出雲國造神賀詞、出雲国造、系図

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)

新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞。
出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。

霊亀二年(716)
出雲国造果安による神賀事の奏上があります。忌部宿禰子首が帰京するとき同行して上京し た出雲国造果安。天穂日の後裔。
出雲国造果安のときは郡司から祝部にいたる百十余人を従へて奏上、神祗大副の中臣朝臣人足がうけて、 その寿詞を天皇に奏聞したといいます。『日本書紀』が完成する四年前の出来 事でした。一方、神賀事の奏上される四年 前に『古事記』が完成したことになっています

文武大宝二年(702)
各地の 国造が藤原京に召集され、とんでもないことが言い渡されました。新に制定され た大宝律令の領布とともに、「諸国国造の氏を定め、その名を国造記に詳しく載 せる」とされ、しかもそれまで国造の権限下にあった官倉の鎰カギ も、やがて中 央から派遣する国司に委譲せよ、というものでした。
そして、出雲国造の名が意宇氏から出雲臣という氏名になったのも、このときからでした。

大宝律令の施行にと もなって文武慶雲三年(706) 出雲国では評制から郡制にきりかえられ、それまで 各評を統括していた出雲国造は、一つの意宇郡司に引き下げられた。一方、 出雲国造がお意宇郡大領をこの年から兼任したことは、26世出雲国造兼連のとき であり、ずっと後の桓武延暦十七年(706) の類聚三代格 に載せられた太政官符によって、そのとき兼職が解かれたことがわかります。そ して、先の神郡特例によって、意宇郡小領に一族の出雲臣を出し、自らは杵築郡 へ移住し、出雲国庁の造営にあたったのです。

出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したのは、文武朝の慶雲三 年(706) の26世出雲国造兼連のときでした。出雲国造が兼任した意宇郡大領を解 かれたのは、桓武朝になってからですから、約九十年後のことです。

中央から派遣された貴族の出雲国司、正五位下忌部宿禰子首が着任したのは、 それから二年後の元明女帝和銅元年(708) はじめでした。
この国司が出雲国にもたらした結果は、計りしれないものがあります。

出雲國造神賀詞 (読み下し文)
八十日日(やそかび)はあれども、今日の生日の足日に、
出雲国々造(某)、恐みかしこみも申し賜わく、
かけましくもかしこき明きつ御神と、大八嶋國しろしめす、
天皇(すめら)命の大御世を、手長の大御世といわいとなして
(もし後のいわいの時には後の字を加えよ)
出雲の國の青垣山の内に、 下つ石根に宮柱太く知り立て、
高天原に千木高く知りいます、
伊射那伎の日眞名子、 加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神、櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)、
國作りましし大穴持命(おおなもちのみこと)、
二柱の神を始めて、百八十六(ももやそあまりむつ)社にいます皇神等(すめがみたち)を、
(それがし)が弱肩に太襷(ふとだすき)取りかけて、
いつ幣(ぬさ)の緒を結び、あめのみかびかぶりて、
いずの眞屋に、麁草をいずの席(むしろ)と苅り敷きて、
いつへ黒益の、あめのみかわに齋こもりて、志都宮に忌い静め仕へ奉りて、
朝日の豊榮とに、祝いの返事(かえりごと)の、神賀(かむほぎ)の吉詞(よごと)、
奏し賜はくと、奏す。
高天の神王、高御魂命の、皇御孫の命に、天の下大八嶋國を事避しまつりし時、
出雲臣等が遠ツ神、天穂比命を、國體見に遣はしし時に、天能八重雲を押別けて、
天翔り國翔りて、天ノ下を見廻りて、返事申し給わく、
豊葦原の水穂ノ國は、昼は五月蝿なす水沸き、
夜は火[(冠)分+(下)瓦]なす光く神あり、
石根・木立・青水沫も事問ひて、荒ぶる國あり。
然れども鎭め平げて、皇御孫ノ命に、安國と平けく知ろしまさしめんと申して、
己ノ命の皇子天夷鳥命に、布都怒志命をそえて、 天降し遣わして、
荒ぶる神等をはらい平け、
國作之大神をも媚び鎭めて、大八嶋國の現ツ事・顯事事よさしめき。
すなわち大穴持命の申し給わく、
皇御孫ノ命の静まり坐を大倭國と申して、
己ノ命の和魂を、八咫ノ鏡に取つけて、
倭ノ大物主櫛[瓦+長]玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、
己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主命の御魂を、 宇奈提に坐せ、
賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫ノ命の近き守神と貢り置きて、
八百丹杵築ノ宮に静まり坐しき。
是に親神ろき・神ろみノ命宣りたまはく、
汝天穂比命は、天皇命の手長大御世を、堅石に常石にいわいまつり、
いかしの御世にさきわへまつれと仰せ賜しつぎてのままに、
供齋(もし後のいわいの時には、後ノ字を加えよ)仕へまつりて、
朝日の豊榮登りに、神のいやしろ・臣のいやしろと、
御祷の神寶、たてまつらく、と奏す。
白玉の大御白髪まし、赤玉の御あからびまし、
青玉の水ノ江ノ玉の行きあいに、
明ツ御神と大八嶋國しろしめす、天皇命の手長大御世を、
御横刀(みはかし)廣らにうち堅め、
白御馬の前足ノ爪・後足(しりへあし)ノ爪、踏立つる事は、
大宮の内外の御門の柱を、上つ石根に踏堅め、
下つ石根に踏凝らし、振立つる耳のいや高に、
天下をしろしめさむ事のしるしのため、
白鵠(しらみどり)の生御調(いきみつき)のもてあそびものと、
倭文(しず)の大御心もたしに、
彼方(おち)の古川岸、此方(こち)の古川岸に、
生い立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、
すすぎ振るおどみの水の、いやおちに御おちまし、
まそひの大御鏡の面を、おしはるかして見そなす事のごとく、
明ツ御神の、大八嶋國を、天地日月と共に、安らけく平らけく
しろしめさむ事のしるしのためと、
御祷ノ神寶をささげもちて、神の禮白(いやしろ)・臣の禮白と、恐みかしこみも、
天ツつぎての神賀の吉詞、もほし賜はく、ともおす。

出雲国造の系図

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