出雲大社、国譲り、杵築大社

明治4年、杵築大社が出雲大社に
出雲大社は古来より、その地名に由来して杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれてきた。
明治4年(1871年)に、出雲大社と改称した。

宇迦能山の山麓の杵築に住んだ大国主
大国主が国を天照の子孫に譲ったあと、杵築大社を自らの住居にした。なお、杵築大社が現在の出雲大社に改名されたのは、1871年(明治4)である。
宇賀郷と杵築大社の位置関係を調べと、宇賀郷は出雲郡の、楯縫郡に接する位置にある。 宇賀郷の南には山脈があり、現在の太々山(341m)、天台ヶ峰(490m)、鼻高山(536m)、旅伏山(412m)が東西に並ぶ。 杵築大社は、山脈の南西の麓にある。宇賀郷とは反対側にあたり、やや距離が離れている。しかしこの山脈を宇賀の山だとすれば、杵築大社は確かにその山本にある。
だから、須佐之男命が言う、宇迦能山の山本の大神殿は杵築大社を指し、大国主の将来の住居となったか

出雲大社(=杵築大社)の建立

『古事記』の “大国主神の国譲り”

自分の住処として壮大な宮殿を立てることを条件に、大国主神が統治していた葦原中國(あしはらのなかつく

に)、すなわち瑞穂の国を、天つ神の御子に差出すことを了承したという一文が記されています。

ただ僕(あ)が住所(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、とだる天(あめ)の御巣(みす)如(な)して、底(そこ)つ石根に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天の原に氷木(ひぎ)たかしりて治めたまはば、僕(あ)は百足(ももた)らず八十(やそ)くま手に隠れて侍(さもら)ひなむ。

『日本書紀』の国譲り

大国主神が、一定の条件を呑んで潔く国を引き渡す見返りとして、壮大な宮殿を建てることを、高天の原にいる高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の側から申し出たことが記されています。

今(いま)、汝(いまし)が所言(まうすこと)を聞くに、深(ふかく)く其(そ)の理(ことわり)有り。故、更(さら)に条(をちをち)にして勅したまふ。
夫(そ)れ汝が治(しら)す顕露(あらわ)の事は、是(これ)吾孫(すめみま)治すべし。
又(また)汝が住(す)むべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今供造(つく)りまつらむこと、即ち千尋の栲縄(たくなわ)を以て、結(ゆ)ひて百八十紐(ももむすびあまりやそむすび)にせむ。
其の宮(みや)を造(つく)る制(のり)は、柱(はしら)は高(たか)く太(ふと)し。板(いた)は広(ひろ)く厚(あつ)くせむ。
又田(みた)供佃(つく)らむ。
又汝が往来(かよ)ひて海(わたつみ)に遊(あそぶ)ぶ具(そなえ)の為(ため)には、高橋(たかはし)・浮橋(うきはし)及び天鳥船(あまのとりふね)、亦供造(つく)りまつらむ。
又天安河(あまのやすかは)に、亦打橋(うちはし)造らむ。
又百八十縫(ももぬひあまりやそぬひ)の白楯(しらたて)供造(つく)らむ。
又汝が祭祀(まつり)を主(つかさど)らむは、天穂日命(あまのほひのみこと)、是なり。とのたまふ。
( 『日本書紀』 岩波文庫版 巻第二 神代下 第九段 P136~138 )

出雲風土記の国譲り

『出雲国風土記』の 各郡 四 楯縫郡 (一)郡総記 「楯縫(たてぬひ)の郡(こほり)」 に記されている

楯縫(たてぬひ)の郡(こほり)。
ーー 途 中、省 略 ーー
楯縫(たてぬひ)と号(なづ)くる所為(ゆゑ)は、神魂命(かむむすひのみこと)詔(の)りたまひしく、「吾(あ)が十足(とだ)る天(あめ)の日栖(ひすみ)の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の栲縄(たくなは)持ちて、百八十(ももやそ)結(むす)び下げて、此(こ)の天(あめ)の御量(みはかり)持ちて、天(あめ)の下(した)所造(つく)らしし大神の宮、造(つく)り奉(まつ)れ」と詔(の)たまひて、御子(みこ)天御鳥命(あめのみとりのみこと)を楯部と為(し)て、天下(あまくだ)し給ひき。尓(そ)の時、退(まか)り下り来坐(きま)して、大神の宮の御装(みよそひ)の楯、造り始め給(たま)ひし所、是也。 -- 略 -- 」
『出雲国風土記』 講談社学術文庫 萩原千鶴 各郡 四 楯縫郡 (一)郡総記 P164~165

杵築(きづき)の郷(さと)というのは、現在の簸川郡大社町付近
。つまり、出雲大社がある場所です。その地名に由来して、かつては杵築大社と呼ばれたのです。因みに、出雲大社の現在の住所は、島根県簸川郡大社町杵築東宮内195 です。

出雲風土記の杵築の郷(さと)
八束水臣津野命(やつかみづおみづののみこと)の国引き給(たま)ひし後(のち)に、天(あめ)の下(した)所造(つく)らしし大神(おほかみ)の宮奉(つかへまつ)らむとして、諸(もろもろ)の皇神等(すめかみたち)、宮処(みやどころ)に参集(まひつど)ひて杵築(きづ)きき。故(かれ)、寸付(きづき)と云(い)う。

何故杵築か?、大国主がスセリヒメと暮した処

「天(あめ)の下(した)所造(つく)らしし大神(おおかみ)」 こと大国主神が住む社が、出雲の御崎山の西の麓に建てられたということです。

そして、この出雲の御崎山というのは、『古事記』に登場する宇迦(うか)の山に該当します。その宇迦(うか)の山に関しては、次のような出来事が関連して来ます。
大国主神が、須佐之男命の女(むすめ)の須世理毘賣を妻とした際に、住んだところという。
『古事記』には、次のような一文が、須佐之男命の言葉として記されています。宇迦(うか)の山の麓に宮を造って住んだ。

「 --- その我が女(むすめ)須世理毘賣を嫡妻(むかひめ)として,宇迦(うか)の山の山本に、底(そこ)つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴。」といひき。」

( 『古事記』 岩波文庫版 上つ巻 大国主神 3 根の国訪問 P48 )

この宇迦(うか)の山の山本、すなわち御崎山の麓には、須世理毘賣を妻として迎え入れた時に建てられた社があったのです。従って、それと同じ場所に、出雲大社(杵築大社)が新たに造営されたことになります。

出雲国風土記の国譲り
出雲国風土記は、意宇郡・母理郷の地名由来文の中でこう述べる。

 (大穴持命の言葉)
我造坐而 命國者 御皇孫命 平世 所知依奉 但八雲立出雲國者我静坐國
我(わ)が作り坐(ま)して命(まか)せむ国は、御皇孫(すめみま)の命(みこと)の世を平らげ知依(しろし)め奉(たま)はる所なり。 但(ただ)、八雲立つ出雲の国は我が静(しづ)まり坐す国なり。
私が作り、これから委ねようとする国は、御皇孫の命(みこと)が世を平定し統治なさります。 ただし、八雲立つ出雲の国は、私が静かにおさまる国です

『出雲国風土記』の四柱の大神
四大神とは「所造天下大神( オオクニヌシ)、熊野大神、佐太大神、野城大神」であって、「杵築大神」は出てこない。

熊野大神、、、、古代伝承上の神。
「延喜(えんぎ)式」祝詞,「出雲(いずも)国風土記」によれば,島根県八束(やつか)郡八雲村熊野の熊野神社の祭神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の子,素戔嗚尊(すさのおのみこと)をたたえた別名で,くわしくは神祖熊野大神櫛御気野命(かむろきくまののおおかみくしみけぬのみこと)。出雲大社の大国主神とともに出雲国内の最高神とされ,植林および農業をつかさどる。

佐太大神、、、出雲国二ノ宮 神在の社 佐太神社の主神。御本殿三社に十二柱の神々を御祀りしていますが、主祭神 佐太大神は出雲国で最も尊いとされる四大神の内の一柱で猿田彦大神と御同神です。 正殿の主祭神である佐太御子大神は『出雲国風土記』に登場する佐太大神と考えられる。佐太大神は神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれた。神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。
明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。『出雲国風土記』秋鹿郡条に「佐太御子社」と記載されている。延喜式神名帳には「佐陀神社」と記載されている。中世に入ると「佐陀大明神」とか「佐陀大社」、「佐陀三社大明神」などと呼ばれるようになった