因幡国の白兎、大江神社と対馬の島御子神社、八上姫

八上比売神 稲羽之八上比売:いなばのやかみひめ

大穴牟遅神の妻。因幡国八上郡の豪族の娘、あるいは巫女か。大穴牟遅神とその兄弟の八十神から求婚され、大穴牟遅神に嫁ぎ、木俣神を生む。大穴牟遅神の正妻・須勢理毘売の嫉妬を恐れ、生んだ子を木の俣に刺し込んで因幡へ帰った。

木俣神とは三井神

御井神社(みいじんじゃ)は島根県出雲市斐川町直江にある神社である。大国主の神話に登場する八上比売(やがみひめ)とその子である木俣神(このまたのかみ)にまつわる伝承のある神社で、安産の神として信仰されている

神社の近くに「生井(いくい)」、「福井(さくい)」、「綱長井(つながい)」と呼ばれる3つの井戸があり、八上比売が出産の時に産湯を使ったという伝承がある。元来この3つの井戸に対する信仰が神社に発展したものと考えられる。

天照大神の行幸伝承:霊石山の白兎

若桜町、氷ノ山(現赤倉山)の麓の集落には天照大神御一行の行幸伝承が残っている。因幡の中央、八上の霊石山山麓の城光寺と慈住寺の縁起

「霊石山に天照大神が行幸され、その時白兎が大神の御装束を口にくわえて西方の伊勢が平まで案内された」

と記されています。それを裏付けるように、霊石山には「伊勢が平」という地名が今も残り、「皇居石」や「御冠石」と名づけられたイワクラ等がある。なお縁起には、鳥取・兵庫県境の山氷ノ山は、天照大神が旭日に輝く日枝の山、と感動されたことがその名の由来であることも記されています。

八上姫を祀る 大江神社
鳥取県東部はその昔因幡と呼ばれていました。稲羽の素兎の神話で有名な白兎海岸の白兎神社以外に、内陸部の八頭町にも数箇所の白兎神社があります。鳥取市河原町と八頭町・若桜町は八上郡だった所で珍しい伝承を残しています。
八上姫を祀る神社は八頭郡で3社、その内訳は河原町賣沼神社・都波只知上神社の2社 船岡町大江神社1社、と記されています。もちろん、いつから祀られているのか等詳細は不明です。大江神社は大己貴命、天穂日命、三穂津姫命が主祭神。

大江神社には、大己貴命がここで稲作をはじめとして民を教化し、その結果財を得たことから、「財原(さいばら)」と呼ばれるようになったという伝承が残っている。

白兎神社 福本の伝承

 城光寺縁起 には、この素兔とは、月読命だと書いています。縁起には天照大神ではなく、大日孁貴と書かれています。

白兎神社の彫刻には波うさぎだけでなく、住職が烏ではないかという鳥と鷺が彫られていました。これは、烏鷺(うさぎ)を意味します。

波と兎の彫刻…波は水、火除けの守り。月の精でもある兎は多産であることから、子孫繁栄や豊穣をもたらすめでたい動物。波うさぎの図柄の由縁は、「因幡の白うさぎ」からとの節もありますし、波に映る月と兎に触れられている謡曲「竹生島」に由縁があるともいわれています。

天照大神は、因幡但馬の国境となる高山を越えて去っていかれたそうで、その山は今、氷の山(ひょうのせん)と呼ばれていますが、天照大神が、その山を見て日枝の山(ひえのやま)と言われた言葉がなまったものだということです。

天照大神は福知山の皇大神社 (元伊勢・内宮)を目指したという。

丹後・丹波一円にかけて、元伊勢神宮内宮として広く尊崇されている。舞鶴あたりでは「元伊勢」といえばここを指している。

840年前後に位をいただいたと伝えられ、大正時代に神社合祀されました。現在は鳥居と社の面影を残します。ご神体は八頭町宮谷の「賀茂神社」に、社殿は八頭町下門尾「青龍寺」に移建されました。お寺の本堂正面向拝の上には、かなり大きい「波に兎」の彫刻があります。左甚五郎作といわれている。

福本七十号墳は、百済武寧王(521年没)の王墓から発見されたものに酷似した青銅製匙が出土したそうです。
この古墳は変形八角形で天皇家の陵墓が八角形になっていく時代と同時代に築造されたようです。

住吉大社、恩智神社の伝承

大阪市の住吉大社、八尾市の恩智神社は共に兔に縁の深い神社のようです。住吉神が降りてこられたのは、卯の月、卯の日であったとされ、住吉大社では、卯の葉神事が催されます。恩智神社では、卯の年、卯の月、卯の日に卯の方角から兔が降りて来られたので、それ以来、同社の神の使いとして兔が大切にされ、卯辰祭りが例祭としてて行われています。

住吉大社の手水舎の水口は神使の兎像になっている。

「(住吉大社と兎) 兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である御縁により奉納されたものです」

城光寺縁起の後半に出てくる応神天皇が因幡に行幸されたという伝承がある。応神天皇の母君は神功皇后で応神天皇の皇子兔道雅郎子です。つまり、兔の伝説は天皇家三代にわたっているという事実から考えると、これらの伝説にはなんらかのつながりがあるのではないでしょうか。

対馬の嶋御子神社:八上姫を祀る

  • 對馬嶋上縣郡 嶋大國魂神御子神御祭神  大國主神 八上姫命

長崎県対馬市にある。上対馬の東側の曽浦の近く、曽浦に注ぐ曽川の川沿いに境内がある。


境内は、林の中にあり、やや荒れた感じの神社だった。境内入口には二基の鳥居が建ち、鳥居脇の石(社号標)に、かすかに「貞観式 延喜式社 村社 島大国魂XXX」とある。

創祀年代は不詳。由緒も不詳。

『對州神社誌』には「嶋之尊大明神」と記され、式内社・嶋大國魂神御子神社の論社の一つ。現在の祭神は大国主神だが、社名から嶋大国魂御子神だと思われる。


曽の島御子神社は、中世の文書にも「しま のみこ」とあり、藩政時代を通じて「島之尊大明神」と呼 ばれてゐる。
三代実録の神位奉授の記事を検証すると、貞観十 二年(八七〇)三月五日丁巳、多久頭神、和多都美神等と 共に、嶋大國魂神、嶋御子神が載つてゐるが、嶋大國魂御子神といふのはない。

酒賀神社
境内にある石製の由緒書き
祭神  大己貴命 八上姫 大山祇命
三代実録所載の国史現在社で菅野大明神とも称する旧大草郷十三ヶ村の氏神であり郷中の一ノ宮である
そもそも当神社の創立たる判然として知ること能わざれども古伝旧事記に依りて考えるに今を去る千百余年の昔 天平勝宝六年須賀山の麓に坐す宮処を栃本山が鼻に奉移 皇室の尊崇により貞観三年従五位下 同十六年従五位上を授けられる

ウサギ(月夜見命の使者)とサル

  

八上姫を祀る神社

八上
賣沼神社
都波只知上神社
大江神社

因幡八上以外
酒賀神社
御湯神社
稲葉神社(稲葉殿)
潮津神社

伯耆
福栄神社
大石見神社
鷺の宮
県外
三井神社(島根県)
島御子神社(長崎県対馬)
気多神社摂社(石川県)
大己貴命とともに祀る神社は酒賀神社、御湯神社、稲葉神社、潮津神社、大石見神社、福栄神社、島御子神社の7社です。

小川月神社  明神大社 

亀岡市馬路町月読16

式内社で当社は丹波國五座四社の1社(名神大社)現在は周りを田んぼに囲まれてポツンと建っている小さな神社ですが、かつては広大な境内を有していたとされる丹波 地方でも有数の古社です。 近くを流れる大堰川(おおいがわ)に架かる橋は、この辺りの地名から取って月読橋と名付け られていますが、この月読一帯を有していたのではないかという説があるそうです。境内には拝殿と一間社の本殿が鎮座する覆屋があり、境内社はありません。


葛野坐月讀神社(月読神社) 松尾大社摂社

祭神  月読神 (月読尊を主祭神とし、高皇産霊尊を相殿に祀る。)

 境内社  聖徳太子社 月読尊を崇敬した聖徳太子を祀る
御船社 天鳥船神を祀る。

神幸祭の前には、この社において渡御安全祈願祭が行われる。
月延石(安産石)元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ、舒明天皇の時代に月読尊の神託によって当社に奉納された。安産の霊験があるといわれている 

由緒  約1500年前に鎮座したという古社で、山城国葛野郡の式内社。創建の由緒が『日本書紀』に記されている。
「顕宗天皇3年( 487)阿閉臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。



日本書紀によれば、
阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上し、顕宗天皇3年(487年)、「山城国葛野郡歌荒樔田」に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請し、壱岐県主・押見宿禰に祀らせたのに始まる。さらに対馬の下県(しもつあがた)の日神が人に懸かり(顕現し)、阿閉臣に懸かり、事代に懸かり、対馬の下県直がこれを祭るとある。対馬の下県の日の神とは、豆酸(つず)にあった高御魂神社(たかみむすび・じんじゃ)の祭神・タカミムスビ神のことである





歌荒樔田の比定地は、上野村、桂里、有栖川流域説など諸説ある。斉衡3年(856年)、水害の危険を避けるために、現在地の松尾山麓に遷座された。押見宿禰の子孫は卜部氏を称し、代々神職をつとめた。

対馬の阿麻氐留神社

御祭神  日神命

『對州神社誌』には、三所権現と記されている神社。『大小神社帳』には、照日権現とあり、祭神は天津向津姫神明治以前、両部神道の時代には、「照日権現」と呼ばれていたらしい。『神社大帳』では、祭神は対馬下県主、日神命またの名を天照魂命で、高御魂尊の後裔

天日神命(ヒニミタマ)。津嶋縣直の祖神として、『神名帳考 證』にも「阿麻氐留神是天日神命也」とあり、『特撰神名 牒』は、山城の天照御魂神社、丹波の天照玉命神社等と同 じく、当社も天照國照彦火明命なるべし、と考定してゐる。 阿麻氐留といふのは天照であり、それは本来この地方の神 名で、「天照神」だつたのではないか。それはまた照日神(テルヒノカミ) とも称したことは、『対馬神社誌』に明らかである。  -『式内社調査報告』-

対馬の住吉神社

祭神 
 彦波瀲武鵜鵜草葺不合命、三筒男命 (平成祭礼CD) 
和多都美之神、豊玉姫命 (『長崎県の地名』平凡社)

当社の創建は神武天皇の時代。彦波瀲武鵜草葺不合命を斎き祀り、津口和多女御子神社と云い、彦火火出見命が対馬海宮に降臨されて豊玉彦命の御女の豊玉姫を娶り、海宮に住み給いしこと三年。豊玉姫は胎妊の身となり、産室を此の地の柴瀬戸神浦に造らせて皇子の彦波瀲武鵜草葺不合命の御誕生・御抱育し玉いし古跡である。

神功皇后の三韓征伐の時、海神を斎き祀り住吉神社と云った。 
延喜式神名帳所載の対馬島下縣郡住吉神社は名神大社であり、舒明天皇弐年八月、遣唐使犬上耜の参拝があり、代々国司国主の崇敬を受け、治承四年(1180)対馬守源親光が社殿を補修した。文治年(1185~)神社帳に津口和多女御子神社とし貞享年(1684)神社誌に柴瀬戸住吉大明神と云う。 
明治三年十一月十四日住吉大明神の社号を改め和多女御子神社と称せられた。明治七年五月十八日村社に列せられる。昭和十八年一月十一日神社名変更を許可され、住吉神社と号するに至った。以上。

 『対馬神社誌』によれば、「後世に至り鶏知白江山に遷し祀りてからは、和多女御子神社と号した。また住吉神社と称すは神事造営上より行なわれ国主崇敬の神社。」とある。即ち、延喜式神名帳所載の対馬島の住吉神社と称しているが、鶏知に鎮座の住吉神社の方が有力であるのは、後に鶏知に対馬の中心地となったからである。