竈神社。
同社は国幣中社で、東北地方随一の大杜陸奥の一ノ宮として扱われてきた。
塩竈市の塩竈神社が面する松島湾は、古代に土器製塩が活発に行われた地域であり、松島湾の島や浜には慨そ六十個所の古代製塩遺跡が分布する
塩竈市の塩竈神社の祠官家も最有力者は阿部(安倍)氏であった。

弘仁11年(820)の『弘仁式』の主税式には、陸奥の塩竈神社の祭祀料が一万束であって全国最大級であり、平安中期、後一条天皇の寛仁元年(1017)当時には、天下の諸々の名社と並んで一代一度の奉幣の大典に預っていた。
塩釜神社は福島・香川県が最も多く17社を数え、以下では岡山(9社)、新潟・徳島(各7社)、愛知(5社)、宮城・山口(各4社)など27県にわたっていた。

塩神たる塩(しお)土老翁(つちのおぢ)であり、同神を祭神とする塩竈神社の数も最も多い。

塩江神社(尾張国中島郡)-祭神は塩土大神(もと白鬚明神という)。

塩津神社(近江国浅井郡)-塩土老翁神を主神とし、彦火火出見神・豊玉日売神を配祀する。(なお、同郡内に式内の下塩津神社もある)

塩野神社(信濃国小県郡)-素盞嗚尊・大己貴命・少彦名命を祀り、白鳳年間に出雲の杵築大社から勧請したものと伝える。

塩土老翁
山幸彦と海幸彦の日向三代伝承のなかにあらわれ、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失って困っているとき、小船を作り海宮への行き方を教示した(記紀)、

神武天皇の東征にあたり、九州の日向で、東方に美き地があり大業をはじめるにふさわしいことを教示した(神武即位前記)、

天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨したとき、吾田の長屋笠狭之御碕にあって国土を奉献した事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)という神も、またの名を塩土老翁という(書紀の一書)

塩土老翁が塩筒老翁とも書かれることについて、液状塩(すなわち鹹水)が筒(竹筒か)に容れられて運搬・消費されていた時代を反映して、塩に関係ある技法をもつ人物ではないかと考える広山堯道氏の見解は示唆深い。

塩土老翁について、海神族系の猿田彦神・佐田大神ないし事代主命と考えるのが妥当か?

この神の名は『出雲国風土記』には全く登場せず、事代主神の活動舞台について疑問が出されてきた。
物事の知識が大きいという語義から、登場場面によっては鳥取部の祖神の少彦名神と同一神として重複することがあり、その場合には、鍛冶製鉄の神の天目一箇命とも近親である。
『出雲国風土記』には、少彦名神は青幡佐草日子命(あおはたさくさひこ)など別の名前でも登場している。その父神は天稚彦(天津彦根命)、母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっていた。

少彦名神 天才的技術者か?
大国主神に協力して国土経営をした神として有名であるが、医薬の神、温泉神、酒造の神(松尾大神)、粟の神でもある。
また、能登の式内社宿那彦神像石(すくなひこかみかたいし)神社にみられるように石神としても著名。また酒神としても知られている。
少彦名神は鵝の毛皮(鷦鷯〔さざき〕の羽ともいう)を服として登場し、鳥取部の祖とされるなど、鳥類についても関係が深かった。

『書紀』には素盞嗚尊の子と記されるが、、、、

天稚彦は「高天原」の王家の一員として、海神国(奴国?)との軍事交渉に派遣され、そこで海神国王の妹・豊玉姫を妻として、その間に天目一箇命・少彦名神の兄弟を得るが、派遣元の高天原に敵方との内通を疑われ殺害されてしまう。
 少彦名神は、その兄弟近親とともに天孫降臨に随行して筑前の海岸部にまず遷住するが、この地には落ち着かず、遠賀川流域から長門国(豊浦郡)、そこから陸路ないし海路を山陰海岸沿いに東北方向に進み、石見国の海岸部を経て出雲国の東部、安来地方に遷住する。
この安来地方(旧意宇郡の東部で、のち能義郡)が少彦名神一族の出雲における一大根拠地となった。
『出雲国風土記』には、意宇郡の屋代郷(安来市東部から能義郡伯太町北部〔2004年合併して現安来市のうち〕にかけての地)について、天津子命(その実体は少名彦神兄弟とみられる)が自分の鎮座しようとする社であるといったという地名起源伝承が記される。

系統
出雲に残って大己貴命の後裔一族を圧倒し、出雲国造を出した系統で出雲氏族……後に土師連・菅原朝臣・大江朝臣も分岐した。

出雲から東へ進み、伯耆・播磨を経て大阪湾沿岸部に出た系統で、a淀川を溯り、凡河内国造・山背国造の祖を分岐しながら、近江国野洲郡の三上山麓に遷住した三上氏族、和泉、紀伊から紀ノ川を溯って大和に入り葛城地方に遷住した鴨氏族(後に葛城国造を残して、一部は山城に移住)。
これに加え、河内に入り、山越えで大和に入った物部氏族もこの同族である。

出雲の平野部から南方の山間部に分け入り、さらに西方へ移動して石見山間部を経て安芸国に遷った系統……この系統はさらに安芸で三派に分かれ、
安芸に留まった安芸国造族、
安芸から対岸の四国の伊予に渡り讃岐を経て阿波国に遷住した阿波忌部氏族、
安芸から周防国大島郡を経て西方の佐波郡に到り、そこから九州の豊前国宇佐郡に遷住したとみられる宇佐氏族、に分類される。

崇神朝の建緒組命の子孫からは、火(肥)国造・筑紫国造など九州各地の有力氏族を出し、その後商は伊予・讃岐さらに播磨の国造家となり、この流れの息長氏族から出た応神天皇のとき、前王統(神武天皇の流れ)の仲哀天皇の遺児から大王位を纂奪するに至った。

陸奥の諸国造の系譜について、「国造本紀」では、①三上氏族の建許呂(たけころ)命の系統、②阿岐(安芸)国造同祖という天湯津彦命の後裔、③毛野氏族の賀我別王の後裔、と三通りに記されるが、実際には、海神族系の毛野氏族の浮田国造を除く他の諸国造は、全て同族であったとみられる。
これらは陸奥では福島県東南部の石城国造を宗族とする一族で、天湯津彦命すなわち天目一箇命(少彦名命の近親)の後裔であった。

四世紀中葉の日本武尊の東征に随伴したことで、陸奥全域に一族が分岐繁衍した。この系統は丈部(はせつかべ)あるいは玉作部を本姓としたが、その有力者は、会津地方まで到来したという大彦命・武渟川別命父子らの阿倍臣一族との所縁・属従から、阿倍磐城臣・阿倍陸奥臣・阿倍安積臣・阿倍会津臣など、「阿倍□□臣」という形の姓氏を賜わる例が多い
日本武尊に随行した大伴武日命ら大伴連氏一族の後裔は、丸子部・靱大伴部・大田部・五百木部・白髪部等の姓氏を名乗って陸奥に居住した。その最有力姓氏は、牡鹿郡人の丸子道足が奈良時代に陸奥大国造となって賜わった道嶋宿祢氏であるが、他は大伴行方連・大伴安積連・大伴亘理連など「大伴△△連」という形の姓氏を賜わる例が多い

藻刈り神事
和布刈神社は式内社ではないが、神功皇后に関わる伝承をもつ古社であり、皇后が潮の干満を起こすため用いた満珠・干珠は、社地の北東方五、六キロの奥津島・津島(いま干珠島・満珠島で、式内忌宮神社の飛地境内)に納められたといわれる。

 和布刈神事は、早鞆瀬戸の対岸にある長門国豊浦郡の式内名神大社・住吉荒御魂神社(下関市一ノ宮)でも同日同時刻に行われる。同社はいま住吉神社といい、住吉三神荒魂を主神に応神天皇・武内宿祢・神功皇后・建御名方命を配祀するが、長門一ノ宮たる同社は穴門国造一族によって奉斎され、その祖神天目一箇命(天若日子の子)を本来祭祀するものであった。祠官家は神功皇后紀に見える穴門直の祖・践立(ほむたち)の後裔であり、神田直のち賀田宿祢という姓氏で、山田・中島などを苗字とした。

日御碕神社(出雲郡の式内社の御碕神社)の神事でもあり、同社は素盞嗚命を祭神として国幣小社に列された。その社司(検校)は素盞嗚命の五世孫という天葺根命の後裔と称する日置姓小野氏である。
同社には、社前の天一山(あまかずやま。天目一箇命に由来か)で除夜夜半に行われる社司家一子相伝の神剣奉天神事もある
少彦名神は瓊瓊杵命の天孫降臨に一族が同行しており、神武天皇の東遷に重要な役割を果す菟狭津彦命(宇佐国造の祖)も、その後裔であった。

昔、塩ノ上の神は「ちまき」を食べる時に笹の葉で目を突き、片目が不自由になった、といわれる。「片目の神」とは鍛冶神の象徴であって、天目一箇命を示唆
する。

二見浦の有名な夫婦岩の対岸にある興玉(おきたま)神社は、宇治土公の大祖・猿田彦大神を祀ったものといわれる。猿田彦神や興玉神は、塩竈神社の祭神としてもあげられる

興玉神については、一説には猿田彦大神の後裔で、五十鈴の原の地主神の大田命であるともいわれる。大田命は宇治土公の祖であり、垂仁天皇廿五年に倭姫が田田上宮に坐したとき、参上して皇大神の鎮座地として五十鈴川上の地を教示したと伝えられる国神である。

『倭姫命世記』には佐美津彦・佐美津姫という対偶の形であらわれ、相参りて御塩浜御塩山を奉ったと記される。おそらく両者は夫婦であろう。名前につけられる「佐見(佐美)」とは地名で、「伊勢国二見浦なる大夫の松と云ふ大樹の生たる山が佐見の山にて今猶彼の山の麓に流るる小川を佐見河といふ」といい(『万葉集古義』)、また、「二見の浦に、佐美明神として古き神まします」(坂士仏の著といわれる『大神宮参詣記』)とも記される。
佐美長神社については、出口延経の『神名帳考証』は延喜式神名帳に掲げる粟島坐神乎多乃御子神社に比定していた。粟島神とは、少彦名神を指すことから、「佐美」がこの神に関係深い語であることが推される。
因幡国巨濃郡の式内社に佐弥乃兵主神社(鳥取県岩美郡岩美町太田、もと佐弥屋敷という地に鎮座)があげられ、鳥取市街地の東北方十キロほどに位置している。この鎮座地は因幡国造(海神族系統で日下部同族)の領域に含まれていて、その一族が奉斎した神社と考えられる。

 宇治土公氏とは、伊勢神宮の宇治大内人(内宮大内人の上首で、祢宜に次ぐ重職であり、玉串大内人ともいう)を歴代世襲した家柄であり、遠祖の大田命が垂仁朝に玉串大内人として奉仕したと伝えられる(『大神宮諸雑事記』)。伊勢市街地南の浦田町千歳には猿田彦神社があり、もと宇治土公家の邸内に祀られていたのを明治に公認されて社殿を造営したものである。その東北ニキロほどの五十鈴川の北岸、楠部の地には大土御祖(おおつちみおや)神社があり、皇大神宮の摂社で宇治土公氏が奉斎した

磯部(石部)姓の本宗が宇治土公という姓氏を称し、姓の公も含めて、そのまま苗字としたものではなかろうか。二見郷の二見氏は、宇治土公姓にして大田命の後裔と称す(「皇大神宮権祢宜家筋書」)といわれる。

大和の磯城県主・三輪君の一族に出自しており、崇神朝の大田田根子の大叔父の久斯気主命について、伊勢ノ宇治土公・石辺公・狛人野等の祖と記される系図がある

古代豪族にも塩屋連氏があって、『新撰姓氏録』の河内皇別に掲げ、武内宿称の男・葛城曽都比古命の後と記される
 塩屋連・蘇我臣とともに武内宿祢後裔系譜の一翼を担う大族に平群臣氏がある。大和北部の平群郡平群郷(いまの生駒郡平群町)一帯に本拠をおく平群氏が海の塩に関係をもつことは不思議にも思われようが、この同族と称する諸氏のなかに韓海部(からのあま)首氏がおり、摂津国に居住して『姓氏録』未定雑姓摂津にあげ、「武内宿祢の男、平群木菟宿祢の後」と記される。平群氏の始祖と伝えられる者が鳥トーテムを思わせる木菟(「みみずく」のこと)の名前をもつことに留意される。

 木菟の子、真鳥(まとり)は五世紀後半の雄略朝に大臣となり権勢をふるったが、真鳥・鮪親子ら平群一族は、太子時代の武烈天皇(実際には、その父の仁賢天皇とその弟の顕宗天皇の兄弟か)の命をうけた大伴金村連の攻撃をうけ滅ぼされたと『書紀』に記される。

真鳥は死に臨んで、広く塩に呪いをかけたが、そのとき呪い忘れた角鹿(越前国敦賀郡で、いまの福井県敦賀市一帯)の塩のみが天皇の食膳に供されたという。この伝承から、平群氏が天皇用の食塩を管理していたのではないかとみる説もある。

針間国造とみられる豊忍別命が贖罪として塩代田廿千代(はたちしろ。四十町歩)を天皇へ献上したという所伝が、『播磨国風土記』の記事(餝磨郡安相里条)に見える。この献上地はいま姫路市街地の西方の土山・今宿付近とみられている

建御名方神と塩

信濃の伊那地方にある南アルプスの秀峯の一つ塩見岳の麓の地方には、 建御名方神が住民が塩不足で困っている時、山中に入り塩の噴き出る場所を探し人々に教えてくれた。 それが現在の大鹿村の鹿塩の湯であるといわれている。 また、鹿塩の地で天孫の軍勢を迎え撃ったという伝説も残っているところからしても、 天孫族に敗れたというのは嘘である。

塩の調と秦氏

若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。

藻刈神事
神事船を出し、海藻を刈り取ります。松島湾釜ヶ淵より、満潮時の海水を汲み、神釜の水を入れ替えます。
製塩用の鉄釜の上に竹の棚を置き、海藻を広げ、その上から海水を注ぎ、これを煮詰めて藻塩を作ります。
そこの塩作りは、御祭神である塩土老翁神(しおつちおじのかみ)によりこの地に広められたとされ、祀られている四口の鉄製の神釜も塩土老翁神が使用されたと言われています。この神釜は、塩竈市の有形民族文化財であり、また藻塩焼神事は、宮城県の無形民族文化財に指定されています。

湯立て神事
釜の前の祭壇で祝詞を厳かに詠み
湯の中に塩と米をまき、釜の周りを四方からていねいに御幣で祓う。
御幣の柄で湯をかきまぜカルカンを入れる。カルカンとは、藁縄を輪にして幣串にした四本の竹をつけたものである。
そして笹束を湯にひたし、お宮と参列者に勢いよく祓う

塩祓い

「死者の国である黄泉の国から戻った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、日向の阿波岐原の海で、自分の体に付いた黄泉の国のケガレを祓うため海水に浸かって禊祓いを行った」と記されており、この故事(神話的な起源)から、潮水である海水を浴びて身を清めたり、その潮水を用いた塩湯がお祓いに使われるようにもなっていきました