伊香我色男命

伊香我色男命

 猪名部(いなべ)神社の祭神。物部系の神で、饒速日命の六世の孫。猪名部造(いなべのみやつこ)の祖神。

 『日本書紀』応神31年8月条に、新羅から貢がれた<能き匠者、猪名部等の 始祖>とあります。これだけみれば、イナ部は新羅から来た能き匠にはじまる、 と解されます。ところが、『新撰姓氏録』には<猪名部造、伊香我色男命の後 なり>とあります。伊香我色男命は『日本書紀』『古事記』によると孝元・祟 神時代の物部系の人ですから、新羅から来た猪名部等の始祖より前の時代にい たことになります。まだあります。『先代旧事本紀』のニギハヤヒの降臨に際 し、それに従った天津赤星は為奈部等の祖神とあります。

為那都比古神社
大阪府箕面市石丸。 
祭神:為那都比古大神、為那都比売大神
  

『新選姓氏録』左京神別に猪名部造「伊香我色男命之後也」とある。摂津国諸蛮には為奈部首「百済人木貴之後也」、また摂津国未定雑姓に為奈部首「伊香我色乎命六世孫金連之後也」とある。伊香我色男命は物部の祖とされる。『先代旧事本紀』に饒速日尊が五部人を副へ従と為して天降り供へ奉るとあり、その中に為奈部等の祖天津赤占と出ている。

『旧事』大綜麻杵大臣の子。母は高屋阿波良姫。開化天皇は伊香色雄命を大臣とする。

オオタタネコが茅渟の陶邑で発見された時、崇神天皇は夢の告げの人物なのかを確かめる為に、イカシコヲにフトマニで占わせている。

系図

饒速日 ー 宇摩志麻治命 ー 彦湯支命 ー 出石心命 ー 大水口宿禰 ー 穂積

饒速日 ー 宇摩志麻治命 ー 彦湯支命 ー 出石心命 ー 大矢口宿禰 ー 大綜杵命 ー 伊香色雄 ー 十千根 (十市主)

越智氏族略系図
饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕

大水口宿禰は、『録』左京神別に、穂積臣の祖で、伊香賀色雄の子とあるが、『旧』天孫本紀では、饒速日命の四世の孫で、出石心の子であり、穂積臣、采女(ウネメ)臣の祖とある。

モノベトチネ(物部十千根)。
垂仁25年、阿倍の祖タケヌナガワ・和邇の祖ヒコクニフク・中臣の祖オオカシマ・大伴の祖タケヒと共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる (五大夫)。 
イセ宮完成の時、太上后 (ミマキ姫) の代理として詣でる。 

ヲナカ姫から石上の神宝庫 (アカハタカの千剣) に架ける懸梯を授かる

湖南地方(栗太・野洲・甲賀)にある式内社

三上山の山麓に位置する御上神社の祭神・天御陰神は、天神本紀によると、物部氏の祖神である饒速日尊に付き従って降臨した神であるといいます。

饒速日尊の孫にあたる彦湯支命が娶ったのが、淡海川枯姫です。甲賀郡の式内社に、川枯神社があります。

彦湯支命の子、出石心大臣命が娶ったのが、新河小楯姫です。野洲郡の式内社に、下新川神社と上新川神社があります。

出石心大臣命と新河小楯姫との間に生まれた子が、大水口宿祢命です。甲賀郡の式内社に、水口神社があります。

大水口宿祢命の弟が大矢口宿祢命です。その子に大綜杵(おおへそき)命がいます。栗東市の地名「綣(へそ)」にもとづく人名とする説があります。
綣からほど近い場所に、物部布津神を祀る勝部神社があります。『和名抄』にみえる物部郷はこの一帯に比定されます。

大綜杵命は高屋阿波良姫を娶りますが、彼女は『和名抄』にみえる近江国神埼郡高屋郷の出ではないかともいわれます。

大綜杵命の子が、開化天皇の皇后の伊香色謎命や、物部氏の祖として名高い伊香色雄命で、湖北の伊香郡伊香郷との名称の類似が指摘されます。
伊香色雄命の子に、大新河命や建新川命がいます。新河小楯姫同様、下新川神社や上新川神社との関係が考えられます。

三上氏  
天津彦根命—-天御影命—-天麻比止都禰命—-意富伊我都命—-彦伊賀都命—-天夷沙比止命—-川枯彦命—-坂戸毘古命—-国忍富命—-天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)—-鳥鳴海命—-八倉田命—-室毘古命

三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持ち、その一端を紹介すると、およそ次のような勢力圏を形成しています(註・物部氏などが伝えている系譜と異なる部分もあります)。
① 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
② 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
③ 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。

大神神社

「崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる」とあるがこれは正確でなく、伊香色雄はこの時の神祭りにあたって「幣帛を分かつ者」に任じられ、配下の物部氏族に命じて神々を祭る祭具を造らせるなど、祭りの用意万端整える役だったのであって、神祭りを主導したわけではない。
これは『日本書紀』『先代旧事本紀』とも同じ記述。
『先代旧事本紀』では、この時に布都大神の社を大倭国山辺郡石上邑に遷して建て、また饒速日尊より伝わる神宝を納めて石上大神と申し上げ、伊香色雄命は姉の伊香色謎命(開化天皇皇后)とともに石上神宮を斎き祀った、とする。

布都大神の社については、前に挙げた布留宿祢(物部首)の伝承にも他の地から大和へ遷ってきたとされる

石上神宮社家の物部首

この物部首はのちに布留宿禰という氏姓を賜わり、

『新撰姓氏録』には、

布留宿禰。柿本朝臣(大春日臣同祖、天足彦国押人命の後)と同祖、天足彦国押人命の七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。

息子は木事命(こごとのみこと)、
その息子市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇の御世に倭(やまと)に出てきて、布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を布留村の高庭の地に斎い祀って、市川臣は神主となった。
四世の孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世に、宗我(蘇我)蝦夷大臣は武蔵臣を物部首また神主首と名づけた。そのため、臣の姓を失って、物部首となった。息子の正五位上日向は天武天皇の御世に、社の地の名に依って布留宿禰の姓に改めた。
日向の三世の孫は、邑智(おほち)等である。


伊勢員弁 猪名部神社「伊香我色男命」 員弁郡大安町大字高柳988 天津赤星命(伊勢式内神躰考)、素盞嗚尊、伊香我色男命、誉田別命(員弁郡郷土資料) 

伊勢員弁 式内 猪名部神社の論社 猪名部神社「伊香我色男命」 員弁郡藤原町大字長尾244 

伊香賀色雄命の子大水口宿禰の子孫が穂積臣

筑紫弦田物部等の祖天津赤星. (天磐船の船長).
為奈部等の祖天津赤星. 天背男命は『日本書紀』の天香々背男、あるいは天津甕星は天津赤星と同一の存在として語られる事が多い。


天津赤占 爲奈部等祖(木工の長)

富々侶 十市部首等祖(曲部の長か)

天津赤星 筑紫弦田物部等祖 

忍山神社

主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
     素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
皇大神宮遷幸地跡
 弟橘媛命生誕地


 忍山神社の由緒については諸説ある。亀山市の新羅神社と考えられている神社は忍山神社である。

「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。

さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。神官も物部氏の一族ということになる。

因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう。