倭国大乱、卑弥呼と豊、豊比売

桓帝・霊帝の頃(146~189)

其国本亦以男子為王 住七八十年
倭国乱 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼
卑弥呼以死
・・・
更立男王
国中不服 更相誅殺 当時殺千余人
『魏志倭人伝』

桓霊間 倭国大乱 更相攻伐 歴年無主
有一女子名曰卑弥呼
年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆
於是共立為王
『後漢書 東夷伝』)

魏志倭人伝によれば
男子を王とする倭国は7、80年経過したのち、歴年のあいだ相攻伐が続いた。
この争乱はヒミコを女王として共立することで治まっていたが、ヒミコが死んで男王を立ててから国中が従わず、さらに互いに誅殺し、当時千余人を殺した。その後 ヒミコの同族の娘トヨを王として、ついに国中が治まった。

後漢書が伝える倭国大乱

桓帝・霊帝の頃(146~189)倭国は大いに乱れて、互いに攻伐し、歴年王がいなかったが、ヒミコという女性を共立して王とした。

景行天皇以降九州が安定してくるので、それ以前に倭国大乱があったと思われる。トヨの擁立は、景行天皇以降と考えられる。

王がいても、国は乱れる。長い間、倭国をまとめる王が出なかったという。

崇神5年、6年の条に、
国内に疾疫が多く、民の死亡者が半ば以上に及ぶ。”おほみたから”が流離したり、反逆するものがありその勢いは徳をもって納めることが難しかった。 とあります。

記紀に豊という王の記載がない。倭国は、大和朝廷でなく九州でしょうから、その居城を探す必要がある。
可能性がある神社は、高良大社、英彦山、阿蘇大社、香春神社。

豊比売大明神

筑後国四座(大二座・小二座)、御井郡大二座小一座、

高良玉垂命神社(名神大)豊比咩神社(名神大)伊勢天照御祖神社(名神小)とあり、高良玉垂命神社とならび立つ名神大社であったことがのべら れています。豊比咩神社については文徳実録に「天安元年冬十月丁卯在筑後国従五位下豊比咩神社宛封戸井田。同四 年甲戊先是比咩神正殿遇失火位記皆被焼損。」とあります。
高良山文書には「正四位豊比咩命神 嘉祥三年十二月廿九 日奉授従五位下。天安二年五月十四日奉授従四位下。貞観六年七月廿六日奉授従四位上。貞観十一年三月廿九日奉授 正四位下。寛平九年十二月三日奉授正四位上。」とあります。

豊比咩神社は平安時代においては官社に列する名神であり、中央よりたびたび勅使の差遺がなされました。 「白河院應徳二年五月九日左辨官下筑後国豊比咩大神者九州ニ島惣鎮守不可混諸社者也。仍神領寄八十庄宣祈聖廟安寧。」 「堀河院御宇長治二年十一月三日勅使豊比咩神社官號與正一位。」 「鳥羽院元永三年奉官幣其宣命日筑後国豊比咩大神者本朝鎮守也。」

香春の豊比売

豊前、田川の香春(かわら)。豊前国風土記によると、昔、新羅の神が海を渡ってこの河原に住み、郷の北に三峰あり、古く、一の峰に唐土に渡っていた神「辛国息長大姫大目命」を祀り、二の峰には天津日大御神の御子の「忍骨命」、三の峰には神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母の「豊比売(とよひめ)」を祀っていたという。
豊比売命は続日本紀に八幡比売神であると記され、宇佐の元神とされる

高良大社の豊比売

「豊比売命」は筑後の「高良山」周辺にも集中して祀られる。
久留米の「高良(こうら)大社」は仁徳天皇の世に鎮座したと伝えられる古社。高良玉垂宮と呼ばれる名神大社で筑後国一の宮とされ、筑紫の国魂と仰がれる。
祭神は「高良玉垂命」。そして左右の相殿に八幡大神、住吉大神を祀り、「豊比売大神」を合祀するという。

阿蘇の豊比売

三潴の北、大善寺に「大善寺玉垂宮」が在る。白鳳元年(672年)の創建で、武内宿彌、八幡大神、住吉大神を祭神とする。

ここの縁起では、往古、景行天皇の皇子、国乳別(くにちわけ)皇子を祖とする水沼君がその始祖を祀ったと伝え、筑後国神名帳にある「玉垂媛神」がそれであるという。この「玉垂媛神」が蒲池比売であろうか。

日本書紀の景行天皇条に「景行天皇の妃である襲の武媛が、国乳別皇子を生んだ。」とあり、この「国乳別皇子」が水沼君の祖であるという。「襲の武媛」とは熊襲の女(むすめ)であるという。
襲の武媛は「国乳別皇子」と「国背別(くにそわけ)皇子(宮道別皇子)」と「豊戸別(とよとわけ)皇子」を生み。長兄は水沼別の始祖、末弟は火国別の始祖であると伝わる。

豊国別皇子

記・紀にみえる景行(けいこう)天皇の皇子。

「日本書紀」によれば,景行天皇13年,天皇が九州遠征で襲(そ)の国を平定し,高屋宮に滞在した際,その国の佳人御刀媛(みはかしひめ)を妃(きさき)として生んだという。日向国造(ひゅうがのくにのみやつこ)の祖とされる。「古事記」では豊国別王,母の名は日向之美波迦斯毘売(ひむかのみはかしびめ)。

記紀には神功皇后の妹として「虚空津姫」が存在し、天照大御神の妹神とされる「丹生都比売(にうつひめ)」は狗呉の王女、稚日女。罔象女(みづはのめ)神ともされる

景行天皇と日向、御刀媛、豊国別、宇佐国造
景行天皇と日向

(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

「書紀」の景行天皇13年の条

「悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと、すでに六年なり。是に、其の国に佳人有り。御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」
・ 景行天皇(オシロワケ)の時代は、ほぼ4世紀後半代のころに想定できる。豊国別王が児湯郡に出現した時代は4世紀末頃と推測できる。

・ 『日向国風土記』逸文、韓槵生村の項:

「昔、カサムワケといいける人、韓国に渡りて、この栗をとりて帰りて、植えたり。この故に槵生の村とは云うなり」とある。もしこの人物が実在の人物であれば、「ワケ」の称号を有していることから、豊国別王の時期と同じころとなる。もしかしたら、この「カサムワケ」という人物は、豊国別王の在来的な元の名称かも知れない。
応神王朝と日向

(日高正晴 著 東アジアの視点から  みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)

西都原古代文化圏成立の時代は、応神王朝あるいは景行天皇からとされる「ワケ」王朝との交流の中で、「日向王国」形成の時代を迎えるのです。この日向王国成立の歴史的背景としては、日向中央部の子湯県一帯を本拠とした「景行紀」の熊襲征討、次に、豊日文化圏の大首長として豊国別王の出現、そして仁徳天皇の后妃、髪長媛の入内と、その嫡子、大草香皇子、孫、眉輪王が応神、仁徳王朝内の日向系皇統として存在していたことなど、畿内大和地方と日向とは、特に密接な間柄であったことが考えられるのです。
『日本書紀』によると、応神天皇は、筑紫の蚊田に生まれたとあります。天皇は、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とし、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(おばえのみこ)が生まれています。『古事記』にも、日向の泉長比責を召して生みませる御子大羽江王、次に小羽江王と記され、「記・紀」ともに同一の記事がみえる。后妃の髪長媛にしても最初に召されたのは応神天皇であったことも、日向地方と深い縁が結ばれていたことが察知できます。
特に、応神天皇陵の前にある陪塚の丸山古墳から出土した国宝の「金銅透彫鞍金具」と、西都原古墳群の一角、百塚原から発見された同じく国宝の金銅製馬具類の中の金銅鞍金具が、ともに極めて類似していることです。この両金銅馬具類は、日本の古墳出土品の双璧と謂われていますが、五世紀代の出土遺物と推定されている。
宇佐、豊国と吉備

1「国前(くにさき)国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖。吉備都命六世午佐(うさ)自命 定賜国造」『先代旧事本紀』国造本紀

2 豊国(とよくに。大分県~福岡県豊前地域)の国前臣は日子刺肩別命(ひこさしかたわけ)のことであり大吉備津彦命と若日子建吉備津日子命。「孝霊記」

3 「豊国別命、吉備別祖」『先代旧事本紀』天皇本紀景行六十年条

4 「古の菟狭(うさ)国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作(みまさか)は古の菟狭国第一の神都にして、第二は九州」宇佐国造家伝承 宇佐公康『宇 佐家伝承が語る古代史』

5 本来皇室しかもらえない品位を宇佐神宮と吉備津彦神社だけがもらっている。

「奉る(八幡)大神一品、八幡比羊(咩)神二品」『続日本紀』

「八幡比羊神授一品」『文徳実録』

「特授備中国吉備津彦神授四品」同上

「在備中国四品吉備津彦神授三品」同上

「奉授 備中国三品吉備都彦命二品」『三代実録』

肥前旧事などの豊比売

神功皇后の妹豊比売。淀比売神社では輿止比売とも言われる

住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。
とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。

このように、とても美しい姫様だったと言う伝承が残っています。この後、龍宮城へ赴いて、沙迦羅龍王より潮干珠・潮満玉を借り受けて、戦いに赴くわけです。

草部吉見神社
 阿蘇の祖族、「草部吉見(くさかべよしみ)氏族」も日下部とされる。草部吉見氏族は阿蘇の主神「健磐龍命」を祖とする阿蘇国造、阿蘇大宮司家よりも古い阿蘇の族。祖神の「草部吉見神」は神武天皇の皇子、日子八井命とされる。その裔とされる阿蘇神社の神官群の中枢に「日下部(草部)氏」がある。
 そして、筑後の要衝、高良大社の祠官家に「日下部(草壁)氏」。
 また、景行期に火の葦北に入った吉備氏族。葦北国造の三井根子命の弟、大屋田根子命の一族は「日奉部氏」など「日」を奉じる氏族。この族にも「日下部氏」。阿蘇の日下部はこの流れとする説もある。

御祭神
一の宮 日子八井命 神武天皇第一皇子にして草部吉見神または國龍命とも別称す。阿蘇神社に三の宮として合祠。鷹の羽の神紋。
二の宮 比咩御子命 日子八井命の妃
三の宮 天彦命 日子八井命の第一皇子・三郎神社の祭神
四の宮 天比咩命 天彦命の妃・三郎神社の祭神
五の宮 阿蘇都彦命 日子八井命の甥・阿蘇大神健磐龍命
六の宮 阿蘇都比咩命 日子八井命の女にして、阿蘇大神の妃
七の宮 新彦命 日子八井命の第二皇子
八の宮 彌比咩命 新彦命の妃
九の宮 速瓶玉命 日子八井命の外孫・阿蘇大神の嫡子
十の宮 若彦命 新彦命の甥・天彦命の御子
十一の宮 新比咩命 新彦命の女
十二の宮 彦御子命 日子八井命の外曾孫・速瓶玉命の男

当社は 熊本県阿蘇郡高森町宮原に鎮座し、旧社格は郷社。
 主祭神は日子八井命で、ほか健磐龍命、阿蘇都比咩命など十二神を併せまつ る。
 日子八井命は、神武天皇の六十九年、東征の時、日向高千穂より草部に入ら れ、しばらく川走の窟(イワヤ)に住まわれたのち、今の草部吉見神社の所に あつた池を干し宮居を定められた、このとき襲ってきた大蛇を斬られ焼かれた、 大蛇が血を流しながら逃げて行つた所を血引原(現地引原)、焼かれた所を灰 原と言い、今もこの地名が残つている。
 創建は阿蘇神社に先立つこと六年と言われる。
 宮居を定められたその翌年、健磐龍命(神八井命の御子・阿蘇大神とも言う) が下向して来られると迎え、請われて姫を健磐龍命の妃になされた。この姫が 阿蘇都比咩であり、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外 には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担われた。
 天正年間には戦国大名化した豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され権 大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めた、寛政五年(1793) に祠官家が復興され、文化七年(1810)には祝部(ハフリ)家が再興された。

 社殿の東方300mばかりのところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の御 神陵(ミササキ)がある(陵墓参考地)。
 摂社として、草部吉見神社から1・5Kmばかり西の菅道(スゲノサコ)に 日子八井命の御子天彦命と天彦命の妃比咩命をまつる三郎神社がある。

年表

崇神即位(太歳甲申)
都を磯城に移す(崇神3)

崇神崩御(崇神68-60=8年)
垂仁即位(太歳壬辰 1月)墨坂神、大坂神を祀る(崇神9年4月)
四道将軍を北陸、東海、吉備、丹波に遣わす(崇神10年9月)
武埴安彦(考元天皇の皇子)と妻の吾田媛が反乱し、討たせる(崇神10年9月)
倭迹迹日百襲姫命を箸墓に葬る(崇神10年9月)
四道将軍を再派遣(崇神10年10月)

狭穂彦王(皇后の兄 開化天皇の王子彦坐王の子)の謀反(垂仁4)
皇后狭穂姫死去(垂仁5年)遺言は丹波の道主王の娘5人を後宮に入れること
日葉酢媛(丹波の道主王の娘)を皇后に立てる(垂仁15年)

唖の皇子(誉津別 30歳)のため白鳥を求めさせる(垂仁23)
湯河板挙に鳥取の姓を賜う(垂仁23)
皇后(日葉酢媛命)が死去(垂仁32年7月)
出雲の国の土部百人を呼んで埴土で人や馬(埴輪)を作らせる。
五十瓊敷命(日葉酢媛の第一子)を河内に遣わし高石池、茅渟池を造らせた(垂仁35年)
この年池や溝を多数造らす。天下太平であった。

大足彦命(日葉酢媛の第二子)を皇太子に立てる(垂仁37年)

垂仁崩御 五十瓊敷命は剣一千口を石上神宮に納めた(垂仁39年)
一云・合わせて十の品部を五十瓊敷命に賜う(垂仁39年)

景行即位(太歳辛未)

出雲大神の神宝を献上させる(崇神60)
「武日照命(武夷鳥、天夷鳥)が天から持ってきた神宝を見たい」と曰う・・・
数年経って出雲振根を殺させた。