倭迹迹日百襲姫、天村雲命、吉備津彦

讃岐は、屯倉が置かれなかった国
謎である。
1.大和王朝の故郷であった。
2.大和王朝の親戚であった
いずれかでしょうか?

讃岐一宮 田村神社

祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)
別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)
別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。
天五田根命 (あめのいたねのみこと) – 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。

香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社

孝霊天皇の子供たちが祀られている。
孝靈天皇と意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の間に生まれた
夜麻登々母々曽毘賣命
日子刺肩別命
大吉備津日子命〈吉備津彦命〉
倭飛羽矢若屋比賣命〈倭迹迹稚屋姫命〉
血統を調べますと、「大和朝廷」「三輪一族」「饒速日命」の血をひく姫

なぜ 天村雲と天隠山命でしょう

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孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇、大倭根子日子國玖琉命とも)
母は押媛、天足彦國押人命の女なり。
子は、日本根子彦國牽天皇(孝元天皇)、倭跡跡日百襲姫命、彦五十狹芹彦命、倭跡跡稚屋姫命、彦狹島命、稚五彦命。
彦五十狹芹彦命(吉備津彦命)は、第7代孝霊天皇の皇子で第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として吉備の国に下られこの国を平定された。その後、仁徳天皇が吉備地方に行幸になった時、吉備津神社を建立し命を祀った。

安寧天皇皇后、磯城県主葉江の娘である川津媛とあります。

弟磯城
磯城縣主は欠史八代の天皇の第二代綏靖天皇(「古事記」では皇后を河俣毘売とし、師木県主波延(安寧天皇皇后、阿久斗比売の父)の妹とする。「日本書紀」は五十鈴依媛命(事代主命の娘)とする)、第三代安寧天皇(「古事記」では皇后を河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売とする)、第四代懿徳天皇(「古事記」での皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売(飯日比売))、第五代孝昭天皇(「日本書紀」第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛)、第六代孝安天皇(「日本書紀」第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛)、第七代孝霊天皇(「日本書紀」本文における皇后で、磯城県主大目の娘)、以上、第二代から第七代までの天皇の皇后に磯城県主の娘がからんでいる。特に、磯城県主「葉江」の関係者が多い。ハエは弟磯城名黑速(くろはや)のハヤに音が似ていると言うことで葉江と黒速は同一人物か親子という人もいる。この天皇氏と磯城県主の結びつきをどう解するとよいのか。後世、天皇家と結びついた姻族は好き勝手なことを行っている氏族が多いところを見ると磯城県主氏は遠慮がちで到底事実とは考えがたい。欠史八代の実在性をいうのだったら第八代孝元天皇以降が実在したという方がいいのではないか。

倭国香媛(ハエ某姉※)
父・和知都美命
 (磯城津彦命の子)
『書紀・古事記』安寧第三子磯城津彦に二柱ありて、一柱は伊賀・三野の稲置の祖、一柱は和知都美といい淡路宮に坐す。その子二柱ありて紐某姉・紐某弟という。 
中原系図によれば磯城津彦の後を十市県主とする。そして磯城津彦と磯城津彦の子の和知都見は磯城県主であったと思われる。したがって、磯城県主であり、十市県主の祖である大目は、磯城津彦の子の和知都見を指すものと思われる。
・磯城津彦
①父:安寧天皇 母:
②兄弟:4懿徳天皇 子供:多祁太努美・和智津彦
③中原氏元祖
 
・和智津彦
①父:磯城津彦 母:不明
②子供:蝿伊呂居・倭国香媛・蝿伊呂妹
別名:和知都美
③淡路島の御井宮に祀られてある。(古事記)

古事記に見る淡路島

古事記中巻二安寧天皇
 師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。
 
・倭国香媛
①父:和智津彦 母:不明
②夫:7孝霊天皇 子供:倭迹迹日百襲媛・吉備津彦・倭迹迹稚屋媛
別名:蝿伊呂姉(はえいろど)、蝿伊呂泥、意富夜麻登久邇礼比売
 
・蝿伊呂妹(はえいろね)
①父:和智津彦 母:不明
②夫:7孝霊天皇 子供:彦狭嶋・稚武彦  別名:蝿伊呂杼
 
・蝿伊呂居
①父: 和智津彦 母:不明
②これ以降の系譜不詳
③十市氏・中原氏の祖である。

孝霊天皇の伝承
 瀬戸内の王者と言える。備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。

 孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。

 淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。

 阿波忌部氏の祖とされる天日鷲命は、「天加奈止美命」即ち「天金鵄」とされ、神武天皇の弓にとまって燦然と輝いた金鳶であると言われる
国造本紀の序文には,天日鷲命が伊勢国造と伊賀国造となったとある。

『日本書紀』では吉備津彦命の後裔氏族に関する記載はなく、弟の稚武彦命を吉備臣(吉備氏)祖とする。一方『古事記』では、吉備津彦命を吉備上道臣の祖、稚武彦命を吉備下道臣・笠臣の祖とする

また『続日本紀』天平神護元年(765年)5月20日条では、播磨国賀古郡(加古郡)の馬養造人上が吉備都彦苗裔の上道臣息長借鎌の子孫であると言上しており、「印南野臣」が賜姓されている

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。

国前国造 – 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に吉備臣同祖の吉備都命六世孫の午佐自命を国造に定める。のちの豊後国国埼郡国前郷周辺にあたる。
葦分国造 – 纏向日代朝(景行天皇)の御世に吉備津彦命の子の三井根子命を国造に定める。のちの肥後国葦北郡葦北郷周辺にあたる。

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天村雲命
『海部系図』によれば、始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り天村雲命を生む。彦火明命の孫にあたる天村雲命の亦名を天五十楯天香語山命と云う。
彦火明命 丹後國與謝郡 籠神社に祀られる。
天忍人命 伊豫國伊豫郡 高忍日賣神社、大和國葛下郡 蟹守神社に祀られる
天忍男命 山城國久世郡 水主神社に祀られる。
天五田根命とも呼ばれ、田村神社に祀られる。
土神葛木剣根命のむすめが天忍男命(天村雲命の孫)と婚姻して、澳津世襲命(尾張連祖)が生まれる。

天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。

村雲命
『勘注系図』から系図を追ってみると、

       ┌天忍人命(異母)
      ┌┴天忍男命(異母)
      │
  天村雲命┴倭宿禰命─笠水彦命─笠津彦命─建田背命

宋史「外国伝」に、「天村雲尊」の名が記されている。天村雲命の宮所は、鴨都波社の北西二由吹の地であった。その辺は高尾張邑と呼ばれていたから、その家系は尾張家( 海部家)とも呼ばれる。尾張氏は後に、笛吹連と呼ばれる一族と同族である。

初主号天御中主  次曰天村雲尊 其後皆以尊為号 次天八重雲尊
次天弥聞尊 次天忍勝尊 次◎波尊   次万魂尊 次利利魂尊
次国狭槌尊 次龍魂尊  次汲津丹尊  次面垂見尊      
次国常立尊 次天鑑尊  次天万尊   次沫名杵尊
次伊奘諾尊 次素箋烏尊 次天照大神尊 次正哉吾勝速日天押穂耳尊
次天彦尊  次炎尊   次彦ナギサ尊

『宋史』日本伝『王年代記』による日本歴代の主:

天御中主(1)__天村雲尊 (2)*3)__天八重雲尊 (3)__天弥聞尊(4)__天忍勝尊 (5)_
_贍波尊(6)__万魂尊(7)__利々魂尊 (8)__国狭槌尊 (9)__角〓魂尊(10)*4)__汲津丹尊 (11)
_面垂見尊(12)__国常立尊(13)__天鑑尊(14)__天万尊(15)__沫名杵尊(16)__伊奘諾尊(17)_
_素戔烏尊(18)__天照大神尊(19)__正哉吾勝速日天押穂耳(20)__天彦尊(21)__炎尊(22)_
_彦瀲尊(23)*5)_(磐余彦尊(24)_(中略)_守平天皇(円融天皇)(64)

1.日向国吾田村の吾平津媛を娶とって妃とされた。『神武紀』
2.日向に坐しし時、阿多の…名は阿比良比売を娶りて、『神武記』
3.日向国の吾田邑の吾平津媛を娶とり妃とし、『皇孫本紀』
4.阿俾良依姫を妻とし二男一女を生む。『天孫本紀』
5.日向國之時、娶吾俾良依姫命 『勘注系図』

1.2.3.は神武天皇、4.5.はアメノムラクモなのですが、これらは同一の伝承ではないか?

天村雲命

父:天香語山 母:穂屋姫
妃:日向阿俾良依姫 子供:天忍人、天忍男
丹波伊加里姫 子供:倭宿禰(椎根津彦、天御蔭命:海部氏系図)
子供:葛木出石姫(母:伊加里姫?)忍日女(母不明)

天忍人命

父:天村雲 母:阿俾良依姫
妃:葛木出石姫 子供:天戸目
結果的に尾張氏本流となる。
豊玉姫の弟「振魂命」の子供「天前玉命」と同一神とも

天忍男命(?−?)
父:天村雲 母:阿俾良依姫
妃:葛木劔根娘「賀奈良知姫」子供:瀛津世襲(葛木彦)世襲足姫(日置姫)建額赤

瀛津世襲
父:天忍男 母:賀奈良知姫
孝昭天皇の后に妹「世襲足姫」がなり6孝安天皇の外戚的存在となり、孝昭天皇朝大連との記録もある。尾張氏として初めて記紀記述ある。別名「葛木彦」尾張氏祖とされている

世襲足姫(?−?)
父:天忍男 母:賀奈良知姫
夫:5孝昭天皇 子供:天足彦国押人(和邇氏祖)6孝安天皇
尾張氏として初めて天皇妃となった。(記紀)

建位起命

この「命」の名は『勘注系図』以外で目にすることはないと思います。
『勘注系図』前段には、『籠神社祝部氏係圖傅云』として、

彦火明命─彦火〃出見命─建位起命─倭宿禰命─建登目命

という系図を載せ、並列して、

一云 建位起命───宇豆彦命─倭宿禰命

としています。

このことから「倭宿禰命」を中心に考えてみると、「建位起命」=「宇豆彦命」であるらしい、ことがわかります。そして前段は、「建位起命」=「建田背命」であるとも、伝えています。
「建田背命」は、『勘注系図』の六世孫です。

「古記云、此命以天御蔭之鏡・天村雲之刀、為二璽神寶」

という古記伝は、「建田背命」の条に記載してあります。そしてこの一節は、

「此命元名笠水彦命 亦云大海宿禰命云云、一云亦名大己貴命 一云、
 天御蔭命 亦名建日潟命 一云、清日子 一云、日高彦命云々」

と続いています。

 
椎根津彦(しいつねひこ)
①父:武位起命(異説あり) ②母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲  母:丹波伊加里姫
②子供:志麻津見 妻:不明 
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
③出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
④古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦と号す。
⑤日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
⑥国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。

孝元天皇は
内色許男命の娘である伊香色謎命(いかがしこめ)を娶って、彦太忍信命(ひこふつおしのまことみこと)を生んだ。
彦太忍信命は、宇豆比古の妹の山下影日賣(やましたかげひめ)を娶って武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んでいる

五十狭芹彦命:孝霊天皇の第3皇子、四道将軍の一人、桃太郎伝承のモデルとされる。

猿田彦神:道と境界を守る神(道祖神)

天隠山命:天照大神の曾孫神、稲霊・穀物の神、産業開発の神、農業・漁業の神、製塩業の神/尾張氏等の祖神、越後国を造った神

天五田根命:饒速日命の孫神、天香山命の御子神

倭迹迹日百襲姫 (本人)から見れば

〈5〉第五代孝昭天皇(懿徳天皇の皇子)
    本人の直系の曾祖父
〈6〉第六代孝安天皇(孝昭天皇の皇子)
    本人の直系の祖父
〈7〉第七代孝靈天皇(孝安天皇の皇子)
    本人の実父
〈8〉倭國香媛または意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(安寧天皇の曾孫)
    本人の実母
〈9〉第八代孝元天皇(孝靈天皇の皇子)
    本人の母違いの兄
〈10〉吉備津彦命(西道に派遣された四道将軍の一人)
    本人と父母が同じ実弟/別名彦五十狭芹彦命
〈11〉倭迹迹稚屋姫命
    本人と父母が同じ実妹
〈12〉稚武彦命(吉備津彦の協力者)
    本人の従兄弟
〈13〉第九代開化天皇(孝元天皇の皇子)
    本人の甥
〈14〉大彦命(北陸に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥
〈15〉倭迹迹姫命(孝元天皇の皇女)
    本人の姪(本人そのものとの説もある)
〈16〉武埴安彦命(謀反して百襲姫命に見破られた)
    本人の甥
〈17〉第十代崇神天皇(開化天皇の皇子)
    本人の甥の実子(本人の甥との説あり)
〈18〉御間城姫(崇神天皇の皇后)
    本人の甥の大彦命の娘
〈19〉武渟川別命(東海に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥の大彦命の子
〈20〉武内宿禰(歴代天皇の重臣)
    本人の甥の子または孫
〈21〉第十一代垂仁天皇(崇神天皇の皇子)
    本人の甥の孫
〈22〉丹波道主命(丹波に派遣された四道将軍の一人)
    本人の甥の孫
〈23〉豐鍬入姫命(天照大神の初代祭祀責任者)
    本人の甥の孫/宗女〈臺與〉の有力候補
〈24〉渟名城入姫命(倭大國魂神の初代祭祀責任者)
    本人の甥の孫
〈25〉豐城入彦命(東国(上毛野下毛野)の経営責任者)
    本人の甥の孫
〈26〉第十二代景行天皇(垂仁天皇の皇子)
    本人の甥の曾孫
〈27〉倭姫命(伊勢神宮の初代祭祀責任者/斎王)
    本人の甥の曾孫/〈臺與〉の二番目の候補
〈28〉播磨稻日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ/景行天皇の皇后)
    本人の従兄弟の娘
〈29〉日本武尊(東西平定で有名な英雄)本人の甥の玄孫であり同時に従兄弟の孫

式内社 
阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座(論社)
天村雲(あめのむらくも)神社
鎮座地  徳島県吉野川市山川町村雲133
御祭神  天村雲命  伊志波夜比女(いしはやひめ)命 『徳島県神社誌』
創祀年代不明。
社伝に「 往古忌部の氏人が創始した 」とある忌部神社の摂社。
( 「村雲家」は、忌部神社の神官家の一つ )
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する唯一の神社である。

伊志(自)波夜比賣は、
「 建御名方命の孫にあたる出速雄命(いずはやおのみこと)の女であり、天村雲命の妃である 」
『 大日本史神衹志 』
「 信濃諏訪系に 建御名方命の御子 出速雄命の女に 出速姫(いずはやひめ)命 あるは、伊自波夜比賣(いじはやひめ)神に由あり 」
『 大日本地名辞書 』
「 天香語山命(あめのかごやまのみこと)異味穂屋姫命を妻とし一男を生む。孫子 天叢雲命なり。此命 阿俾良依姫(あいらいひめ)を妻とし、二男一女を生む 」
『 旧事紀 』
「 貞観14年 (872年)伊良比咩(いらひめ)に従五位下を授く 」
『 三代実録 』
「 此伊良比咩は恐らくは即ち 伊自波夜比賣 ならんか 」
『 阿波志 』

とあり、上記のように一説では建御名方命の孫で、天村雲命の妃 である。
天村雲命は、別名を「天五多底命(あめのいだてのみこと)」という。
射立の神。「湯立」という地名が残っているが、これはこの地が元「 射立郷 」であった名残である。射楯神 伊達神 因達神 (いだて・いたち)と呼ばれる神は、素盞鳴(すさのを)命の御子である 五十猛(いそたける)命 の別称とされる。
素盞鳴命が、八岐大蛇を退治して手に入れた剣を、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という。
天村雲命の別称が、射立神 である。
『 先代旧事本紀 』では、饒速日命( にぎはやひのみこと )の孫が 天村雲命 で、そのまた孫が、 天日鷲命 (阿波忌部氏の祖) とされる。

また同書には、天牟良雲命(あめのむらくものみこと)は、度会神主(わたらいのかんぬし)等の祖、と書かれている。
度会神主とは、伊勢神宮外宮の神主である。
『 豊受皇太神御鎮座本紀 ( とようけこうたいじんごちんざほんき) 』 にも、
「 天村雲命 伊勢大神主上祖也、神皇産霊神六世の孫也 」とある。

その 伊勢国 に関しては、『 先代旧事本紀 』「 国造本紀 」に、
「 伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る 天牟久怒命(天村雲命)の孫 天日鷲命 を勅し賜いて国造に定む、即ち 伊賀伊勢国造 の祖。」
とあり、天村雲命の孫で阿波忌部の祖、天日鷲命が、伊賀伊勢国造の祖になったことがわかる。

『 神宮雑例集 』でも、
「 天牟羅雲命、国常立尊12世孫、度会遠祖など見ゆ。その孫天日別命(天日鷲命)は神武朝 伊勢国造 となれり 」
と、記されている。
さらに、籠神社の海部氏系図 『 勘注系図 』 によれば、倭宿禰命 の父が 天村雲命 となっている。
倭宿禰命とは、神武天皇を水先案内し、後に 倭国造の祖 となった 珍彦(うずひこ)のことである

天椅立(あまのはしだて)とは、天射立(あめのいたち)のことか?

大吉備津彦
第七代天皇・孝霊天皇の子。『古事記』では、母は意富夜麻登玖邇阿礼比売命。 兄弟姉妹は夜麻登登母々曾毘売命、日子刺肩別命、倭飛羽矢若屋比売。
『日本書紀』では、母は倭国香媛。 姉妹は倭迹迹日百襲姫命、倭迹迹稚屋姫命。

四道将軍の一人。『古事記』では、若日子建吉備津彦命と共に吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
四道将軍とは、北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された建沼河別命(武渟川別)、西海に派遣された吉備津彦命、丹波へ派遣された丹波道主のこと。

『姓氏録』には椋橋部首の祖、吉備津彦五十狭芹彦とある。
古事記における大吉備津彦は兄の稚武彦で、若健吉備津彦は弟の弟稚武彦ということになる。 稚武彦が吉備を治めるようになってから吉備津彦と呼ばれるようになったために若健吉備津彦となったのであろう。

大吉備津彦命 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)

吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931
吉備津神社 広島県福山市新市町宮内400
吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043
岡山神社 岡山県岡山市北区石関町2-33
二宮神社 広島県福山市神辺町八尋1203
田村神社 香川県高松市一宮町286
鵜江神社 岡山県小田郡矢掛町小林1857
鵜江神社 岡山県小田郡矢掛町西川面字宮本1334
大元鵜江神社 岡山県小田郡矢掛町東川面1806
皷神社 岡山県岡山市北区上高田3628
天別豊姫神社 広島県福山市神辺町川北142-2
三島神社 新潟県柏崎市剣野町2-18
丹生神社 兵庫県美方郡香美町香住区浦上字川東1185-2
飯石神社 境内 託和神社 島根県雲南市三刀屋町多久和1065
伊奈波神社 境内 吉備神社 岐阜県岐阜市伊奈波通1-1

古事記の孝霊天皇の条に、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱共々に、播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り、播磨口を入口として、吉備国を平定なさった。」と記録されている。
 吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定したのは孝霊天皇とその皇子二人のはずだから色々な名前で呼ばれているのを整理してみました。
 兄の名は吉備津彦・大吉備津彦命・彦五十狭芹命・比古伊左勢理毘古命・大碓命であり、弟の名は吉備武彦・若建吉備津彦命・彦狭嶋命・稚武彦・歯黒皇子・桃太郎・小碓命である。今日、吉備津彦といえば弟を指すことが多い。

吉備津彦といわれている人物は二人存在し,兄の大吉備津彦と弟の若建吉備津彦であり,共に,第七代孝霊天皇の皇子である。 兄の大吉備津彦は斉主として戦いに参加し、実際の戦闘をしたのは弟の若健吉備津彦のようである。神社伝承によると,弟の若建吉備津彦は, 吉備国に入る前に,讃岐を平定している。また吉備国平定後出雲を平定し,伊予国,土佐国と巡回し吉備国へ戻り, 岡山県北房町小殿で崩御したと伝えられている。その地に御陵も存在している。形の崩れた前方後円墳のようである。 弟のほうは方々で活躍した武勇優れた人物だったようである。

兄弟の母
 倭迹迹日百襲媛命の母は妹の蠅伊呂泥だが、吉備津彦命・吉備武彦命の母は姉の蝿伊呂杼である。

吉備の古墳と箸墓

大吉備津彦は吉備上道臣の祖になったと記録されている。吉備上道とは備前国南部を指し、今の岡山市東部から備前市にかけての領域と考えられる。 大吉備津彦は崇神10年(250年)に吉備上道に派遣され、吉備上道を治めたと考えられる。
吉備上道の古墳
浦間茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳、備前車塚古墳などの巨大な前期古墳が築造されている。特に浦間茶臼山古墳はこの当時としては畿内以外で最大で、 畿内を含めても箸墓に次ぐ規模のものである。その形も浦間茶臼山古墳が箸墓の二分の一サイズで網浜茶臼山古墳が三分の一サイズで相似形をしている

吉備津彦が吉備に派遣された直後から急激に畿内以外には存在しないような 巨大古墳築造が始まる。

大吉備津彦が葬られた中山茶臼山古墳
(崇神天皇陵 の二分の一サイズ)

磯城県主・十市県主
大物主命・事代主命の直系子孫ですから、その名前に「五十」を冠している事は極めて不自然に映ります。本文の「姪」(古事記にも『姪、忍鹿比売命』とある)とも全く異なる「一書」は吉備氏あるいは磯城氏の伝承から採ったものだと考えられますが、孝安と押媛の長男が大吉備諸進命であり、次代の孝霊と倭国香媛の子が吉備津彦命という系譜からも吉備氏と磯城氏の深いつながりが窺えます。又、名前にこだわれば吉備津彦命の諱は「彦五十狭芹彦」(彦イサセリ)だったようですから、十市氏の娘婿に入った吉備氏の男子が居た可能性も十分あるでしょう。