吉備国の平定、吉備津彦、温羅、孝霊天皇

孝霊9年 九州地方南部の球磨国・日向国には神武天皇の孫に当たる建磐竜命を派遣した。
孝霊45年 皇太子であった孝霊天皇自らが伯耆国に出発。兄の大吉備諸進命を吉備国へ、長女の3歳になる倭迹迹日百襲姫を讃岐へ派遣した。
孝霊52年 第6代孝安天皇が崩御。皇太子楽楽福命は大和に帰還し、翌孝霊53年正式の第7代孝霊天皇として即位した。その後まもなく、西国の鬼が活発に活動を始めた。孝霊天皇は西国平定に積極的に取り組むことにした。
孝霊53年、兄の大吉備諸進命の二人の子である兄稚武彦と弟稚武彦を先に山陽道に派遣し、自らは讃岐国経由で吉備国に入った。
孝霊54年 吉備国への侵入

第七代天皇・孝霊天皇の子。母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。
大吉備津彦命おおきびつひこのみこと(別名は、吉備津日子神、比古伊佐勢理毘古命、彦五十狭芹彦命)
日子刺方別命:ひこさしかたわけのみこと
夜麻登登母々曾毘売命
比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)
倭飛羽矢若屋比売。
日本書紀では、母は倭国香媛。 子は、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命。

日子刺方別命は、高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖。
吉備津彦は、四道将軍の一人。『古事記』では、若日子建吉備津彦命と共に吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。

古事記の孝霊天皇の条に,
「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは,二柱共々に,播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。」とある。

現在この地には日岡神社(兵庫県加古川市)が建っている。
稚武彦兄弟は、ここで戦勝祈願したものであろう。

侵入経路
経路と推定されるものが陸路と海路の二つある。
岡山県赤坂町の「片山神社」の記録に
若健吉備津彦は播磨から陸路を通ってこの片山神社の地を通過し、吉備中山に到着したとなっている。
岡山県妹尾の明神崎に海路やってきた吉備津彦が最初に上陸した地と言い伝えられている。
兄の稚武彦は祭祀者としての要素が強く、弟稚武彦は武将としての要素が強い。陸路の片山神社で「アジスキタカヒコネ」を祀っている。このことから、陸路を通って吉備国に入ったのは兄の稚武彦で、弟の方が海路吉備国に入ったと考えればよい。

吉備団子と妹尾村

吉備津彦の伝説
第7代孝霊天皇の第三皇子吉備津彦命は、第十代崇神天皇の勅により、四道将軍の一人に選ばれ、吉備の国を平定すべく、海路西征になりました。そして、妹尾の明神山の麓の岬の浜辺に着きました。そこに老漁夫が住んでいましたが、命一行をお迎えしました。そして、吉備で作った団子を差し上げましたところ、命は非常に喜びになりました。これが吉備団子の始まりです。そして、命はこの地方に来た理由を説明して、この地方に悪者がいないかと、お問いになりましたので、この備中の奥には悪者がいて良民を苦しめている由を申し上げますと、それではそれを征伐しなければならぬ。よって水先案内をしてくれと申され、老漁夫は水先案内をしました。当時の地勢は現在山陽線の通じている庭瀬駅、あるいは宇野線の妹尾駅のあたりは一面の海水で、転々と小島が散在していました。あいにく大暴風で船団は進路も定まらず、難航しましたが、老漁夫の水先案内が適宜の処置をとったために、かろうじて吉備の中山につくことができました。
吉備中山の上陸地点は「吉備中山総合調査報告」や岡山市史」に吉備中山南麓の花尻というところであると記録されている。

吉備国平定の地域

神社伝承により、吉備中山周辺、児島周辺、旭川流域、高梁川流域、小田川流域、吉備上道を平定している。

最初は、上陸地から吉備中山周辺と思われる。最後が出雲に残る吉備津彦の経路に備後から来たというのがあるので、小田川流域が最後と思われる。

    吉備津彦は讃岐国の倭迹迹日百襲姫を訪問し、その周辺の鬼退治もしている
    最後の小田川流域からそのまま尾道市まで西へ平定を続けている。
    尾道市あたりに滞在しているとき、伯耆国の孝霊天皇から、出雲平定に協力せよとの通知をうけとり、伯耆国へ出向いたか?
    孝霊56年頃、伯耆国菅福で仮宮を造った。
    吉備津彦兄弟は播磨道口での祭祀、吉備国上陸、温羅退治、高梁川流域平定などを行う
    百襲姫が讃岐の田村神社に来たと思われるのが成人してからである。
    旭川流域平定と美作国平定が行なわれている
    孝霊68年、孝霊天皇が伯耆国で大倉山、鬼住山の平定。吉備で残る小田川流域と備後の平定を開始したか?
    備後国での平定を完了したのが孝霊72年(片山神社記録)

鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)
「吉備津彦以外に、遣霊彦命、吉備武彦、楽楽森彦、高田姫命を祭神とす。楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。 高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」
吉備中山に到着すると、まず地元の協力者を募ったようである。鬼の出没に地元の人たちは被害を蒙っているわけであるから、 多くの協力者がいたようである。

御崎神社(総社市久米)・・・祭神吉備武彦
「上足守深茂の大神谷は御祭の神吉備武彦命、御友別命2代の御住居跡と伝えられている。」
「大吉備津彦命、御兄弟が温羅を平らげ給いしとき、片岡に本営を設け、吉備武彦命をして久米の前衛に進ませられ奮戦力攻、終に平足するを得たり。 前衛の舊跡を今もアンザイ(行在)という。その舊跡(現在の鎮座地宮山)に社殿を創建し艮御崎神社と称す。」
「若健吉備津彦命が吉備武彦命を連れて温羅を平定に来て、吉備武彦命が先陣を承って功を奏したので、御崎神社の祭神となった。」(吉備津彦の正体より)

温羅伝説

「崇神天皇のころ、異国の鬼神が空から吉備の国にやってきた。彼は百済の王子で名を温羅(ウラもしくはオンラ)と呼ばれた。 彼の両眼は爛々として虎狼の如く、蓬々た鬚髪は赤きこと燃えるが如く、身長は、約4メートルにも及んだ。膂力は絶倫、 性は剽悍で凶悪で”吉備冠者”と呼ばれていた。温羅は、総社市の新山(にいやま)に居城を構え、さらに近くの岩屋山に住居を構えて、 たびたび、西国から都へ送る貢船や婦女子を襲ったといわれた。人民は恐れ恐いてこの居城を鬼ノ城と呼び、都に訴え助けを求めた。 さっそく朝廷は、武将を遣わせてそれを討たしめたが、彼は兵を用いること頗る巧で出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。 そこで次に、孝霊天皇の皇子、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されることになった。吉備津彦命は大軍を率いて吉備国に下り、 まず吉備の中山に陣を敷き 、西は片岡山に石楯を築き立てて防戦の準備をした。これが楯築遺跡で、吉備の中山には、吉備津彦命が埋葬されたと言われている 中山茶白山古墳がある。 こうして温羅と戦うことになったが、もとより変幻自在の身のことであるから、戦いは困難で、さすがの吉備津彦命 も攻めあぐまれた。 ことに不思議なのは、吉備津彦命の発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中で噛み合い、いずれも海中に落ちた。 岡山市高塚にある矢喰宮(やぐいのみや)にはその弓矢が祀られている。吉備津彦命はここに神力を現し、 千釣の強弓を以って一時に二矢を発射したところ、一矢は前の如く噛み合うて海に入ったが、余す一矢は違わず見事に温羅の左眼に当たったので 、流るる血潮は混々として流水のごとくほとばしった。 総社市の血吸川はその経緯がある。さすがの温羅も吉備津彦命の一矢に辟易し、 たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なる 吉備津彦命は鷹となってこれを追いかけた。そこで、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡をくらました。 吉備津彦命はやがて鵜となってこれを噛みあげた。鯉喰神社があるのはその由縁である。温羅は、今は絶体絶命ついに 吉備津彦命の軍門に降って おのが”吉備冠者”の名を吉備津彦命に献上した。吉備津彦命は鬼の頭を刎ねて串し刺してこれを曝した。 岡山市の首部(こうべ)はその経緯である。
ところが、この首が何年となく大声を発し、唸り響いて止まらない。吉備津彦命は部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。 肉はつきて髑髏となったがなお止まない。そのため、吉備津彦命はその首を吉備津宮の釜殿の竈の下に八尺ほど掘って埋めた。 しかし、一三年の間唸りは止まらず鳴り響いた。そしてある夜、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現われ “吾が妻、 阿曽郷の祝の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈の前に参り給え、 幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。吉備津彦命は世を捨ててのちは霊神と現われ給え。 吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん”と告げた。この経緯から、吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀るものとされて、 精霊を”丑寅みさき”と呼ばれることになった。これが現在行われている吉備津宮の釜鳴神事のおこりである」

    2世紀半ばごろから、生活苦から中国地方各地に鬼(山賊・海賊)が出没するようになった。
    孝霊45年(171年)第6代孝安天皇は大吉備諸進命 (孝霊天皇の兄)を吉備国に派遣して鬼退治を行なおうとしたが、失敗した。
    孝霊53年第7代孝霊天皇の命により大吉備諸進命の二人の王子 (稚武彦・弟稚武彦)が吉備国に派遣された。命は地元の住民を集め、兵を募った。 楽楽森彦、犬飼健などが加わった。
    孝霊54年、 吉備津彦兄弟は稚武彦が本陣(吉備中山)を構え、弟稚武彦が先陣(楯築遺跡)を努めた。 ついに温羅との戦いが始まった。当時このあたり一面は海であったので戦いは船による海戦であった。 矢の射掛け合い、石つぶてのぶつけ合いが行なわれた。激しい海戦のすえ、楽楽森彦が鯉喰神社の地に温羅を追い詰めて討ち取った。 しかし、温羅の残党が各地に出没し、残党狩りに以後13年間を費やした。孝霊67年讃岐の百襲姫(菊理姫)の提案により残党との和解が成立した。

楯築遺跡と鯉喰神社
楯築遺跡は2世紀末ごろの双方中円墳で鯉喰神社もほぼ同時期の前方後方墳である。 ともに倭の大乱後、大乱関連地で祭祀を行いその後に築かれたものと考えている。楯築・鯉喰神社の伝承は吉備津彦時代のもの。

日差山伝説
「吉備津彦命は温羅征伐を始めるが、温羅には地の利があり、なかなか退治出来ない。そこで、吉備津彦命は武勇に自信のある武将を近国から集めた。 岡山県倉敷市日差の住民である夜目主命(やめのぬしのみこと)父子と栗坂の住民(栗坂神社の祭神)らは、武勇や知恵に長けていたため厚遇され、 吉備津 彦命の重臣・留霊主命らと計略を立て、温羅と戦った。 夜目主命は、暗闇でも白昼と同じ視力があり、夜襲が得意であった。 これにはさすがの温羅も勝てず船で逃げた。夜目主命は兵を引き連れて温羅を追い、土地に明るい夜目主命が陣頭指揮をとった。 留霊主命が温羅に組み付き、海中に転落。温羅は鯉になり、留霊主命は鵜になって戦ったが、2人とも討ち死にした。この温羅討伐の功績を称えて、 後に日指山(日差山)の頂上に社を建て「日指神社」として夜目主命と夜目丸の父子2神を祭ったという。しかし、現在はその跡は残っていない。」

鯉喰神社
「吉備の国平定のため吉備津彦命が来られた時、この地方の賊温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。 その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに、矢つ尽き刃折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。 すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。
それを祭るため村人たちはここへ鯉喰神社を建立した。」
祭神は楽楽森彦と温羅
温羅を退治したのは吉備津彦ではなくて楽楽森彦?

矢喰神社
「神話では、吉備津彦命の射る矢と鬼ノ城から温羅の射る矢とが空中で絡み合い、落ちた場所とされており、吉備の中山と鬼ノ城とのちょうど中間地点にある。国道から境内まで歩いていくと、小さな鳥居の右側に巨岩が大小合わせて5個並んでいて、「矢喰の岩」(やぐいのいわ)と呼ばれる。一説では、鬼ノ城から温羅は岩を投げたとされ、それが命の放った矢とぶつかって落ちたとも言われている。

吉備武彦
吉備津彦以外に吉備武彦が岡山県の神社に良く祭られている。吉備武彦は第12代景行天皇の時代に日本武尊の副将として東国征伐に参加している。320年ごろの人物である。しかし、岡山県内の神社では吉備津彦とともに行動しており、時代が会わない。

井森神社(井原市井原町1669)

「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」これを見ると、吉備武彦は吉備津彦の弟となっている。つまり、弟稚武彦のことである。

しかし、御崎神社の住居跡とされている吉備武彦はその子が御友別命であることから景行天皇の時代の吉備武彦と思われる。神社に祭られている吉備津彦は複数の人物が絡み合っていると思われるので、その正体を探るには大変な注意が必要である。

この吉備国の平定は兄の稚武彦を本陣とし先陣を弟の稚武彦(吉備武彦)として行なわれたということになる

吉備上道の岡山市海吉、吉備津岡辛木神社

この神社は操山山塊の東端にあり、祭神は吉備若建彦命である。この神は吉備津彦命の弟に当たるということである。「吉備津彦命が温羅(うら)という悪者を平らげ、平和な国作りを行ったとき、吉備若建彦命も上道・海面のあたりを平定された」と言い伝えられている。この頃孝霊天皇が讃岐経由で吉備中山に到着し、細姫もまもなく、大和から孝霊天皇を追ってやってきたと思われる。

高梁川流域の伝承

新見市石蟹に伝承
「石蟹で強賊の石蟹魁師(いしかにたける)が、石窟に居城を構えて横暴を極めていた。吉備津彦命がこれを征服して殺した。そして、この地を「伊波加爾(いはかに)」と称せよと申された。」
孝霊天皇が最初石蟹魁師を討とうとしたが、あまりに強力で苦戦をした。そのため、吉備中山にいた弟稚武彦を呼び寄せ、共同で戦うことにより石蟹の石蟹魁師は打ち破った。続いて新見盆地の本拠地も打ち破り、石蟹一族は北へ退散した。石蟹魁師荒仁は伯耆国の霞(日南町)に新しく拠点を構え、峠越えしてくる孝霊天皇・弟稚武彦軍を迎え撃とうとしたが、大倉山の麓でついに降参した。
石蟹魁師荒仁を破った後、孝霊天皇は日野川を下り溝口の鬼住山を目指した。弟稚武彦は再び吉備中山に戻り、次の旭川流域の平定に移った。

石蟹とは伯耆国の伝承にある石蟹魁師荒仁のことと思われるが、伯耆国の伝承では大倉山の麓で降参したことになっている。石蟹魁師荒仁の名を分解してみると、「魁師」とは大将を意味し、「石蟹族の長である荒仁」と思える。伯耆国の伝承のほうでもこの人物は備中出身となっている。これを元に双方の伝承をつないで見ると、

出雲族の一派である石蟹族が、伯耆国日南から備中国石蟹までを統治していた。その本拠地であるが、この石蟹というには狭すぎる。この支配地で最も開けているのは新見盆地である。おそらく、新見盆地を本拠地として、高梁川をさかのぼってくる孝霊天皇・吉備津彦軍を迎え撃とうとして、石蟹にその出城を築いていたのではあるまいか。

旭川流域に伝わる伝承。南から順に

  • 鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)「楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」
  • 化気神社(岡山県吉備中央町案田)「吉備津彦命が加茂の地に、御食津大神をお祭りになった頃、妖怪変化が出て、住民を恐れさせた。気比宮の西の方に火柱が現れたので、命は弓をとってこれをうかがわれた。そのに覘いの松といって記念の松がある。矢を放たれたが、その矢の掛かった松を矢懸かりの松といった。最近まで残っていたという。二の矢を放たれたとき上がられた気比宮の約6畳ぐらいの大きさの岩を駒石という。矢は怪物に命中し、一大音響を発し倒れて石となった。上体の落ちた所を立石(上田西)といい、残った石を的石(松尾神社境内)という。矢が高く、片となって飛んだところを高片(細田)といい、細田のあたりでその様子を見なかったところを目無という。矢の落ちた所を矢柄(細田)といい、遠くても音の聞こえたところを大鳴(上田東)と呼ぶようになった。これらの地名は現在小字名として残っている。」
  • 中山神社(岡山県津山市)「大己貴命 『延喜式頭注』、吉備武彦命 『作陽誌』、吉備津彦命 『大日本史』『神祇志料』と記録されており、地主神の大己貴命が中山神(鏡作神)にこの地を譲って、自らは祝木(いぼき)神社に退いた」この伝承地は旭川に沿って北上し、途中から吉井川水系にうつり、津山盆地まで進出したことをうかがわせる。中山神社の祭神の中山神(吉備中山に住んでいる神の意味か?)は吉備津彦であるらしい。
  • 津山盆地は岡山県北部最大の盆地で当時から多くの人々が住み着いていたようである。吉備津彦がやって来るまでは出雲族一派(大己貴命)がこの地を治めていたが、吉備津彦に譲り渡すことになったようである。このとき戦闘があったと見られるが、まったく記録されていないし、吉備津彦の名も中山神に変えられている。敗北した側の津山盆地の人々の抵抗ではないだろうか。 高梁川流域にしても、旭川(吉井川)流域にしても、県北のほうは出雲一族の一派が安定して国を治めていたように感じられる。吉備津彦によって大和政権下に所属するようになったという印象を受ける。
  • 児島周辺の平定、御前神社(岡山市妹尾897-1)「吉備津彦命は汗入(あせり)の沖で賊将・梟帥(たける)を成敗した時、大風により船が転覆しそうになったが大亀に助けられた。やがてその磯の前の3つの小島に住吉三神を祀り、汗入の浜に豊玉彦命・豊玉比売命を祀った。その後現在の地に社殿を建立し吉備津彦命を祀ったとされている。現在でも、三つの小島の証として、境内には波に洗われた大岩・土中には多くの貝が現存する。」
  • 船越神社(岡山県都窪郡早島町)「吉備津彦命の船団が児島の山賊・海賊を退治するために吉備の中山から海岸沿いに来られた。そのとき矢尾の大河という人を水先案内人に頼み、『あの島の浅瀬(現船越神社横の峠)は越せるだろうか』と聞かれた。大河という人は『この浅瀬は満潮のときなら通れます。この浅瀬を越すと児島へ早く行けます。』と答えた。この船越神社の地に吉備津彦命は船を着けて休まれた。


香川県の桃太郎伝説

高松市の沖にある女木島(鬼ヶ島)と鬼無を舞台に、伝説上の名ま えと土地の名まえをむすびつけて物語にしてある。お爺さんとお婆さんは鬼無の人で、お爺さ んが柴刈りにいった山が芝山で、お婆さんが洗たくにいった川が本津川である。  2人には子供がないので、そこで近くの赤子谷の滝で子どもがさずかるように神さまに祈っ た。ある日、川で洗たくをしているとき大きな桃が流れてきたので、お婆さんがひろって帰っ た。桃の中から男の子が生まれたので、桃太郎と名づけた。
この桃太郎さんは、孝霊天皇の第8皇子稚武彦命であるといわれている。命の兄が、吉備津彦命で岡山県に、姉が、倭迹迹日百襲姫命(田村神社祭神)といい、香川県に住んでいた。そこで、稚武彦命(桃太郎)は鬼退治 のためにやってきたといわれる。  鬼というのは、瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことである。  桃太郎におともした、犬、猿、雉は、それぞれの土地の人たちで、犬は岡山県の沖にある犬 島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。  いよいよ、鬼退治に出かけることになった。生島湾の近くに大きな 泉があって鬼の子分が島から水をくみにきていた。ここを木出(きだし)とい う。桃太郎らはここで鬼の子分がくるのをまってとりおさえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内 をさせた。  大海戦がおこなわれ、鬼どもは島の岩窟に逃げこんだ。桃太郎は攻めて、攻めて、岩窟内の 鬼どもを降参させた。  宝物をたくさん積んで中津の港にかえってきた。しかし、鬼どもが香西の海賊城にあつまっ て、攻めてきたので再び合戦になった。桃太郎は大いそぎで仲間に使を走らせて、弓と矢をも ってこさせた。この弓矢を作っていた人たちの墓が、弓塚、矢塚といってのこっている。また 、威かくのため弓の弦を鳴らしたところから、弦打(つるうち)と名づけた。本津川一 帯で激しい戦いがおこなわれた。鬼どもはついに討たれて死んでしまった。その屍を埋めたと ころが、鬼ヶ塚である。鬼がいなくなったことから、この土地を鬼無と名づけた。
上笠居村史 P658~P664 鬼ヶ島より

  • 明剣神社(岡山県小田郡 矢掛町下高末)「吉備津 彦命が放った矢が、鬼ノ城の麓にある蛇高の岩に当たり、その岩が砕け散り、20km離れた 矢掛町まで飛んだ。その岩が明剣神社の磐座」
  • 鵜江神社「『鵜江』は、 嵐山を挟んでの戦いに敗れた温羅が、鮎となって水中に逃げた。 吉備津彦命は鵜となって追い、鮎になった温羅を捕えたことから、付けられたとされる。」
  • 鬼ヶ嶽温泉(岡山県小田郡美星町鳥頭1690-1)「岡山県小田郡 矢掛町と岡山県小田郡美星町の境にあり、ここには出雲国に抜ける古代の道が通っている。温羅は鬼ケ岳に陣取り、輸送する物資を略奪していた。これを聞いた 吉備津 彦命が鬼ケ岳に討伐に出向いた。傷付いた温羅は山間の「いで湯」で治療しては戦った。このいで湯が鬼ケ岳温泉」
  • 羽無宮「『羽無(はなし)』は、鬼ケ岳の温羅退治の際、 吉備津彦命の放った矢が、樹間を通る間に矢の羽が抜け、羽の無い矢が飛んで来た、ことから名付けられた」
  • 御崎神社(岡山県小田郡矢掛町南山田)「吉備津彦命が賊平定のために当地方に来られたとき、抵抗を続けた賊を平定して村人を救われたので、命を祭神としている」
  • 青龍神社(岡山県後月郡吉井町簗瀬)「吉備津彦命、この国を平定し給ふ時、村内小田川に簗を架し魚を獲る事を始め給ふにより簗瀬という。祭神の霊夢により鉱山相稼ぎ村民繁栄のもととなる。」
  • 井森神社(井原市井原町1669)「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」
  • 岩倉山神社(岡山県井原市岩倉町)「吉備津彦命、賊徒平定のとき、陣営であった。山容位置が吉備中山に似ているので同命を奉斎した」
  • 岡山神社(広島県深安郡神辺町道上)「四道将軍吉備津彦命が西道平定のために派遣されていかれる途中、備中から備後国に入られて、現在の神社の場所でお休みになられた。そして、さらに西へ向かわれた。」
  • 吉備津神社(広島県尾道市山波町尾道造船所内)「吉備津彦命の上陸地、命がこの地に上陸したとき、目印に杖をさしたのが芽を吹いて大樹になったのが境内のウバメカシである。また、命が船をつないだという『ともづな石』も残っている。」この神社の地は「元の海岸の位置から270mほど移動した」という記録が見つかった。
  • 艮神社(広島県尾道市山波町)「吉備津彦命が休息した場所」

吉備津彦命は吉備中山から総社を経由して小田川沿いに西へ平定し、広島県の神辺、府中と平定し、福山から海路尾道まで進軍したことが伺われる。この戦いで吉備国全土が平定完了している。片山神社社記によると孝霊72年のことである。

伯耆国及び出雲の平定
大倉山伝説(孝霊68年)
「昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。
牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。 このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。 」

鬼住山伝説(孝霊68年)
「孝霊天皇が鬼住山の鬼退治をするとき、歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治した」

鬼林山伝説(孝霊72年)
「孝霊天皇は歯黒王子と共に鬼林山の鬼を退治した」

粟谷神社(孝霊73年)
「當社は出雲風土記所載の社にて孝霊天皇の皇子吉備津彦命に坐まし此神は崇神天皇の御宇六十年に東海の将軍武浮河別命と共に出雲振根懲罰の大命を奉じて出雲に降り給へりし神にして往時當地は吉備より出雲の杵築に達すべき要路なれば則ち将軍の滞陣し給へし所なり。」

歯黒王子は孝霊天皇の皇子で彦狭島命とも呼ばれている

伯耆国では孝霊天皇が印賀の鬼退治に手をかけており、このときの伝承に吉備津彦は登場しない

孝霊天皇は細姫を失うなど伯耆国での鬼林山の戦いに苦戦しており、伯耆国に応援に行ったのであろう。
艮神社(広島県沼隈町下山南1126)
「孝霊天皇皇子吉備武彦開化10年に熊曽新羅王と戦い給う時、左の目を射る。熊曽は大隅、薩摩なり。筑紫にては別名を豊武彦命というなり」
弟稚武彦は熊曽との戦いにも参加している。かなり高齢になってからのことと思われる。

郡神社(岡山県上房郡北房町小殿)

「吉備津彦命は崇神天皇の時代に吉備国に来て各地の兇徒を平定して回り、この地に来て御殿を築いて滞在した。そして、このちで亡くなられたので、その亡骸を埋葬した御陵をこの地の人々は「御陵様」と呼んで崇敬した。」