播磨、讃岐と伊予の大己貴神と少彦名神

孝昭朝に石上大神を奉斎し、新河小楯姫を妻として二児(大水口宿禰・大矢口宿禰)を生した。

関連伝承地

加麻良神社 観音寺市流岡町 大己貴神と少彦名神の2神による四国経営の御霊跡。

大水上神社 香川県三豊市高瀬町 その昔、大水上神社に少彦名神が来て、夜毎泣き叫ぶので、 大水上神は桝に乗せて財田川に流したところ、当地に流れ着いたといわれている。

道後温泉 愛媛県松山市

神代の昔、大国主命が病に倒れた少彦名命を温泉の湯につけたところ、たちまち病気が治ったと伝えられている。
むかし少彦名(すくなひこな)命が死にさうになったとき、大国主(おほくにぬし)命がトンネルを掘って九州の別府温泉の湯を引き、その湯に少彦名命を入れた。すると少彦名命は、「暫し寝(い)ねつるかも」と言って起き上がり、元気になったといふ。この湯は、熟田津石湯(にぎたづのいはゆ)と呼ばれ、景行天皇以来、たびたびの天皇の行幸があった。今の松山市の道後温泉のことである。(風土記逸文)

少彦名神社 愛媛県大洲市
肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの神社である
 昔、道後温泉をあとにした少彦名命が大洲にやってきて、肱川を渡ろうとしていた。洗濯をしていた老婆にどこが浅いかと尋ねると「そこらが深いですよ」と答えた。「そこが浅い」と少彦名は聞き違えて深みに入ってしまい、溺れて死んでしまった。
[少彦名に纏わる地名]
さいさぎ:少彦名を救出しようと村人が「さぁ急げ」と叫んで走ったので、これが転訛して「さいさぎ」になったという。
宮が瀬:少彦名が溺れたところ。
みこがよけ:遺体が流れ着いたところ。
御壷谷:壷に入れて埋葬したところ。
御冠岩:少彦名の冠が流されてひっかかった川渕の岩。
四国 大洲市 大己貴・少名彦2神の四国における足跡は、道後温泉を発見ののち、大巳貴命と共に、山頂沿いに南下し、壷神山(大洲市八多喜)に薬壷を忘れ、都(大洲市新谷)に居住され、その後、宮瀬(大洲市菅田)に移られ、肱川を渡り更に南下しようとしたとき、大神に呼ばれ高天原か黄泉の国へ旅立たれたとされる

大国主命は少彦名命と共に、越智郡から今治を通過し、陸路で松山道後温泉の地に至ったと思われる。松山に着いたところ少彦名命は重病を患ったようである。道後温泉で療養して回復したと伝えられている。

大己貴神・少彦名神
四国御経営の地が三野郡

『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社は、
大水上神社 香川県三豊市高瀬町羽方 讃岐国二宮である。

御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。

讃岐の少彦名
香川県観音寺市流岡町(ながれおかちょう)の加麻良(かまら)神社の伝承は少彦名とスサノオとの関連を示す上で興味深い。それは、「昔、神田村羽方( は かた)二の宮大水上(おおみなかみ)神社に少彦名が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝(ます)に命(みこと)を乗せて川に流すと、神室山の中腹に着き泣き止む、云々」

加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、 四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方 を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。

播磨国風土記は、大汝命(大国主命)と少彦名命の国造りの様子を伝えている。

① 飾磨郡の伊和の里で、乱暴な息子の火明命を残して大国主が出航したところ、火明命が怒って波風を起こして船を難破させてしまった。船や積み荷が落ちて、日女道(姫路)を始め、14の丘ができた。

② 飾磨郡の枚野(ひらの)の里で、大国主・少彦名と日女道丘神が期(ちぎり)をして会った時に、日女道神が食事をもてなした。

③ 大国主・少彦名の神が、神前郡埴里の生野峯で、この山に稲種を積んだ。
―他にも、俵を積んで橋を立てた、酒屋を造った処は酒屋谷と名付けた、大国主の飯を盛った、などの地名伝承は、大国主が米作りを先導した神であることを伝えている。

④ 神前郡の「はに岡」では、大国主と少彦名が、土の荷を担って遠くに行くのと、尿を我慢して遠くに行くのと、どちらができるか競争した。

⑤ 宗形大神奥津島比売命が伊和大神(大国主かその後継者と考えられる)の子を託賀郡の袁布(をふ)山で産んだ。

―これは、古事記とワンセットでみると、大国主は多紀理毘売を伴い、この播磨の地で子をもうけたという伝承である。古事記は、大国主は胸形の奥津宮の神、多紀理毘売と阿治志貴高日子根神 (迦毛大御神)、高比売、下照比売をもうけたと伝え、播磨国風土記は、宗形大神奥津島比売命と伊和大神が播磨の託賀郡(賀毛郡の北)で子をもうけた、としている。

少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、

出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られていること、

大国主命の神裔だとされる鳥鳴海命および国忍富命の神名が、少彦名命の兄・天目一箇命の子孫である三上祝家の系譜の中に取り込まれたか

福岡の大国主と少彦名
 山口県小野田市の方にある赤嵜(あかさき)神社(下図のウ)の伝承

「神代の頃、大己貴大神・少彦名(すくなひこな)大神が外国からの帰路、この地に船を止め上陸された。この地を赤崎という。二神は地区民に農・漁・塩業を教えられた。二神の神徳に感応した当地の者は二神を守護神として仰ぎ奉祭した。これが当社の創建である」とあって、外国からの帰路とあるからには、これもやはり朝鮮半島からの帰路であったと思われる。
 ここにはスサノオの名が見えず、かわって少彦名が登場しているが、おそらくこの少彦名は後で詳しく考証するようにスサノオの異名であろう。そうであれば、これはスサノオ一行の帰還伝承の一つということになる。

『出雲国風土記』には、少彦名神は青幡佐草日子命(あおはたさくさひこ)など別の名前でも登場している。その父神は天稚彦(天津彦根命)、母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっている。

 鳥取県八頭郡船岡町にこうした結論と符合する式内社がある。鳥取市の南方、船岡町中央部の大江川右岸の塩上に鎮座する塩野上神社がそれであり、岩積の上の本殿には日子火々出見命と塩椎神(塩上老翁命)の二座が祀られている。日子火々出見命は一般に神武天皇の祖父とされる皇祖神であるが、各地の祭祀例からいえば、天若日子(天稚彦)という本来の祭神が転訛した例が多い。この塩野上神社(塩ノ上大明神)でも同様とみられ、塩椎神は天若日子の子の少彦名神にあたることが多いから、塩関係の父子神を祀ったのが、この式内社ということになる。この地の古伝に、昔、塩ノ上の神は「ちまき」を食べる時に笹の葉で目を突き、片目が不自由になった、といわれる。「片目の神」とは鍛冶神の象徴であって、多くは天目一箇命を示唆し、この神も塩椎神に通じるのである。