三野王、美務王

美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王

日本書紀に書かれた「みのおう」

天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。

天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。

天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。

天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。

天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。

天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。 

天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。 

持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。

敏達天皇の皇子に難波皇子がおり、そのの子に粟隈王、その子の美奴王が橘三千代を娶り、橘諸兄を生んでいる。それを以て橘氏の祖神とする。

諸兄の父美努王の父は栗隈王である。白鳳一一年(六七一)筑紫率に任じられ、翌一二年壬申の乱に際しては、近江朝の命令を拒否する。近江朝の態度は命令に従わせるか殺すかだったのだから、栗隈王の姿勢は中立とは言えない。 

この諸兄は敏達天皇の裔とされている。尊卑分脈には

 

敏達天皇 — 難波親王 — 大俣王 — 栗隈王 — 美努王 — 諸兄

 

と、ある。(但し分脈は諸兄と葛城王を二人に分けて兄弟として記載する)ところが、群書類従に記載される各種「橘氏」及び「楠氏」系図は

 

敏達帝 — 難波親王 — 大俣王 — 美好王 — 諸兄
 

敏達天皇 — 難波親王 — 栗隈王 — 美奴王 — 諸兄
 

敏達天皇 — 難波親王 — 大役王 — 美好王 — 諸兄
 

敏達天皇 — 高仁親王 — 諸兄 

など、一つとして同じものはない。

天日鷲は 美努連の祖

  • 天日鷲神は、神代紀には二箇所見えて、天岩戸事件のとき祈祷のため粟国忌部の遠祖でその作った木綿を天香山の真榊に掛けたこと(第七宝鏡開始の段の一書第三)、高皇産霊尊が作木綿者としたこと(第九天孫降臨の段の一書第二)が記されます。
  • 『姓氏録』には、少彦名神の後裔氏族は見えませんが、高魂命(高皇産霊尊)の孫・天日鷲命(天日鷲翔矢命)の後裔は多く記載されて、弓削宿祢、天語連、多米連・宿祢、田辺宿祢。
  • 安房の忌部の子孫となる洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」(筑波大図書館所蔵、鈴木真年写本)
    • 天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命(一云武羽槌命)の子孫として委文宿祢・美努宿祢・大椋置始連・鳥取部連の祖と記載。ここであげられる四氏のうち、美努宿祢・鳥取部連 は『姓氏録』には美努連・鳥取連としてあげられ、ともに「角凝魂命の三(一説に四)世孫の天湯川田奈命(天湯河桁命)の後」として記されます。また、同書には、右京神別に神麻績連、鳥取連、三島宿祢、天語連が一連の記載をされており、記載内容は現存版が抄本のためあまり共通なものとはなっていませんが、これら諸氏が同族の系譜を伝えていたことが推されます。
  • 鳥取連を通じて、少名彦命と天日鷲命とが同じ系統にある神ということが分かってきます。