伊曽乃神社、和気氏、武国凝別

伊曽乃神社(いそのじんじゃ)

愛媛県西条市中野に鎮座する神社である。「磯野」と表記されることもある(『三代実録』等)。延喜式神名帳では名神大社に列し、旧社格は国幣中社である。現在は神社本庁の別表神社。神紋は御所車。

祭神

天照大神の荒魂と武国凝別命。ただし、国幣中社昇格の際には「伊曽乃神(いそののかみ)」とされた。

由緒

社伝によれば、成務天皇7年(西暦137年)伊予御村別の祖・武国凝別命(景行天皇の皇子)が東予地方を開拓するにあたり、皇祖神である天照大神を祀ったことに始まるという。
天平神護元年(765年)神戸10烟を充てられ、翌天平神護2年(766年)従四位下を授かるとともに神戸5烟を加えられた。永治元年(1141年)正一位に叙され、崇徳天皇より勅額を賜る。
天正13年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐により社殿・社宝等兵火にかかって一切焼失し、難を避けて土佐国へ遷座。慶長11年(1606年)旧地に復座する。
近代社格制度の発足に際しては、祭神不詳として官社の認可を受けられず、伊予国第一県社とされる。

奈良時代には伊予国第一の大社として皇室の御崇敬もあつ く外敵鎮圧、海賊追捕のたび毎に祈請があり、淳仁天皇の天平宝字六年(七六二年) すでに奉幣祈願のことがあり、称徳天皇は天平神護元年神戸十烟を、更に同二年五烟 を奉り従四位下に叙せられたこれは、我国における神位奉授のはじめであった。延長 五年(九二七年)の延喜式名神大社であり、つづいて永治元年(一一四一年)正一位 に極位した。崇徳天皇御祈願と共に勅額を賜る。その後も国司領主等による社地神田 の寄進及び社殿の建立等たびたびであった。昭和十五年国幣中社に列格され、昭和五 十七年には浩宮様が御親拝された。 

創建年代は不詳。社伝によると成務天皇28年(158)の創祀。

往古は「磯野宮」とも書かれた神社。称徳天皇天平神護元年に神封十戸を与えられ、神護2年に従四位下を授けられた。清和天皇の貞観8年に正四位下、12年に正四位上、17年に従三位下、朱雀天皇天慶3年に正二位と神位があがり、延喜式では名神大社と記された大社。戦前は、国幣中社。

祭神は伊曾乃神だが、
通説では、天照大御神と景行天皇の皇子・武国凝別命を相殿に祀る。武国凝別命は伊予御村に封ぜられ、御村別の祖となった。天正の戦乱で社殿一切を灰燼に帰し、以後は、「不奉窺」「御神名不知」としていたという。

伊曾乃神は女神であるらしい。石鎚神(男神)が、山頂から投げた石が落下した場所に
居を定めたという伝承があり、鳥居横に、その「石鎚神社の投石」が置かれている

伝承

地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った。しかも石鎚山上は女人禁制のため、同行は許されない。「修行を終えれば結婚するのでそれまで待ってほしい。山頂から三つの大石を投げるので、真ん中の石が落ちた所に館を造って待つように」と言い残して山へ登った。間もなく、石鎚山から三つの石が飛んできたので、真ん中の石が落ちたところに営まれたのが伊曽乃神社だという。
香川県の神野神社と正八幡宮 
   香川県の満濃町(まんのうちょう)と丸亀市(まるがめし)の両方に「神野神社(かんのじんじゃ)」がある。 
   どちらも「神野神社」だが、このうち、丸亀のほうの神野神社は正八幡宮という。

伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)が当地に移住し、その祖神である伊曽乃社を創祀し、神野神社と称した。

   由緒によると、創始の時期は継体天皇2年とのことで、この和気氏(わけし)の一族は初めは満濃町の地に移住していたが、後に丸亀に移動したということである。 

そして、伊曽乃神は、伊予の神野郡の久留島氏が斎く神ということになる


   満濃町の神野神社 


満濃町のほうにも伊予の御村別(みむらわけ)の子孫がこの地に移住してきたとの伝承があ。

・  満濃池以前に湧水の池があって、天の真名井と呼ばれ、その池畔に罔象女命(みずはのめのみこと)が祀られていた。 
・  神櫛王(かみくしのみこ)がこの眞名井の地に狩りをしたとき、この地に天穂日命(あめのほひのみこと)を祀った。 
・  伊予神野の御村別の子孫が移住してきて、この地を神野と称した。 
・  大宝年中(701~704)に讃岐の国主、道守朝臣が金倉川沿いの谷と眞名井の湧水を堰き止めて堤を築き、その堤上に罔象女命を守護として遷し祀った。 
・  その後、天穂日命と罔象女命を合祀し、神野神社として満濃池の守護とした。

   この堤も、その後の弘仁9年には洪水で決壊し、弘仁12年、嵯峨天皇の命により弘法大師空海が修復したということである。 
   ただ、神野神社の創始については、

神櫛皇子が天穗日命を神野神社として祀った。 
御村別の子孫がこの地を神野と呼び、神野神社を創始した。 
神櫛王の子孫、道麻呂が天穗日命を祀り神野神社とした。

と、時代や伝承がかなり混乱している。 
   神櫛皇子は、武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の異母兄弟ではあるが、讃岐に派遣されており、自分の奉斎神を伊予の神野神社の名で祀る理由などは見あたらない。その祭神も、伊曽乃神社の武国凝別命が天照大神を奉斎したとされるのに対して、神櫛皇子は天穗日命を祀っている。
   丸亀の神野神社は、伊予国神野郡の人久留島によるもので、継体天皇2年に創始されたとあり、しかも、御村別の子孫が満濃町から丸亀に移動したとも伝えている。従って、久留島や移動した御村別の子孫よりも後世の人である道麻呂の時代には、とっくに神野神社は存在していたはずであり、地元にすでに祀られていた天穗日命を祭神として継承し、この地に神野神社を創始したのではないかと推察される。その上で堤の守護神であった罔象女命が後に合祀されたものであろう。その後も、別雷命、嵯峨天皇、大山祇神とそれぞれ理由があって順次、合祀されたものと思われる。神櫛皇子も境内社として合祀されているとのことであり、天穗日命を奉斎したのは、たぶん、神櫛皇子でいいのだろう。 
   神野の御村別が入植したこの地は、国郡郷制の時代には那珂郡の神野郷(かんのごう)と呼ばれていたが、大同4年頃に真野郷(まのごう)に改められたようである。

   丸亀の正八幡宮 


  丸亀の神野神社のほうは、満濃町から御村別の子孫が移住したものか、それとも、伊予の神野郡から別ルートで同族の久留島某が入ったのかは分からない。満濃町からの移住だとすれば、交通などの種々の便宜を考えて、海に近く、また郡家のある、丸亀のほうに本拠を移してきたものであろう。もちろん、満濃町のほうにも一族は引き続き住みつづけたかもしれない。満濃町にも神野神社が現存しており、丸亀の神社も同じ天穗日命を主祭神としていることから、たぶん、満濃町の神野神社から天穗日命一柱を勧請したと思われる。 
   その後の推古天皇の時代に宇佐から八幡宮を勧請し、神野神社正八幡宮と呼ばれるようになったとのことである。しかし、これらの由緒は矛盾している。継体天皇2年に久留島某なる人が丸亀に来たのなら話が通るが、御村別の子孫が満濃町から丸亀に移住したのは孝徳天皇の時代とされ、推古天皇よりも後代のことである。八幡神がほんとうに推古天皇時代の勧請なら、八幡宮のほうが郡家の神野神社よりも先に祀られていたことになるはずである。 
   祭神は首座の天穗日命に加えて八幡宮の誉田別尊、気長足姫尊、仲姫命、武内宿禰を配しているとのこと。ほかに中臣烏賊津臣命は気長足姫尊の大臣、出雲系の天神は天穗日命が祀る神であり、その他にも武神や、鍛冶神がいるが、国譲り神話以外の由緒はこれといって思い浮かばない。 
   ただ、近くに皇子神社があって、両宮を内宮・外宮の関係に置いているとのことである。この皇子神社の創始はいつか不明だが、祭神は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、また神櫛皇子・武国凝別命・武卵王(たけかいこのみこ)とも言い、明確でない。

   伊曽乃神社研究で知られる大倉粂馬氏や、『続・与州新居系図の研究』(明比學著)等によると、「和気系図」には武国凝別命の子孫として、次のような系譜が記されている。

阿加佐乃別命…和爾乃別命…波奈陋乃別命…加尼古乃別命…忍之別君…忍尾命…忍尾別命(此人従伊豫国到来此土娶因支首長女生)………恵波…忍川…止伊…小山上(難波長柄朝廷任主張) 


   そして、この「和気系図」の注記から、那珂(満濃)の地に移住した伊豫御村別の子孫が上記別君最後尾の忍尾別命(おしおわけのみこと)であったことが知られるとしている。

和気系図には「此人従伊豫国到来此土娶因支首長女生」と添え書きされているからである。 

  この系列の最初に記されている阿加佐乃別命(あかさのわけのみこと)とは武国凝別命の第四子と考えられ、入植した忍尾別命は、阿加佐乃別命から6~7代後の子にあたるようだとも述べている。
   『続・与州新居系図の研究』によると、この忍尾別命は、この地で讃岐の因支首(いんきのおびと、いなぎのおびと)の女性を娶り、恵波・与呂豆の2子をもうけて現在の満濃町に土着し、神野神社を創始した。そこが、のちの那珂郡の神野郷になったという。 
   その後、恵波の4代後の身(む)が孝徳天皇の時代に主張に任ぜられているところから、那珂郡の神野郷から隣の多度郡の郡家郷(丸亀)に移ったと考えられる。忍尾別命の子孫らは恵波・与呂豆以来、母方の因支姓を名乗っていたが、貞観8年、清和天皇の御代に「和気公」の姓を賜ったということである。ついでながら、「和気公」の一人道万呂は、身の3代のちの人になる。 
   その身が郡家郷(丸亀)に移動して那珂(満濃)から神野神社を勧請したという。身が主張に任ぜられたのは孝徳天皇の御代だが、神野神社正八幡宮の由緒では、伊予国神野郡の人久留島が移住して当社を創始した年が継体天皇2年となっているからである。人名も時代もかなり異なっている。これらの伝承から考えると、このm神野神社正八幡宮の鎮座年は、満濃町の神野神社の創始年をそのまま継承しているとも解釈しなければならなくなる。つまり忍尾別命の時代に当たるのである。たしかに、忍尾別命は身から逆算してみると、だいたい欽明天皇から継体天皇あたりの時代に届きそうな年代の人になる。 

和気公・因支首の一族は、景行天皇の子の武国凝別皇子を始祖とするが、この皇子は『書紀』には見えるものの、『古事記』には景行皇子としてはあげられず、系譜上の地位に疑義がある

和気氏

景行天皇を元祖とする氏族である。有名な「倭建」の皇子「十城別」から「伊予別」が発生し、伊予国の和気氏はこの流れである。「武国凝別命」からは「御村別君」が派生している。別子銅山はこの流れが開発したとされている。
他に「別君氏」がおり、この流れは途中「因支首」姓を名乗るが、和気公姓となり、「和気公宅成」と空海の妹または姪と言われる娘との間に「円珍僧都(智証大師)」という名僧を輩出した。円珍は唐に渡った後、延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、寺門派の拠点とした。円珍の祖父「道善(別名:道麿)」は、四国88ケ所真言霊場76番「金蔵寺」の開基者である。その弟とされる「道隆」は、同77番札所「道隆寺」の開基者である。
空海と讃岐和気氏の深い関係が窺える。
「神t櫛命」の流れは「讃岐国造」となり、桓武天皇時代に讃岐公となり「従五位下・讃岐公永直(783-862)」という人物は、中央で活躍し、820年代に有名な「令義解」を編纂したとされている。その子供らの世代864年には、和気朝臣姓となったとされる。この流れは後世武士「寒川氏」「十河氏」などを輩出したとされる。
さて、空海の出自である讃岐の「佐伯直氏」の出自に関しては古来色々言われてきた。主なものは、古代豪族「大伴氏」から派生した氏族であるという説。例えば「佐伯今毛人」という有名人が、奈良時代後期から長岡京時代にかけて歴史上活躍した。これは佐伯宿禰姓である。(既稿「大伴氏考」参照)
これと同一氏族とする系譜が残されている。
一方12景行天皇の皇子「稲背入彦命」の流れは播磨国造になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓となり、この裔に「佐伯直田公」がおり、この子供が「空海」だとする説がある。