古墳の石棺、讃岐の鷲ノ山石と火山石

舟形石棺
4世紀中頃になると讃岐地方では、刳抜式石棺が多く採用される。
四国地方ではでは瀬戸内側の愛媛県と香川県に刳抜式石棺が分布していますが、そのほとんどは香川県下に存在しています。これら讃岐の刳抜式石棺は、形態上舟形石棺に分類されていますが、通常舟形石棺はその断面が扁平な円形をしているのに対して、讃岐地方の舟形石棺の断面は四角形に近く、形態的に多少異なる特徴を有しています。
全国的に見ても讃岐の刳抜式石棺の成立が最も早く、初現期の舟形石棺は断面が四角形であったものが、時代が下るに従い楕円形に変化したとも考えられています。

四国地方の刳抜式石棺ではは、国分寺町鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)と津田町火山の火山石(非晶質凝灰岩)石材の2種類が採用されています。また九州の阿蘇熔結凝灰岩製の刳抜式石棺も4例知られています。これらの刳抜式石棺は割竹形木棺を原型に創出されたといわれ、その典型が先の石清尾山積石塚群に存在する石船塚古墳の割竹形石棺です。積石塚群に刳抜式石棺の初期のものが採用されていることは、その成立に積石塚を築いた石材加工技術に長けた技術者集団が関与していたことが十分考えられます。鷲ノ山や火山石は、四国以外にも運ばれており、鷲ノ山では大阪府柏原市の松岳山古墳の長持型石棺材や、勝福寺に保存されている割竹型石棺で用いられています。ここで注目されるのは松岳山古墳の周辺に積石塚古墳が分布することで、この石材と積石塚古墳との関連性を強く示唆するものとして注目されます。また火山石製の刳抜式石棺は四国の東部に分布中心を持ち、最近は徳島県鳴門市の大代古墳から出土し注目されました。この火山石も四国以外の地に搬出されていて、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府和泉市の乳の岡古墳で確認されています。また奈良県奈良市の佐紀陵山古墳で過去に確認された石棺の蓋石状石材もこの火山石製であるとの見解も示されていて、巨大古墳の造営と火山石との関係もまた非常に興味あることです。

 安福寺
文字通り竹を割ったような形で、長さが約260cm、幅が80~90cm、蓋の縁に沿って幅11cmの帯状に直弧文(ちょっこもん)の文様が刻まれています。発掘の記録は残っていませんが、安福寺の北側にある勝負山(かちまけやま)古墳とも呼ばれた玉手山3号墳から出土し、移されたと伝えられています。石材は讃岐(香川県)の鷲ノ山(わしのやま)産の凝灰岩を使用したもので、同様の形態の石棺は大半が四国の前期古墳から出土しています。
安福寺の境内には、直弧文入りの竹割形石棺の蓋が伝わっていて、重要文化財に指定されている。この石棺の蓋は香川県鷲ノ山産の凝灰岩で作られていて、近畿地方では最古の石棺として知られているが、実は寺には玉手山3号墳から出土したとする伝承があるという。大阪市立大は埋葬施設の規模や副葬品から近畿最古とみられる石棺が存在した可能性が高いことがわかったと記者発表した。同時に、革綴冑(かわとじかぶと)の鉄板部品である小札(こざね)が60枚ほど見つかっていて、奈良県天理市の黒塚古墳などにも埋葬されていた中国製冑(かぶと)が埋葬されていたことも確認したと発表した。

【鷲の山石棺】
鷲ノ山 の石でつくった石棺が、石清尾山の石船積石塚古墳を含め県内で8例、大阪府で2例確認されているそうで、石船池周辺が製作工房と推定されている

大阪府柏原市の安福寺石棺(割竹形石棺)、同・松岳山古墳(組合せ石棺)などは、讃岐から河内まで運ばれたことになる。

九州より運ばれた阿蘇熔結凝灰岩製の石棺4例は、愛媛県松山市の石棺、香川県観音寺市丸山古墳および青山古墳の石棺、そしてもう一つの例は香川県高松市長崎古墳で確認されたものです

竜山石の石棺
竜山石の産出地は、加古川市、高砂市、加西市。
大阪府堺市の大山古墳(長持形石棺)、藤井寺市の津堂城山古墳(長持形石棺)、羽曳野市の誉田墓山古墳(長持形石棺)、奈良県御所市の室宮山古墳(長持形石棺)など
御所市・室宮山古墳と植山古墳の刳り貫き式家形石棺・・・石棺は阿蘇溶結凝灰岩、閾石は竜山石凝灰岩。

凝灰岩はその産地の地名をとって竜山石(兵庫県)、鷲ノ山石(香川県)、笏谷石 (福井県)などとよばれています。近畿地方 の石棺材は、割竹形石棺が鷲ノ山石、長 持形石棺の大部分が竜山石で、家形石 棺は阿蘇石や竜山石、二上山白石など、 さまざまな凝灰岩が利用されています。

【伯太彦神社】
 伯太彦命神社御縁起
本殿 御祭神 伯太彦命(ハクタヒコ・伯太比古とも記す)・広国押武金日命(ヒロクニオシタケカナヒ) 
若宮社 御祭神 大物主命(オオモノヌシ)
とし、続いて
 「御祭神である伯太彦命は、古書伝承によれば伯孫百尊(ハクソンハクソン)とも称され、田辺史(タナベノフヒト)の祖で、崇神天皇の皇子の豊城入彦命(トヨキイリヒコ)の四世大荒田別(オオアラタワケ)の子孫の努賀君(ヌカマキミ)の子とされる。百尊の孫の斯羅(シラ)が、皇極の御代に田辺一族として安宿郡資母郷に居を構えたとの伝承がある」とある。主祭神が伯太彦命であり、これを伯孫に充てることについて、諸資料とも異論はない。

広国押武金日命とは27代・安閑天皇(アンカン)を指す。66歳で父帝・継体の後を嗣ぎ4年間(1年説・2年説もある)皇位にあったという。

 
 なお継体紀25年条には、継体天皇の崩御記録(継体25年・辛亥年)に続いて、百済本紀(朝鮮半島・三国時代の歴史書・1145頃)の引用という形で、
 「また聞く、日本の天皇および皇太子・皇子、倶に崩御されたという」
との注記がある。

【伯太姫神社】
 伯太姫神社の祭神について、諸資料ともに
  主祭神  伯太姫命(ハクタヒメ)
  配 祀   大年大神・八幡大神(応神天皇)・子守大神・厳島姫大神
とある。ただ、境内に案内表示などはなく、今の神社でどうしているのか不明。

伯太姫命について、大阪府史蹟名勝天然記念物には「大日本神祇志(1873)は『蓋紀田辺史之先伯孫妻也』と誌し、地理志料(?)には『祀伯太首祖天表日命妻』と見ゆ、即ち伯太彦は男神・伯太姫は女神にして夫婦偕老の間柄なるべし」とある。
 地理志料にいう“伯太首祖天表日命(アメノウワヒ)”とは、新撰姓氏禄にいう
 「和泉国未定雑姓 伯太首神人 天表日命之後也」
を指し、伯太彦(伯孫)の異名同人としているようだが、伯太首が姓氏禄で未定雑姓(出自不詳氏族)に分類されていることもあり、その真偽は不明。
◎祭祀氏族
 伯太彦神社・伯太姫神社の祭祀氏族である田辺史について、新撰姓氏禄によれば、
  ・右京諸蕃(漢) 田辺史 漢王の後、知惣(チソウ)より出る也」
  ・右京皇別    田辺史 (崇神天皇の皇子)豊城入彦の四世孫、大荒田別命の後也
との2系統があるが、本来の出自は、右京諸蕃にいう渡来氏族という(漢王の後というが百済系と見られている)。

 田辺史を皇別氏族とすることについて、続日本紀の孝謙天皇・天平勝宝2年(750)3月条に、
 「中衛院外少将で従五位下の田辺史難波らに上毛野君の賜姓を賜った」
とあるが、豊城入彦命を祖神とする名族・上毛野氏(カミツケヌ)と何らかの縁で主従関係を結び、その系譜に連なることを許されたのであろうという(日本の神々3・伯太彦伯太姫神社・2000)。伯太彦神社縁起にいう“崇神天皇の皇子云々”とは右京皇別氏族としての田辺史を指す。
 (上毛野氏について、姓氏禄には、「右京皇別 上毛野朝臣 崇神天皇皇子豊城入彦命之後也」とある)

 田辺史は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、中堅官僚として国家の租税収納事務とか出納事務などに携わったとされる百済系渡来人といわれ、正史上では雄略紀9年条にある
 「飛鳥戸郡の人・田辺史伯孫が、娘が産んだ孫の祝いに婿の家行った帰り、月夜の中、誉田陵(応神陵)の下で素晴らしい駿馬に乗った人と出会った。欲しくなった伯孫は自分が乗っていた馬と交換して家に帰り、秣を与えて寝た。翌る朝、この駿馬をみると埴輪の馬と化していた。驚いて誉田陵に戻ってみると、自分の馬が埴輪の馬の間に立っていた」(大意)
との記録(埴輪馬伝承)が初見だが、そこには飛鳥戸郡(和銅6年-713-以降、安宿郡と改称)の人・田辺史伯孫とあり、田辺史一族が5世紀末頃に当地に居たことは確かという。