四神と天文図

角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)に分けられた。
角宿(かくしゅく、訓読:すぼし)は、二十八宿の一つで東方青龍七宿の第一宿。二十八宿の起点となる星宿でもある。距星はおとめ座α星(スピカ)。

キトラ古墳壁画の構成

 石室の内部は床を含めた全面に漆喰が塗られ、白一色の部屋となっていた。

推定される壁画の構成は、天井面中央の天文図、四壁上部の四神、四壁下部の十二支像の計17枚よりなる。
  壁画は、平面における墓室の中心点を交点として交わる南北軸と東西軸を基準線として配置されている。
  天文図の中心は墓室の中心と重なり、四神の玄武と朱雀、十二支の子像を南北軸が貫き、四神の青竜と白虎を東西軸が貫く。

天文図
  天文図は観測範囲の限界を示す外規(直径約60cm)、天の赤道、沈まない星の範囲を示す内規の三圏と赤道とずれて交わる黄道(太陽の公転軌道)の、計四圏がコンパスを使って朱線で描かれ、文化庁の推算によれば、その中に66星座350星が表現されているという。

 赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近となることから、高句麗天文図の系譜を引くものとする説もある

高松塚古墳
発見された後、古墳の築造時期や被葬者、および壁画のルーツに関して、各分野の専門家が様々な見解を発表し、多くの考古学愛好家の視線がこの古墳に集中した。盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから、当初は築造時期が7世紀末から8世紀初めの古墳終末期と推定されていた。しかし、平成17年(2005)の発掘調査の結果、藤原京期(694~710)の範囲にさらに限定されるようになった。

 高松塚古墳との対比で特徴的なのは、キトラ古墳には人物像が描かれていない。その代わり、2001年のデジタルカメラによる調査では、人身獣頭の十二支が描かれていることが判明した。これまで、この古墳の築造時期は7世紀末から8世紀初めとされてきたが、十二支像の壁画は築造時期のあらたな見直しを迫ることになった。 東アジアに人身獣頭の十二支が現れるのは8世紀中ごろで、キトラ古墳の年代を少なくとも8世紀前半まで新しくする必要があるかもしれない、とする歴史学者もいる。

両古墳とも、700年頃のものだと言われています。キトラ古墳のほうは、直径10m弱の2段式の円墳であり、高松塚の方は同じ2段式の円墳ですが、大きさはキトラ古墳の倍以上の大きさがあります。高松塚は天武天皇の皇子のうちのだれかの墓ではないかと言われており、キトラ古墳はいくつかの説があるものの、大きさからは皇族ではないのではないかと言われ、阿倍御主人(あべのみうし)ではないかという説が有力となっています。キトラ古墳がある場所が、阿部山の南斜面です。阿部の名前を残すことから、阿倍御主人説が生まれてきました。
阿倍御主人は、壬申の乱の時に大海人皇子側につき、その功績によて天武天皇に取り立てられ文武天皇の時には、従二位の右大臣となり703年に亡くなったとされています。
この阿倍御主人は、竹取物語の中にも登場します。「右大臣阿倍御主人は、財豊かに家広き人にておはしけり。」と紹介されます。竹取物語では、かぐや姫から「火鼠の皮衣」を持って来るように言われ、手に入れるために小野房守という後見人を唐に派遣し、唐の貿易商の王慶に見つけて来てくれと頼みます。自分で探そうという誠実さのない金持ちとして皮肉をこめて書かれています。

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3世紀初めに遷都した国内城とその周辺
高句麗古墳の築造時期は、遷都が行われた時期にあわせて前・中・後期に区分されている。すなわち遼寧省桓仁地方の卒本(チョルボン、そつほん)を王都と定めて建国した紀元前1世紀から国内城(集安))に遷都した3世紀初めまでを前期、427年に平壌に遷都するまでを中期、そして平壌遷都から668年の滅亡までを後期としている。

高句麗古墳を特徴づける2つのキーワードがある。「積石塚」と「壁画古墳」である。高句麗で壁画古墳が築かれるようになるのは4世紀の後半以降である。永和13年(357)に69歳で死んだ冬寿という人物を埋葬したという墓誌銘が残っている安岳3号墳が、最も古い壁画古墳とされている。したがって、それ以前の前期・中期に採用されていた高句麗の古い墓制は「積石塚」ということになる。

しかし、積石塚は壁画古墳に取って代わられた訳ではない。現在までに見つかっている壁画古墳はせいぜい100基程度にすぎない。壁画古墳が出現しても、積石塚古墳は高句麗滅亡まで築造され続けている。
高句麗では、現在100基ほどの壁画古墳が見つかっている。高句麗古墳の全体数からみれば大した数ではないが、それでもやはりかなりの数である。ところが、同じ朝鮮半島でありながら、百済や新羅、加耶では、事情がまったく異なる。壁画古墳はせいぜい1基か2基しか見つかっていない。

例えば、高句麗と同じく扶余族が建国した百済では、武寧王陵がある公州の宋山里古墳群の中の6号墳と扶余近郊の陵山里古墳群にある東下塚しか発見されていない。宋山里6号墳は磚築墳で、ブロック表面に粘度を塗り、 それに胡粉で見事な四神図が描かれている。 陵山里古墳群は6世紀後半から7世紀に築かれた百済王室の墓域で、その中の東下塚と呼ばれる古墳は、水磨きされた切石で横穴式石室を作り、四神図と蓮花文や飛雲文を描かれている。
新羅には、高句麗の影響で築かれたと思われる壁画古墳が、尚北道栄豊郡の邑内里に2基あるそうだ。6世紀代の築造とされている。伽耶地域でも、天井に蓮華文を描いた壁画古墳が1基見つかっている。大加耶の都があった慶尚北道の高霊にある古衙洞古墳である。我が国でも、現在までのところ、壁画古墳は高松塚古墳およびキトラ古墳の2基しか発見されていない。同じ東アジア文化圏の中にありながら、高句麗を除く他の国々では壁画古墳がほとんど普及しなかったものと思われる。