吉備と伯耆、瀬戸内の王族

吉備国では古今和歌集に
「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川のおとのさやけさ」
と歌われるごとく、鉄・鍛冶生産が早くから行なわれてきた鉄の一大生産地。

吉備津神社の祭神
大吉備津彦(おおきびつひこ)命
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別(みともわけ)命 – 大吉備津彦命の子孫
仲彦(なかつひこ)命 – 大吉備津彦命の子孫
千々速比売(ちちはやひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
日子刺肩別(ひこさすかたわけ)命 – 大吉備津彦命の兄
倭迹迹日稚屋媛(やまとととひわかやひめ)命 – 大吉備津彦命の妹
彦寤間(ひこさめま)命 – 大吉備津彦命の弟
若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)命 – 大吉備津彦命の弟

吉備津宮縁起の温羅伝説
崇神天皇のころ、異国の鬼神が吉備国に空より下った。彼は百済の王子で名を温羅(ウラ・オンラ)と もいい吉備冠者とも呼ばれた。彼の両眼は爛々として虎狼の如く、蓬々たる堀髪は赤きこと燃えるが如 く、身長は一丈四尺にも及び、絶倫かつ剽悍で凶悪であつた。 彼はやがて新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山に楯を構えて、しばしば西国から都へ送る貢船や 婦女子を掠奪したので、人民は恐れおののいてこの居城を「鬼ノ城」と呼び、都に行ってその暴状を訴 えた。 朝廷は大いにこれを憂い、武将を遣わしてこれを討たしめたが、温羅は兵を用いること頗る巧で出没は 変幻自在容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した そこで、つぎは武勇の聞こえ高い孝霊天皇の皇子イサセリヒコノミコトが派遣された。

中略

戦いの末、温羅はたちまち雉と化して山中に隠れたが、ミコトは鷹となって追いかけたので、温羅はまた鯉と化し て血吸川に温羅はついにミコトの軍門に降って吉備冠者の名をミコトに献上したので、それよりミコト は吉備津彦命と改称されることとなった。 吉備津彦命は鬼の頭をはねて串し刺しにしてこれを曝した。岡山市の首部(こうべ)はその遺跡とされ る。しかるにこの首が何年となく大声を発し、唸り響いて止まらないので吉備津彦命は部下の犬飼建(イ ヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。それでもなお吠え止まないのでその首を吉備津宮の釜殿のか まの下八尺を掘って埋めたが、なお一三年の間唸りは止まらず近里に鳴り響いた。 ところがある夜、命の夢に温羅の霊が現われて「吾が妻、阿曽媛をして釜殿のかまを炊かしめよ、幸あ れば裕に鳴り禍あれば荒らかに鳴ろう」と告げた。

これが吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりとさ れる。

十代崇神天皇により、西道に遣わされていた第七代孝霊天皇の子、後の吉備津彦の話である。

犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という三人の家来と共に激しい攻防の末に皇子は温羅を倒し、軍門に降った温羅は「これからは吉備冠者を名乗るが良かろう」と、名を献上。皇子はそれから吉備津彦命と改称し、吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を造って住み、281才で亡くなって中山の山頂(茶臼山御陵)に葬られたとされている。

阿曽の火祭り
温羅の妻、阿曽姫が巫女をしていたと言い伝えられる総社市奥坂の阿宗神社。ここで毎年八月初旬に行われるのが、「阿曽の火祭り」。
夕暮れ時、ろうそくの灯りに浮かび上がる境内に、古代から製鉄が盛んだったという同市阿曽地区の人々が扮した温羅や阿曽姫、その従者らの行列が、鬼ノ城山頂で採火した魂火(おにび)を運ぶ。
神事、楽曲演奏などにより、大和朝廷から鬼と畏れられた温羅の鎮魂が続き、続いて魂火は「うらじゃおどり」なども行われる岡山市の「おかやま桃太郎まつり」初日の花火大会会場に種火として運ばれてゆく。

日本書紀 崇神記
崇神天皇9月27日条では、大彦命はその途中の和珥坂(または山背の平坂)で不吉な歌を詠う少女に会ったため、引き返して天皇にこのことを報告した。そして倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女;大彦命のおば)の占いによって武埴安彦命(大彦命の異母兄弟)とその妻の吾田媛の謀反が発覚する。果たして実際に謀反が起こると、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺(和珥臣祖)が共に武埴安彦を討ち鎮圧した。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。

建部大社
吉備武彦はそ吉備津彦の子で、娘の穴戸武媛が日本武尊の妃の一人として嫁いでいます。 日本武尊の、東征にあたっては、景行天皇から吉備武彦に随従を命じられている。

武彦命の実名は彦狭島命とされるが、稚武彦命については、その父を大吉備諸進命(『記』に孝安天皇の子、孝霊天皇の兄弟と記す。別名があったか)とするが、その兄とされる吉備津彦命と大吉備諸進命との関係にも不明点がある。吉備津彦命の実名は彦五十狭芹命で「イサセリ」は諸進に通じそうであり、大吉備建比古とも称して、その妹大吉備建比売はm建緒組命の妻となって武貝児命などを生んだものか。
 吉備津彦命・稚武彦命兄弟の実際の系譜は不明な点が多く、淡路の御井宮に坐したという和知都美命(安寧天皇記に皇子の子とされる)を外祖父とし、能登・毛野氏族や彦坐王と近い親族関係があった。

彦狭島命の母は、古事記では磯城県主の一族である蠅伊呂杼命となっており、欠史の八代の時代を担った系譜である事が分かります。蠅伊呂杼命は和知都美命の子であり、越智(おち、おおち、おうち)の名のルーツはこの和知(わち)都美命ではないかと考えられます。

吉備氏の祖・吉備津彦の母の名に、「倭」「大倭」が冠されているのも、この二氏が同族、あるいは婚姻により親戚関係にあったことを物語ると思う。吉備氏系の倭建命の兄弟には、吉備藤井別祖の吉備兄彦命や、吉備和智直祖の稚倭根子命などがおり、「倭」と「吉備」はあちこちで交錯している。古代吉備王国こそ、「倭」だったのではないかと思えて来る。
また、倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。

日子刺肩別命
吉備津神社に祀られています
第七代天皇・孝霊天皇の子。母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄弟姉妹は夜麻登登母々曾毘売命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)、倭飛羽矢若屋比売。高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖。

宇佐、豊国と吉備

1「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖。吉備都命六世午佐(うさ)自命   定賜国造」『先代旧事本紀』国造本紀

2 豊国(とよくに。大分県~福岡県豊前地域)の国前臣は日子刺肩別命(ひこさしかたわけ)のことであり大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命。「孝霊記」

3 「豊国別命、吉備別祖」『先代旧事本紀』天皇本紀景行六十年条

4 「古の菟狭(うさ)国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作(みまさか)は古の菟狭国第一の神都にして、第二は九州」宇佐国造家伝承 宇佐公康『宇   佐家伝承が語る古代史』

5 本来皇室しかもらえない品位を宇佐神宮と吉備津彦神社だけがもらっている。
  「奉る(八幡)大神一品、八幡比羊(咩)神二品」『続日本紀』
  「八幡比羊神授一品」『文徳実録』
  「特授備中国吉備津彦神授四品」同上
  「在備中国四品吉備津彦神授三品」同上
  「奉授 備中国三品吉備都彦命二品」『三代実録』

日本武尊による九州、出雲遠征
古事記
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。
古事記
その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。
日本書紀
崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

日本書紀景行紀の「九州大遠征」
景行天皇(オシロワケ)が北部九州を拠点とする王朝の王だとすると、「書紀」の景行天皇13年の条「高屋宮、御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」

成務天皇(せいむてんのう)・・・景行天皇の第四子。和風は「若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)」。日本武尊とは異母兄弟。

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・・・日本武尊の第二子。和風諡号は「帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」。
先代の成務天皇は男児がなく、甥の帯中津日子天皇が後継者となった。

仲哀天皇は近江(滋賀県)の「高穴穂宮(たかあなほのみや)」で即位し、その1年後、「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)」を后とした。

その後宮殿を敦賀(福井県)、穴戸(山口県)、筑紫(福岡県)と変え、筑紫の「訶志比宮(かしひのみや)」にいるときに皇后である息長帯比売命に神託がおりる。それは「西方の国を帰属させよ」との内容であった。

仲哀天皇は「ここより西に国土はなく、海があるのみ。この神託は神が欺いているのである」として言うことを聞かなかった。
仲哀天皇はこのお告げに従わなかったことが原因で急死したと伝えられている。

応神天皇(ホムタワケ)が、筑紫の蚊田に生まれ、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とされた
「応神紀」の日向諸縣君牛(諸井)の女、髪長媛入内説話(仁徳天皇后妃)など、日向出身の媛が王朝に入内する。

『日本書紀』仁徳紀二年の条では「磐之媛命を立てて皇后とす。とありますが、仁徳天皇の皇后、磐之媛命は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の女(むすめ)です。

式内社 伯耆國川村郡 倭文神社
伯耆國一宮 旧國幣小社

御祭神 建葉槌命
相殿
下照姫命 事代主命 建御名方命
少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命

御祭神 建葉槌命 別名
天羽雷命:あまのはずちのみこ
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。

天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。
神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。

下照比売
大国主神が胸形三神の奥津宮に坐す多紀理毘売命を娶って生れた御子が、阿遅鋤高日子根神と、その妹高比売命。

下照比売命は、天津国玉神の御子・天若日子の妻。天若日子は阿遅鋤高日子神と瓜二つで、 天若日子の死に際し天若日子の親族により間違われて怒る。
このとき、夷振(ひなぶり)の歌謡を歌った時は高比売命と記されている。 これは、高日子神に対する名称だと考えられる。

伊予神社

主祭神 彦狭島命
配神
愛比売命(えひめのみこと)
伊予津彦命(いよつひこのみこと)
伊予津姫命(いよつひめのみこと)
日本根子彦太瓊命
細姫命
速後上命(はやのちあがりのみこと)
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。

速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。

新居浜市誌によると、
応神天皇の御代(270年)、秦の始皇帝三世、融通王(弓月王)が秦の遺民127県の民を率いて百済を経て、我が国に帰化したが、天皇は之を大和朝津間腋上の地に置き、後更に山城の太秦の地に置いたが、仁徳天皇の御代これを諸国に分置して、蚕を養い、絹布を織らしめた。その時、大生院の地に、多くの秦氏が来住し、この地の豪族となって発展した。この地で飛躍的発展をとげた秦氏は、奈良朝末期から平安初期にかけて大生院の地に巨刹正法寺を創建して、宗教的面にも大いに活躍した。

と書かれてあります。

伊予の国では、応神天皇の御代、三つの国に国造りをの皇子をおき、開拓をおこなったとされています。

・小千命・・・ 伊予の国造を命じられる
・阿佐利・・・・國造に任命(國津比古命神社・櫛玉比賣命神社)
・伊予主命・・・松山市久米小野あたり

秦氏は、数回にわたり日本へと帰化したとされていますが、応神天皇より更に昔、

紀元前200年頃、徐福が不老不死の仙薬をさがすために大船団を率いて日本へとやってきました。

ここ神野郡の国造りでもあった小千家の伝承では、小千家の祖は 「徐福」 だとも書かれています。

小千家にはさまざまな伝承があり、どれが本当の祖なのか、いまだにいろいろな議論がなされています。

小千(越智)家・・・・饒速日命、徐福、孝霊天皇、大山積神、小千命、

これら全てが、小千家の祖また祖神だと言われています。

そしてそれは 秦氏、徐福系の秦氏と繋がります。

阿佐利が国造りを行ったとされる、旧北条市に鎮座する、

「國津比古命神社・櫛玉比賣命神社」は、
今も饒速日命を祀る神社であり、また姫神は天道日女命を祀ります。

伊予主命が国造りを行った久米は、饒速日命の名前が消され、その代わりに、饒速日命の息子、
「宇摩志摩治命」の御降誕の地という伝説があります。

本来は、太陽の神 アマテラス饒速日命 と 月の女神 瀬織津姫とが夫婦神となります。現在では、饒速日命の后は、 「天道日女命」です。
だから、北条の國津比古命神社では、饒速日命を、后を祀る 櫛玉比賣命神社には、天道日女命を祀っているのです。

そして、小千家の祖、小千命を祀る 「大浜八幡神社」 もまた同じように、
小千家の祖神として、 饒速日命と天道日女命を祀っています。

饒速日命には、二柱の子供がいました。

饒速日命と天道日女命の子 、「天香山命(あめのかぐやまのみこと」
饒速日命と三炊屋媛(みかしきやひめ)の子 「宇摩志摩治命」です。
そして、この「宇摩志摩治命」が、物部氏(越智家) の祖神とされています。

饒速日命は 本来のアマテラス、 神です。

饒速日命という神自身が、母違いの子供をつくるはずがありません。

ということは、これはあることを意味しているのだと思うのです。それは、子孫です。

アマテラスである饒速日命と、天に通じる日の女 「天道日女命」 との間に生まれた

「天香具山命」 は、 大和に落ちてきた二つの山 「天の香具山」と同じ意味、神功皇后が天の香具山を自分のものにしようとしたように、日の神と日の女神の間に生まれた子供は、日の神を祀る氏族を意味する。

そして、大和にそむいた 長髄彦(ながすねひこ)の妹、三炊屋媛との間に生まれた「宇摩志摩治命」は、本来の倭、饒速日命と瀬織津姫を祀る 「物部氏(越智家)」のことを意味する。

ということは、三炊屋媛とは、瀬織津姫ということになります。
大三島を日本総鎮守にしなければいけないほど、この伊予の国、「小千の国」は、大和にとって重要な地でした。

また、二つに割れて落ちてきた 「天の香具山」 の片方は、この伊予の国に落ちてきました。
その地は、小千命の父である、 大小千命が国を築いた 松山でした。
また、饒速日命と三炊屋媛(瀬織津姫)の子供「宇摩志摩治命」が生まれた場所でした。 

饒速日命の子孫、 小千家が、「越智」として記述に現れてくるのは、不思議なくらい突然でした。

それまでは全く表舞台には現れなかった越智家が、あの鉄人伝説の 「越智益躬」から 新羅を倒して世に姿を表します。
そして、越智守興、越智玉澄、越智玉興、越智玉男と、大山祇神社の変更とともにその名前が現れていきます。

でも、この名前が現れた人々は、朝廷に味方した人物ばかりです。越智家は、同じ一族の中で 朝廷側と、朝廷に抵抗した側がいます。

越智家に嫁いだ 二人の姫。 片方は、物部氏側(瀬織津姫を祀る一族)の姫、
もう片方は、鴨族(日の神を祀る一族) の姫。

そしてそれぞれに生まれた子供が、片方は朝廷側(鴨族)へとつき、片方は越智家として戦った。
それが、饒速日命を祖神にもち、秦氏を祖先とする 越智家の姿なのではないでしょうか。
瀬織津姫を祀っていた大三島は、大山積神へと祭神を変更されました。

瀬織津姫が宿る 「姫の国 愛比売(愛媛)」 は常世の国、橘の島。

宇佐家がさらって行った 「越智常世織姫」は、小千家の姫でした。

そして、645年
天の香具山の落ちた片方、松山市天山の姫(白い衣)は奪われ、その地は、大化の改新により、大和の地となり、越智国(今治市)に先がけ、国府の役割の地となりました。

でも、一番奪わなければいけなかった場所は、「越智国」 大三島でした。

徐福が、不老不死の島 「蓬莱山」とした 大三島に祀られた姫を、百済の神 「大山積神」に変えなくてはいけなかった。