九州年号と九州王朝

九州王朝があったのか?
その滅亡は、いつ頃か?

528年築紫の君 磐井が物部あら鹿火によって鎮圧された年か?
663年白村江で倭軍が大敗した年か?
670年国号を日本と改めた年か?

630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 

西暦六六一年 白鳳改元(辛酉の年)
西暦六六三年 白村江の戦に敗れ筑紫君薩夜麻ら唐に捕らわれる
西暦六六五年 長門筑紫に山城を築く
西暦六七〇年 庚午年籍の作成に着手
西暦六七一年 筑紫君薩夜麻帰国
西暦六七二年 壬申の乱
西暦六七八年 筑紫国大地震
西暦六八四年「白鳳」年号の改元を行ない、新年号を「朱雀」と号した。
その後、「大和」( 695)、「大長」( 698)の年号

二中歴  年代暦  (付西暦年数)

年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其
間結縄刻木以成政

継体  五 元丁酉 五一七~五二一    善記  四 元壬寅 五二二~五二五
                     (同三年発誰成始文善記以前武烈即位)

正和  五 元丙午 五二六~五三〇    教倒  五 元辛亥 五三一~五三五
                     (舞遊始)

僧聴  五 元丙辰 五三六~五四〇    明要 十一 元辛酉 五四一~五五一
                     (文書始出来結縄刻木止了)

貴楽  二 元壬申 五五二~五五三    法清  四 元甲戌 五五四~五五七
                     (法文〃唐渡僧善知傳)

兄弟  六 戊寅  五五八~五五八    蔵和  五 己卯  五五九~五六三
                     (此年老人死)

師安  一 甲申  五六四~五六四    和僧  五 乙酉  五六五~五六九
                     (此年法師始成)

金光  六 庚寅  五七〇~五七五    賢称  五 丙申  五七六~五八〇

鏡當  四 辛丑  五八一~五八四    勝照  四 乙巳  五八五~五八八
(新羅人来従筑紫至播磨焼之)

端政  五 己酉  五八九~五九三    告貴  七 甲寅  五九四~六〇〇
(自唐法華経始渡)

願転  四 辛酉  六〇一~六〇四    光元  六 乙丑  六〇五~六一〇

定居  七 辛未  六一一~六一七    倭京  五 戊寅  六一八~六二二
(注文五十具従唐渡)           (二年難波天王寺聖徳造)

仁王 十二 癸未  六二三~六三四    僧要  五 乙未  六三五~六三九
(自唐仁王経渡仁王会始)         (自唐一切経三千余巻渡)

命長  七 庚子  六四〇~六四六    常色  五 丁未  六四七~六五一

白雉  九 壬子  六五二~六六〇    白鳳 二三 辛酉  六六一~六八三
(国々最勝会始行之)           (対馬採銀観世音寺東院造)

朱雀  二 甲申  六八四~六八五    朱鳥  九 丙戌  六八六~六九四
(兵乱海賊始起又安居始行)        (仟陌町収始又方始)

大化  六 乙未  六九五~七〇〇

覧初要集云皇極天皇四年為大化元年

     已上百八十四年々号丗一代(不)記年号只人傳言
     自大宝始立年号而巳

翻刻追文 飯田満麿
監修校訂 古賀達也
平成十四年五月二二日

「法興」
これは、「法隆寺釈迦三尊像」銘に見える。

法興元卅一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗[余/心]。・・・(略)・・・二月廿一日癸酉、王后即世。翌日、法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像并侠侍及荘厳具竟。(略)使司馬鞍首止利仏師造。

また、『釈日本紀』に引く「伊予温湯碑」にも、見えている。

法興六年十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵[公/心]法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験欲叙意、聊作碑文一首。(以下略)

この「法興」年号は、『二中歴』を始めとした年代記類には見えない。僅かに『和漢年契』の系列が、「一説」として載せるだけ。
従って、他の「逸年号」群とは、孤立した存在。

(崇峻元年)是歳、百済国、使并せて僧恵総・令斤・恵[穴/是]等と遣わし、仏の舎利を献ず。・・・(略)・・・蘇我馬子宿禰、・・・(略)・・・始めて法興寺を作る。<崇峻紀、元年>

聖徳太子は、『日本書紀』によれば、推古二十九年二月五日に没した。
二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。<推古紀、二十九年二月>
一方、「上宮法皇」は、法興三十一年の明年の二月二十一日、つまり、推古三十年に当る年に没した。

没年も一年ずれており、命日も異なる。
金石文たる「法隆寺釈迦三尊像銘」を採って『日本書紀』を捨て、推古三十年二月二十一日を本当の聖徳太子の命日と考える論者も少なくないけれども、今は、慎重を要する。なぜなら、まさに、「両者は同一人物か否か」が、今、問題だからである。
「上宮法皇=多利思北孤」か?
「法興」年号が「九州年号」
当然ながら「九州王朝の天子の冥福」を祈るこの「像」に記された年号であるので「九州王朝の天子の制定した年号」以外であるとは考えられないのである。

播磨国の明要寺の伝承によれば、童男行者は百済当代の年号にちなんで明要寺と名づけたという。明要は 541 年~
また鶴峯戌申の『襲国偽僣考』では、「推古女帝の御宇、百済国定居元年、聖明王第三御子、琳聖太子我朝に渡り玉い…」となっている。定居は 611 年~

天武天皇は、「朱雀」の元年(西暦六八四年)二月に三野王等を信濃に派遣して地形を調べさせている。書紀には「是の地に都つくらむとするか」とあり、翌年には実際に信濃に行宮を作らせている。いったい、何のために信濃遷都を計画したのだろう

白村江で捕らわれ筑紫君薩夜麻が九州王朝の王であったがたとの説があります。西暦六七一年に筑紫君薩夜麻が帰還したとき、彼が「九州王朝」の実質的な王者として迎えられたかどうか不明です。

 「三国史記」の新羅本記文武王十年( 670)に『倭国が国号を日本と改めた」とある。また「冊府元亀」の長安元年( 701)に「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」とはじめて日本国の名が出る。

西暦六六三年、白村江での倭軍大敗の年。この注目すべき年から二十九年間、大宰府典の職にあったという筑紫史益。
691年、その在職二十九年間の忠誠に対して、彼は何故か特に報奨が与えられている。

「日本書紀」の持統天皇五年正月丙戌(十四日)に「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」とある。このことから筑紫史益(つくしのふびと まさる)という人物が、西暦六九一年を遡ること二十九年の西暦六六二年以来、筑紫大宰府典(ふびと)の職にあることが知られる。
 
詔勅のとき、筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、「日本書紀」天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされている。

筑紫君薩夜麻が白村江の戦で唐の軍に捕われて以後、主君を失って混乱した「九州王朝」の立て直しに際し、『九州王朝」の事実上の後継者とは別個に『近畿王朝」の傀儡政権的な有力者を擁立し、大宰府には親「近畿王朝」色の強い連絡役的存在の人物を登庸したであろうことは当然に考えられ、該当する有力者の一人として、筑紫史益が筑紫大宰府典の職に任命されたのであり、そうした立場ゆえに名目的ながら大宰府の長官とほぼ同程度の位階を与えられたのではなかろうか。

この時以後、筑紫史益の名は史書から姿を消す。天平十年( 738年)駿河国正税帳に「竺紫史君足」とある

「日本書紀」によれば、西暦六八五年十一月、新羅は官位第四位波珍食*の金智祥、第五位大阿食の金健勲を派遣し、「政を請」して(他国の政冶に注文をつけて)いる。新羅の使節が来朝するのに、その理由は「朝貢」「進調」が殆どで、「請政」( 676,685)「奏請国政」( 687,695)のような例は四例に過ぎないうえ、このように使節の官位が異常に高いのは、天皇即位の慶賀又は弔喪の時の使節以外には見受けられないことである。

朱鳥元年(天武十五年、686)五月二十九日
 新羅使金智祥ら来着、筑紫に饗応し帰国させる。
 この前年十一月二十七日、新羅の国政報告と進調のため金智祥(こんちしょ
う)以下の使節が筑紫に来着した。金智祥の官位は日本の令制の正三位に相当
し、新羅の王族の一人。また副使の金健勲(こんごんくん)も従三位に相当す
る高官で破格の大物が使節として来日したことになる。遣使の目的は請政(国
政報告、実際には違うだろうが少なくとも日本側はそう理解した)ではあるが、恐らく非常に重要な役割を帯びていたのであろう。
 彼らはしかし都に招かれることなく、その代わりに饗応のためこの年一月、
川内王(こうちのおおきみ)、大伴安麻呂(家持の祖父)らを筑紫に派遣、さ
らに四月十三日には川原寺の伎楽(ぎがく、古代チベット・インドの仮面劇)
を大宰府に送った。新羅使からは進調物として名馬一頭、騾馬一頭、犬二匹、
金細工の器、金、銀、高級織物、虎皮、薬など百余種もの珍宝が献上された。
またほかに大使・副使が個人的に献上したものや皇后・諸皇子に献上した物も
多数あったらしく大変力の入った使節団であったことがわかる。
 来日から半年も経ったこの日、彼らには筑紫で饗応を行い、答礼の品々を贈
って帰国させた。日本から贈られた物の内容については記載されていない。
 これほどの高官を派遣されながら都に招かなかった理由は明確でないが、或
いは当時藤原京が既に造営中であったと見られる。

万葉集の朱鳥

「日本紀曰」とある万葉集の左注の年号朱鳥は、次のように60干支を確認すれば、全て持統元年(687)が元年となる、日本書紀には存在しない年号になるのです。

朱鳥四年庚寅(30)=60×11+30=690年=持統四年
朱鳥五年辛卯(31)=60×11+31=691年=持統五年
朱鳥六年壬辰(32)=60×11+32=692年=持統六年
朱鳥七年癸巳(33)=60×11+33=693年=持統七年
朱鳥八年甲午(34)=60×11+34=694年=持統八年

これでは、万葉集が「日本紀」と「日本書紀」は同じものではないと告げていることになりますが、川嶋皇子が目に付く。

「白鳳」「朱雀」年号を記載する史料が中世以降多く存在する。
(1)厩坂寺。天武天皇即位元年、白鳳十二(癸未)(六八三)年、都大和国移高市郡時、山階寺改而号厩坂寺。<興福寺伽藍縁起>昌泰三年(九〇〇)成立。
(2)元年壬申八月、天皇幸野上宮、立年号為朱雀元年。太宰府献三足赤雀、仍為年号。<皇円『扶桑略記』天武>皇円(一一一二~六九)。
(3)大嘗会。天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始之但歌不見。<藤原清輔『袋草紙』大嘗会歌次第>一一五八年頃。
(4)其年の八月に御門は野上の宮に移り給たりしに、つくしより足三ありし雀の赤を奉りしかば、年号を朱雀元年と申侍りし。其明年の三月に、備後国より白雉を奉りたりしには、朱雀と云し年号を白鳳とぞかへられにし。<水鏡、天武>一一九五年頃。
(5)天武 十五年(元年壬申)(中略)又年号アリ。朱雀一年(元年壬申)白鳳十三年(元年壬申、支干同前、年内改元歟)朱鳥八年(内一年)。<慈円『愚管抄』皇帝年代記>一二二〇年。
(6)天武元年七月ニ彼皇子ヲ被誅キ、同八月ニ太宰府ヨリ三足ノ赤雀ヲ献ズ。仍テ年号トス。朱雀是也ト左大臣経宗被申ケリ。大外記頼業ハ白雉ヲ改テ白鳳トシテ、十一月ニ大嘗祭ヲ被行キト申ケレバ、忽ニ改元アリケルトカヤ。<源平盛衰記、顕真一万部法華経事>一二五〇頃。
(7)宮(天武)名乗テ憑マントオボシテ、丸ハ浄見原ノ宮也。深ク汝ヲ憑ト宣ヘバ、長者畏テ聟ニ取奉テ、隠シ置奉ル。(中略)其後長者東夷ヲ催テ、白鳳元年壬子、始テ不破関ヲ置テ、美濃国ニテ軍構シ給ヘリ。<源平盛衰記、三井寺僉議附浄見原天皇事>一二五〇頃。
(8)後記(千満撰)云、或説云(中略)或説云、天智六(丁卯)(六六七)年定恵和尚生年二十二入唐。白鳳七(戊寅)(六七八)帰朝。同年十一月改大織冠聖朝移倉橋山多武峯、其上起十三重塔(云々)或説云、白雉四年入唐。天智六年重入唐矣。旧記云、定恵和尚白雉四(癸丑)(六五四)年夏五月随遣唐使入唐。高宗永徽四年也。在唐習学二十六年、高宗儀鳳三(戊寅)(六七八)年、伴百済使帰朝。白鳳七年秋九月、同年起十三重塔矣(已上)<多武峯略記、草創>鎌倉期。
(9)コレヨリサキニ、孝徳ノ御代ニ大化・白雉、天智ノ御時白鳳、天武ノ御代ニ朱雀・朱鳥ナンド云号アリシカド、大宝ヨリ後ニゾタエヌコトニハナリヌル。<北畠親房『神皇正統記』文武>一三三九年。

(1)~(8)は、「白鳳」元年、「朱雀」元年を共に天武天皇元年壬申に当てるものだ。(1については、後に再び論じる)

河内王 没年: 持統8.4 (694)
7世紀末の筑紫大宰帥。川内王とも。朱鳥1(686)年,新羅使金智祥を饗応するために筑紫に遣わされ,同年9月天武天皇の殯宮において,左右大舎人を代表して誄した。時に浄広肆(のちの従五位下)。持統3(689)年,筑紫大宰帥に。同6年,持統天皇の詔を受け,沙門を大隅と阿多(いずれも鹿児島県)に遣して仏教を伝えさせた。没後浄大肆(従五位上)を贈られた。

「旧唐書」倭国日本国伝に「日本国は倭国の別種である。其の国は日辺にあるので、故に日本をもって名としている(中略)。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。」とあるのは、最終的に倭国すなわち「九州王朝」が、日本国即ち「近畿王朝」に併合されたことを示している。
 西暦七〇一年に「冊府元亀」が記す「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」とある。文武天皇は始めで以後継続する元号を立て、「大宝」と号したことが「続日本紀」に「建元為大宝元年」(三月二一日の条)と記されている

九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測される。

九州年号は大長(704年-712年)まで続いている。
続日本紀に下記のような記述がある。
養老元年(717年)11月17日 亡命山沢。挟蔵兵器。百日不首。復罪如初(武器を持って山野に逃亡している者は100日以内に自首しないと恩赦を与えない)。
養老7年(723年)4月8日 大宰府言。日向。大隅。薩摩三国士卒。征討隼賊。頻遭軍役(大宰府の報告によれば、日向・大隅・薩摩の3カ国の士卒は、隼人の反乱軍征討に頻繁に軍役に狩りだされている)
養老7年(723年)5月17日 大隅・薩摩二国隼人等六百廿四人朝貢(大隅・薩摩の2カ国の隼人ら624人が朝貢してきた)

仁徳天皇妃 髪長姫

<古事記によると> 天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使いたまはむとして喚上げたまふし時、その太子大雀命、その媛女の難波津に泊てたるを見て、その姿容の端正しきに感でて、すなわち建内宿禰大臣に誂へて告りたまひけらく、「この日向より喚上げたまひし髪長比売は、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜はしめよ」とのりたまひき。
 ここに建内宿禰大臣、大命を請へば、天皇すなわち髪長比売をその御子に賜ひき。 賜ひし状は、天皇豊明聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、その太子に賜ひき。
 (略)故、その媛女を賜はりて後、太子歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女を、雷の如、聞こえしかども、相枕枕くとうたひたまひき。 また歌ひたまひしく、道の後、子波陀媛女は、争わず、寝しくをしぞも、愛しみ思ふとうたひたまひき。
 <日本書紀>の応神天皇の条に「十三年春三月、天皇専使を遣(つか)わして髪長媛を徴さしめたまう。 秋九月中に、髪長媛 日向より至(いた)れり。 便ち桑津邑(くわつむら)に安置らしむ。」と記(しる)されています。 すなわち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女(さいじょ)として、宮中の新嘗祭(にいなめさい)に奉仕するために、日向の国より召(め)され(宮崎県 都城市が髪長媛誕生の地と言われています。)、仁徳天皇妃(きさき)となられ、現 大阪市の桑津にお住(すま)いになった。 後に、髪長媛の住居跡に金蓮寺が建立されました。 髪長媛と仁徳天皇の間には1男、1女の子供が生まれました。

 都城市の早水神社(旧沖水神社)の祭神は<髪長媛>、応神天皇、牛諸井(髪長媛の父)。

「県指定文化財 都城市沖水古墳」指定年月日 昭和11年7月17日
 大正末期までは川東町から千町にかけて小規模古墳が散在していたようであるが、現在は早水神社の参道沿いに所在する低い墳丘1基(2号墳)だけが残っている。
この墳丘の築造時期や埋葬主体などの詳細は不明であるが、昭和49年に墳丘頂部から平安時代に埋納(まいのう)された鋳銅製経筒(ちゅうどうせいきょうづつ)・中国製湖州鏡(こしゅうきょう)(宋代・浙江省湖州産)・玉石とこれらを収納した軽石製の円筒形容器が発見された。
 経筒と軽石製容器は約60 cm 離れて出土しており、その周囲には木炭と小石が散乱していたが、これは現代のある時期に一旦(いったん)掘り出され、適当に埋め戻されたためであると推測される。
 経筒は円筒形であり、蓋(ふた)は宝珠形つまみのある笠蓋(かさぶた)である。経筒の低板はないが、鏡面の痕跡(こんせき)から湖州鏡面を上向きに置き、その上に経筒を置いていたものと思われる。

令制雅楽寮に記す「筑紫諸縣舞」

 「続日本紀」巻十一の聖武天皇天平三年(西暦 731年)七月廿九日に『雅楽寮ノ雑楽生ノ員ヲ定ム。大唐ノ楽卅九人。百済ノ楽廿六人。高麗ノ楽八人。新羅ノ楽四人。度羅ノ楽六十二人。諸縣ノ舞八人。筑紫舞ノ廿人。其大唐ノ楽生ハ夏蕃ヲ言ハズ、教習ニ堪タル者ヲ取ル。百済高麗新羅等ノ楽生ハ並ニ当蕃ノ学ニ堪タル者ヲ取ル。但度羅楽、諸縣、筑紫ノ舞生ハ並ニ楽戸ヲ取ル。」と記し、諸縣の舞、筑紫の舞などの名が見える。
 「令集解」巻四に記す大属尾張浄足説は、天平年間ごろの事と考えられているが、雅楽寮楽人の内、『大属尾張浄足説。今寮に有る舞曲左の如し。久米舞大伴琴を弾き、佐伯刀を持て舞う、即蜘蛛を斬る、只今琴取二人、舞人八人、大伴佐伯不別也。五節舞十六人田舞師、舞人四人、倭舞師舞也。楯臥舞十人、五人土師宿禰等、五人文忌寸等、右甲を着け并に刀楯を寿つ。筑紫舞廿人、諸縣師一人、舞人十人、舞人八人甲を著け刀を持つ、禁止二人。」云々とあるように筑紫舞は二十人の舞人による舞、諸縣舞は諸縣(舞)師に率いられた舞八から十人による甲を着け刀を持った勇壮な舞であった。
 大宝令以下の諸令において、雅楽寮の諸楽師例えば唐楽師、高麗楽師、百済楽師、新羅楽師等と並んで舞師の名が見えるが、「令義解」巻一職員令に記す雅楽寮に「舞師四人。雑ノ舞ヲ教ルコトヲ掌ル」とあり、以下いずれも『類聚三代格』の記載には、
 (1) 同書巻六の天平勝宝九年(西暦 725年)八月八日の大政官謹奏に、「諸縣舞師、堕羅舞師。右准雅楽諸師従八位官」とある。
 (2) 同書巻四の大同四年(西暦 809年)三月廿一目の太政官符に「舞師(四人)。筑紫諸縣師(在此中)」(四人、據令集解補)(在此中三字本書闕今據令集解補之)、とある。
 (3) 同書巻四の弘仁十年(西暦 819年)十二月廿一日太政官符に「定雅楽諸師数事。舞師四人。倭舞師一人。五節舞師一人。田舞師一人。筑紫諸縣舞、師一人。」(按舞師四人下注令集解作倭舞師一人呉舞師一人新羅舞師一人筑紫諸縣舞師一人)、とある。
 (4) 同書巻四の天長五年(西暦828年)十一月廿五日の太政官符に書生十人を置くかわりに、雅楽寮の歌人五人、筑紫諸縣舞生五人を削減する、とある
 (5) 同書巻四の承和二年(西暦 835年)二月十九日の太政官符に、書生十人を置くかわりに、田舞生五人、筑紫諸縣舞生五人を削滅する、とある。
 (6) 嘉祥元年(西暦 848年)九月廿二日太政官符に「倭楽生百卅四人。減九十九人。定卅五人」で、歌人、笛生、笛工、舞生、田舞生、五節舞生に続いて「筑紫諸縣舞生三人。元廿八人」という記載がある。

これらの「類聚三代洛」にあっては、「続日本紀」などに見える「筑紫舞」の名は無く、かわって「筑紫諸縣舞」の名が出てくる。従って、八世紀の半ばころまでは「筑紫舞」と「諸縣舞」の二つが、それぞれ存在していたものが、やがて統合され、九世紀の治めには、もはや「筑紫諸縣舞」に転じていることがわかる。

『旧唐書』倭国伝
倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。
貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

旧唐書 日本伝
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。

その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。
開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

 九州王朝の滅亡後、近畿天皇家は自らの正当性を主張すべく、先住した九州王朝の痕跡を消し去ったかもしれない。
古田武彦氏は『古事記』『日本書紀」の史料批判により、九州王朝の神話や伝承が『日本書紀』に盗用されていることを論証された。(1) また、『続日本紀』にも九州王朝の官職名「評督」や年号「白鳳」「朱雀」などが記されており、先住王朝の痕跡が色濃く残っていることを明らかにされた。

『日本書紀』はもとより、『続日本紀』においても「筑紫」の表記はいたるところで使用されている。例えば、次の通りである。
「新羅の使を筑紫に以て迎える。」(文武元年)
「竺志の惣領に勅し、犯に准じて罰を決せしむ。」(文武四年)
「筑紫七国」(大實二年)
「筑紫の観世音寺」(和銅二年)
「筑紫大宰師」(養老三年)
「筑紫の諸国の庚午の籍七百七十巻を官印を以て之を印す。」(神亀四年)
「筑紫舞」(天平三年)
「筑紫の兵」(天平神護二年)
「筑紫道」(寶亀四年)
「筑紫府」(寶亀十一年)
 これら以外も含めて四十以上の「筑紫」の表記が見られるのだが、ところが、この『続日本紀』に続く『日本後紀』では「筑紫」は皆無となる。

近畿天皇家の国史編纂者たちが意図的に「筑紫」の語を用いるのを止めたかもしれえない。そうした中にあって、例外的ともいえるのが『続日本後紀』だ。そこにはわずかではあるが、「筑紫」が出現している。
(1) 新羅人、李少貞等四十人、筑紫の大津に到着する。(承和九年正月、八四二)
(2) 太宰府が言う、「対馬嶋司が言うことには、去る延暦年中に東国人を防人に配した。後に又、筑紫人を防人に配した。しかし並んで廃された。当国の百姓、弘仁年中に病気で多く死ぬ。寇賊が急に有れば、何として防禦に堪えん。望み請うに、舊例に准じて筑紫人を防人に為さん。」(承和十年八月、八四三)
(3) 肥前国養父郡の人、大宰少典従八位上・筑紫公文公貞直。兄、豊後大目大初位下・筑紫公文公貞雄等に忠世の宿祢の姓を賜る。左京六條三坊に貫附す。(嘉祥元年八月、八四八)

 この三例の記事に「筑紫」が現われるのだが、おどろくべきは(3) である。筑紫公の姓を持つ兄弟のことが記されているのだ。『続日本紀』の次の記事から「公」は本来「君」の字であったことは明らかである。

天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。〈『続日本紀』(天平寶字三年十月、七五九)〉