三輪氏、大神神社、大物主

古事記と日本書紀では、三輪の神、大物主とその子孫の大田田根子に至る系譜がなぜか判らないので、神社伝承から調べてみよう。 天日方櫛日方命が、鍵を握っている。『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている

さて、三輪の神、大物主神について、文献における初見は、 『古事記』である。

古事記によれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、 独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光して依り来る神」が あった。そ榴の神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。

続いて、同じ『古事記』の神武天皇の段に、三輪の神は「大物主神」であることが記されている。

また『日本書紀』には、同じ内容のことが書かれ、大国主神の別名である大己貴神が、協力者の少彦名神がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂・奇魂」であると言い、「日本国の三諸山に住みたい」と答える。 そして「この神が大三輪の神である」と記している。続いて『日本書紀』の崇神天皇八年に、大田田根子が三輪君族の始祖であり、三輪の神が大物主神であることが示されている。

古事記と日本書紀の大田田根子の系譜

古事記では、大田田根子は大物主の4世の孫となっている。

 
先代旧事本記の系譜  

ホツマツタエの系譜

 

比較考証結果

さて上の先代旧事本紀記載の系図と古事記(崇神記)を読み比べてみるとこうなる。

先代旧事本紀 古事記 備考
都味歯八重事代主神 大物主神
三島溝杭女活玉依姫 陶津耳命女 活玉依毘賣
天日方奇日方命 櫛御方命

ここで、「天日方・・・」の「ヒカタ」と「櫛御方」の「ミカタ」が通じている。母の名前は同じ「活玉依」ヒメである。従って、源は一つであった伝承が一つは事代主-三島溝杭と伝わり、他は大物主-陶津耳、と伝わったものであろう。
天日方奇日方命   鴨主でもある。大物主(天事代主)の子で神武天皇妃(五十鈴姫)の兄。

『古事記』によると、大物主神陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。子孫の大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となった。

三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命櫛御方命阿田都久志尼命鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。

また、『先代旧事本紀』に、天日方奇日方命は、神武天皇の時、食国政申大夫として橿原宮に供奉したことある。

『出雲国造神賀詞』にでる大和の大物主 櫛甕玉(天日方奇日方命のこと)

乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静り坐さむ大倭国と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取りつけて、倭の大物主 櫛ミカ玉 命 と御名を称へて、大御和の神奈備に坐せ


『旧事』天日方奇日方命(あめのひかたくしひかた)。

この命は橿原の朝(みかど)の御世に勅を受け食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)と成って共に奉る。

『書記』事代主神、八尋鰐になって三嶋溝樴姫、或いは云わく、玉櫛姫のもとに通い給う。そして姫蹈鞴五十鈴姫命を生み給う。
『旧事』事代主神は八尋のワニとなって、三嶋溝杭(みしまのみぞくい) の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ) のもとへ通い、一男一女を生まれました。

  • 天日方奇日方命とは櫛御方命と思われる。
  • 大物主は事代主とも呼ばれ、三島溝杭は陶津耳とも呼ばれたのかもしれない。
  • 三輪高宮家系譜に言代主が二代続いている。また、大国主命と都美波八重事代主命が共に大物主の別名を持っている。
  • ホツマツタエでは最後の大国主の7世の孫が大田田根子である。
  • 三輪氏の系図でも、天事代主7世の孫が大田田根子となっている。


三輪氏高宮家の家系
によれば、

 

素戔嗚尊-大国主命-都美波八重事代主命ー天事代主籤入彦命-奇日方天日方命-飯肩巣見命ー建甕尻命ー豊御気主命ー大御気主命ー建飯賀田須命ー大田々根子命ー大御気持命
(三輪高宮家系より)

八重事代主は三島の溝咋の子の玉櫛姫と結ばれて、櫛御方命(和邇彦)と櫛無(那珂彦)を生んだ」という。

讃岐の伝承

大物主や事代主との関連が注目される讃岐の国である。
琴平が事代主に因むか。金刀比羅宮の主神は大物主で、摂社に八重事代主を祀る。
御年神社「大年神、御年神、若年神」 事知神社「積羽八重事代主神外二柱の神」 がある。

事知は事代のことであった。

「コトヒラ(琴平)」は「コトシロ(事知、事代)」の訛ったものと思われる。
讃岐の金比羅宮に八重事代主が祀られ、この地域は、那珂郡と呼ばれて、櫛無神社がある。

秀真伝では
積葉八重事代主命の長子の櫛甕玉命(鰐彦命)がアスカの5代大物主(蕗根命)の養子になる。のちに6代大物主となる。

大物主を祀る讃岐の金刀比羅宮(ホツマツタエによる)

  • 伊予津彦、土佐津彦、宇佐津彦が生まれたとのこと。
  • また積羽八重事代主が多くの県(24県)を治めたとのこと。
  • 金毘羅宮にいた事代主が、三島の溝咋の娘と結ばれて、櫛御方命(和邇彦)と櫛無(那珂彦)を生んだように読み取れる。

息吹宮とは   息吹の宮。息吹外宮。=外の宮
「ト」は「外・遠・飛」の意で、海に隔たる四国 (外つ地) を指す。
「イフキ」は、ツキヨミが気吹を上げて、四国を治めたことを示す。
つまり「息吹の宮・息吹外宮」は、四国24県を治める政殿であり、またその宮の主たる者を指す。
「イフキヌシ・イフキトヌシ」の名は、彼がこの宮の主であったことを示すものだろう。

イフキヌシの妻のタナコ姫は、ここでイヨツヒコ・トサツヒコ・ウサツヒコを生む。
ホホデミの時代、ツミハとタケフツがイフキの宮で二十四県を治める。

日本書紀 崇神天皇7年

 崇神天皇が詔して「昔、我が皇祖が大業を開き、その後聖業はいよいよ高く、王風は盛んであった。しかし今自分の世となり、しばしば災害がある。恐らく朝廷に善政が無く、神祇が咎を与えておられるのだろう。占いで災いのもとを探ろう」と言った。そこで神浅茅原かむあさじはらにて八十万神に占って問うた。このとき倭迹迹日百襲姫命に神憑り、「天皇はなぜ国の治まらないことを憂えているのか。もし我を敬い祭れば、必ず自ずと平らぐだろう」と言った。天皇は教える神を誰かと問うた。すると「我は倭国の域の内に居る神。名は大物主神である」と答えた。そこで神の教えのままに祭祀したが験は無かった。天皇は斎戒沐浴して、殿内を浄めて祈ると「神への礼が足りないのでしょうか。なぜ受け入れて頂けないのでしょうか。また夢にて教えて頂けることを願います」と言った。その夜、夢に貴人が現れて殿戸に立つと、自ら大物主神と名乗り、「憂えなくてもよい。国が治まらないことは我が意である。もし我が子の大田田根子に吾を祭らせれば、たちどころに平らぐであろう。また海外の国も自ら帰伏するであろう」と言った。
【日本書紀 崇神天皇七年二月辛卯条】

倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰・伊勢麻績君、この三人が共に同じ夢を見て言うには「昨夜、夢で一人の貴人があり、『大田田根子命を大物主大神の祭主に、また市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にすれば、必ず天下太平になるであろう』と教えていただきました」と。崇神天皇はこれを聞いてますます喜び、天下に大田田根子を求めると、 茅渟県ちぬのあがたの 陶邑すえのむらで見つけて連れてきた。天皇は 神浅茅原かむあさじはらにて諸王卿及び八十諸部を集めて、大田田根子に誰の子かと聞くと、「父は大物主大神。母は活玉依媛で、陶津耳の娘(または奇日方天日方武茅渟祇の娘)です」と答えた。天皇は「自分はまさに栄えるであろう」と言った。そして物部連の祖の伊香色雄を 神班物者かみのものあかつひとにしようと占うと吉と出た。また他神を祭ろうと占うと不吉と出た。
【日本書紀 崇神天皇七年八月己酉条】

古事記 崇神天皇

疫病が大流行し、人民は死に尽きようとしていた。崇神天皇は憂い嘆いて 神牀かむどこ(神意を得るための清めた床)に坐した夜。大物主大神が夢に現れ、「これは我が御心だ。意富多多泥古に我を祭らせれば、神の祟りは起こらず、国は安らかに平らぐ」と語った。そこで 駅使はゆまづかいを四方に遣わし、意富多多泥古という人を求めると、河内の 美努村みぬのむらにその人を見つけて貢進した。天皇が誰何すると、「私は、大物主大神が陶津耳命の女活玉依毘売を娶り、生まれた子櫛御方命、その子である飯肩巣見命、その子である建甕槌命の子で、意富多多泥古といいます」と言った。すると天皇は大いに喜び、「天下は平らぎ、人民は栄えるであろう」と言った。意富多多泥古命を神主として、 御諸山みもろやまに 意富美和おおみわ(大三輪)の大神を斎き祭らせた。また伊迦賀色許男命に命じて、 天之八十毘羅訶あめのやそびらかを作らせると、天神地祇の社を定めて祭った。この意富多多泥古という人を神の子と知ったわけは、上に述べた活玉依毘売は容姿が端正だった。ここに姿が比類無い壮夫がいて、夜中に突然やってきた。そしてまぐわい、共に住んだ。まだ時日も経たないのにその美人は身ごもった。父母はその妊娠を怪しみ、「おまえは身ごもっているようだが、夫がいないのにどのようにして身ごもったのだ」と娘に問うと、「麗美な壮夫がいました。その姓名は知りませんが、毎晩やって来て、共に住む間に。自然と身ごもりました」と答えた。父母はその人の素性を知りたいと思い、娘に「赤土を床の前に散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通して、その衣の裾に刺しなさい」と言った。教えのとおりにして翌朝見ると、針をつけた麻糸は戸の鍵穴を通って出ていた。残る麻糸は 三勾みわ(三巻き)のみであった。それで鍵穴から出たことを知り、糸をたどって尋ねて行くと美和山に至り、神の社で留まっていた。それでその神の子と知った。
【古事記 中巻 崇神天皇段】