八幡、宇治の古墳、石清水八幡宮、菟道稚郎子

石清水八幡宮

男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、神功皇后、ヒメ大神(八幡三所大神という)をまつる旧官幣大社である。八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出ずる清泉を神としてまつっていたと伝えられている。

貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教(俗称紀氏)が、九州・豊前国(今の大分県)の宇佐八幡の神託をうけ、八幡神をこの地に勧請。時の清和天皇の命を承け、木工寮権允橘良基が宇佐宮に准じて、本殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手し、翌貞観2年(860)4月3日に「石清水八幡宮」は完成した。
以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布した。
特に源義家は、7歳になった寛徳2年(1045)の春、石清水八幡宮に於いて元服。以降、「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名である。

仏教が盛んであったころ、石清水八幡宮は僧侶によって管理され、その神宮寺は雄徳山護国寺といい、男山に48の堂舎僧坊が甍を並べた。江戸時代末期にあっても23坊を数えた。本殿に通じる参道の両側に並ぶ石灯篭は、往時の旺盛を偲ばせる。

現在の社殿は、寛永8年(1631)から寛永11年(1634)にかけて三代将軍徳川家光の造営によるもので、楼門、舞殿、幣殿、外殿、本殿、廻廊からなっており、すべて重要文化財に指定されている。楼門は、入母屋造り、桧皮葺で、左右に廻廊を出して外囲いを作り、前方に唐破風の向拝(ごはい)をつけた珍しい建築である。

椿井大塚山古墳(4世紀)

椿井大塚山古墳の築造時期がほぼ確定。

 前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)の年代観を得ることができました。この時期は、いわゆる邪馬台国の時代に相当します。定型化した前方後円墳の最初期のものとすることができます。

鏡の多さは群を抜く。総数37面の鏡を出土し、その中の33面は三角縁神獣鏡である。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/7-4tubaiootuka.htm
椿井大塚古墳は、海部の墓との説がある
『勘注系図』は始祖彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命が、七代孝霊の時、丹波の宰(みこともち)となり、その後山背(山城)久世郡水主村(くせのこうりみずしむら)に移り、さらにその後大和に移ったとする。注目されるのはこの、山背久世郡水主である。久世の地名は、現在京都府久世郡(ぐん)と城陽市久世に、その地名を残す。この城陽市に、水主(みずし)神社という古い神社がある。京奈和自動車道が木津川を渡る高架の、東たもとあたりである。祭神を始祖彦天火明として以下、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂命とする。まさに『勘注系図』が示す始祖彦天火明から九世孫までを祭神とする。山背大国魂命(やましろおおくにみたま)とは、九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)のことである。この人をこの地域の祖とするのである。 木津川中流域は建田背命以降、天の香語山の後裔で、後に海部(あまべ)あるいは和邇・和珥を名乗る一族の根拠地である。椿井大塚古墳はこの水主神社から木津川を南に10kmほど遡った、木津川の東側に位置する。この一族の墓と推測できる。 そしてこの椿井大塚古墳の被葬者として可能性が高いのは、丹波の大県主、由碁理(建諸隅命)の娘、竹野媛と九代開化の間に生まれた、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)である。

八幡東車塚古墳、八幡西車塚古墳(5世紀前半)

八幡市は京都府の南部、大阪府との境界線沿いに位置し、石清水八幡宮の門前町として発達した。

京都府八幡市の東車塚古墳 : 松花堂庭園の内庭の築山
本庭園は、東車塚古墳の跡地一帯に造園されており、後円部が内庭の築山として残存している。庭園は内園と外園に別れており、内園は東車塚古墳を利用して造られている。周辺は平坦だが、この地は小山になっていたため、その景観を取り入れ庭園を築いたが、この小山が前方後円墳だったので、古墳であることを知らないまま、庭園を築いたらしい。

松花堂庭園入口の奥に広がる東車塚古墳
本古墳は、全長約94m・後円部径約53m・前方部幅約30mを測り、後円部と前方部にそれぞれ埋葬施設があったと云う。
後円部は粘土槨で、銅鏡・勾玉・素環頭大刀・鉄剣・鉄鏃・甲冑・鉄斧などが出土。
一方前方部は木棺直葬と推定され、新山古墳と同笵の三角縁神獣鏡・内行花文鏡・盤龍鏡などが出土。
本古墳の築造は、埋葬品から4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
しかし発掘調査が明治時代であったこともあり、これら貴重な埋葬品は、散在・拡散されてしまい、ほとんど行方不明の状況らしい。
本古墳の被葬者は、かつて男山東麓を支配していた豪族で、石清水八幡宮遷座前の中心地であったことが窺い知れる。

西車塚古墳
八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。
本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる

明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。
銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。

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宇治二子山古墳(6世紀)

宇治上神社の北400mの丘陵北麓にある。たくさんの出土品は世界文化遺産に登録された。
1号墳(北側)・径42mの円墳。盗掘されていなくて粘土槨から神獣鏡1・武器類のほか数百個の玉類が出土した。
2号墳(南側)・一辺36mの方墳。四葉文鏡・多数の武具類や玉類が出土。

宇治二子塚古墳
京都府宇治市五ヶ庄

前方部と一部周濠しか残っていない。前方部の西南の周濠だけは形良く残っていてその周りが公園となる。
全長110mの前方後円墳、後円部径60m、前方部幅85m
三段築成 葺石あり 埴輪あり、二重の馬蹄形の周濠があった。
大正時代初めごろ、調査もされないまま、後円部が破壊された。この時、巨石数個が残され、横穴式石室があったのではないかと思われていた。
1987(昭和62)年の後円部の調査から、横穴式石室があったことが確認された。
副葬品として金環と鉸具のみが出土。埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・動物・盾などの形象埴輪が出土した。6世紀初頭の築造と推定されている。

この時期に、競うように宇治の木幡には京都府下で最大規模の前方後円墳である宇治二子塚古墳が造られ、大阪府高槻市には淀川流域で最大規模の前方後円墳である今城塚古墳が造られている

菟道稚郎子

『古事記』
応神天皇が菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売と出会ったのは木幡の地であった。宮主矢河枝比売は和珥(わに)氏の娘であり、和珥氏が木幡にも居住していたことが分かる。

考古学的には、木幡地域で古墳の築造が盛んになるのは二子塚古墳以後のことであり、有力氏族の居住は五世紀以降のことと考えられる

菟道稚郎子は、応神天皇の子で、後の仁徳天皇である大鷦鷯(おおさざき)尊の弟にあたる。『日本書紀』に描かれた菟道稚郎子は才気溢れる皇子であり、応神天皇の深く愛するところであった。

菟道稚郎子には、大山守命や大鷦鷯尊といった兄たちがいたが、応神天皇はこれらの兄を差し置いて菟道稚郎子を太子とする。このことが後の菟道稚郎子の悲劇へと繋がっていく。

応神天皇が崩御した後、菟道宮にあった菟道稚郎子は、兄である大鷦鷯尊が皇位につくべきであるとして自らは皇位につかず、三年の時が流れた。
この時、海人が菟道宮に大贄(おおにえ)の魚を献上してきた。大贄は天皇に献上されるものであるため、菟道稚郎子はこれを受けとらず、難波にいる大鷦鷯尊にこれを送らせた。

大鷦鷯尊もまたこれを受け取らなかったため、菟道と難波を往復すること数度、ついに魚は腐ってしまった。

ここに至り、菟道稚郎子は大鷦鷯尊の決意のかえがたいことを知り、自らの命を絶ったのである。そしてその亡骸は、菟道の山上に葬られた。

久津川車塚古墳

京都府城陽市平川
1894(明治27)にJR奈良線建設時に長持型石棺や鏡・玉・武器などが出土して古墳と分かった。

墳丘の東側にJRの線路が通っているので墳丘は崩れている。柵があるが、墳丘の中に入れる。
南北に主軸を持つ全長180mの前方後円墳。
周囲には盾形の周濠が二重にめぐる。
周濠を含めた全長は272m。
墳丘には葺石があり、墳頂部とテラス面には埴輪列がめぐる。
埴輪は円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪(家形・蓋形・盾形)
埋葬施設は大型の長持型石棺の両小口に板石積みの小石室を付設したもの。
石棺内や小石室内から銅鏃・玉類・石製品類・武具類など多くの副葬品が出土した。
5世紀前半の築造と推定された、南山城地域では最大級の前方後円墳。

出土した石棺は、京都大学文学部博物館に、そのレプリカが京都府山城郷土資料館に展示されている

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京都府木津川市にある高倉神社には以仁王がまつられており、境内には以仁王の墓と伝えられる陵墓がある。

治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。

以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。

後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになった。