三足鳥、八咫烏

中国の書『淮南子』
「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた」とある

前漢代の劉安の『淮南子』「精神訓」に

「日のなかに※烏(そんう)がいる」とあり、後漢代末期の 高誘が「※」は「蹲」で、そんうは三足烏である」と注を付している。また、後漢代中期の王逸が 前漢代の『楚辞』所収の「天問」に対する注に引く『淮南子』に、「堯が※(げい)に天を仰いで 十日を射るよう命じたところ、九日に命中した。九日のなかにいた九羽の烏〔九烏〕はみな死んで、 その羽翼を落とした」

とある。すなわち、三足烏とは日精のことである。また、日車〔日を乗せる車〕の御者であるとも伝える。

淮南子(えなんじ)は前漢の淮南王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書。
呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。

伏儀と女堝

女堝氏は一般に伏犠氏の妻とか妹とか言われているが、本来洪水伝説にまつわる人物であった。漢代になると、女堝氏は人類の創造者として伏犠氏と一緒に人類の始祖神とされるようになった。ところが、儒教の歴史的論説の中でこの二人はみな上古時代の聖賢な帝王で、特に伏犠氏は歴史上の最も古い帝王(三皇)の初めとされていた。伏犠氏の事績については、儒教の教典である『易・繋辞伝下』に次のように述べている。“古者包犠氏の天下に王たるや、仰いでは即ち象を天に観し、俯しては即ち法を地に観し、鳥獣の文と地の宜とを観して、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。是に於いて初めて八卦を作り、以て神明の徳に通じ、以て万物の情を類す。結縄を作りて罠罟と為し、以て佃し以て漁す”とある。

漢墓出土帛畫及畫像石刻中無不以蟾蜍象徵月亮,同時以金鳥(或金雞)象徵太陽。在伏羲被奉為日神的同時,女媧即被奉為月神。因之月宮古人又稱「蟾宮」,「蟾窟」。月之別名則有「蟾」和「玉蟾」之稱,於是月光也就直稱「蟾光」。著名成語「蟾宮折桂」就是由這個古老的蛙圖騰崇拜脫胎而來。所以,驪山風俗中的拜月及「送中秋」、「送八月節」風俗仍然是一個女媧圖騰崇拜紀念日。

西周中期 鳥形尊
說明:寶雞市博物館藏 高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。
這件西周中期鳥尊高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。鳥尊有誇張之意。鳥身中空,背部開方口,口上似應有蓋。鳥昂首勾喙,雙目圓睜。鳥腹下有極粗壯的三足,?強了尊的穩定性,鳥尾羽?大,從兩邊方折下垂。方形鳥羽和鳥之三足起穩定均衡作用。三足鳥,現實生活中所無,周人鑄三足銅鳥,可能和神話傳說中的太陽鳥—三足烏有關。現藏寶雞青銅器博物館。

中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父が雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。
伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少してしまった出来事が神話に反映したと言われている

1972年、中国湖南省長沙で、馬王堆漢墓が発見された
馬王とは当初、五代十国時代の楚王の馬殷(907〜930)と考えられていた。
天上界中央に描かれた神
人面蛇身の神として著名なのは、伏羲(ふっぎ)と女媧(じょか)。
孫作雲氏は伏羲説を、林奈巳夫氏は女媧説を唱えているそうだ

三日月とひきがえる
月を現すのに満月でなく三日月なのは珍しいとのこと
嫦娥は、後で出てくる后羿(こうげい)という人物の妻。
西王母から不死の薬を盗み、月に逃げたが「ひきがえる」の姿に変えられたという伝説がある。上部左側の龍の翼に乗って月を見上げているのが変身する前の嫦娥。
赤い太陽の中に、黒い烏が描かれている。この烏を金烏というらしい。後漢以後は三本足の烏が多出するのだが、これは二本足。

太陽の下、扶桑の木にからまっている龍
龍の体の上に4個、尻尾近くに1個、体の下の方に3個の赤い丸が見える。

 帝俊の妻羲和が太陽を十個生んだ。最初のうちは規則正しく昇っていたが、ある日悪戯心で一斉に天に昇ったため人びとは日照りに苦しんだ。
 そこで弓の名人后羿が、九つの太陽を射落とした、という伝説がある。
 金烏がいる大きな丸が残った太陽で、小さな丸が射落とされた太陽だという説があるらしいが、数が1個足りない。

熊か鼠のような顔をした獣首人身の怪神が、これも、鹿か馬かはっきりしない動物に騎(の)って、鐸(たく)の両側から紐を引っ張って鳴らしている。鐸の柄の上には鉢があり、その上に盛られた穀物を、二羽の飛鳥がついばんでいる

二匹の龍の頭が見える。向かって右が赤龍、左が青龍である

下部
怪しげな魚が二匹交差している

雲南に住む苗族
「先祖はかつて洞庭湖北の荊州に住み着き、伏犠と女媧を祖霊として仰いでいた」
と伝える。日本の伝統である漆、絹、こうじ酒、赤米、納豆、餅、ナレズシ、チマキ、コンニャク、歌垣、鵜飼いなどは、苗族の住む雲南や貴州において今も見うけられる。また、彼らの風俗が一昔前の日本のそれと酷似することも、広く知られている。

鳥の信仰は長江から
7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円と
して描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙
製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が
描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽
と鳥が信仰されていた

ミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。
 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。

日本人として苗族の調査をはじめて行なった鳥居龍蔵博士
湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を支えた。

苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説
蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

高句麗古墳壁画に出てくる三足烏

中国吉林地方の五回墳(ごかいふん)4号墓、角抵塚、北朝鮮平
南の徳花里1,2号墳など高句麗古墳に描かれた三足烏

高句麗の古墳の壁画から現われた三足烏。そしてカラスの姿をした立木と十五夜のカラス祭などで神鳥としてのカラスの跡を捜すことができます。また三足鳥は高句麗の雙楹塚、角抵塚、徳興里 1号、2号古墳、鎧馬塚、江西中墓、天王地神塚、長川 1号墳、舞踊塚、薬水里壁画古墳、そして五つのお墓(五回墳) 4号墓、5号墓などに描かれています。

三本足のカラス 八咫鳥(やたのからす)

八咫(やた)とは、長さの単位であり、巨大なものを表すのに使われてきた言葉。

京都の上賀茂神社・下鴨神社は、賀茂建角身命(かもたけつのみこと)
、つまり、八咫烏そのものを祀っている

IMG_3912.JPG

朝廷では即位の大礼や朝賀の儀式などの際、大極殿正門の左右に日像・月像幢
(にちぞう・がつぞうとう)を立てましたが、日像幢の頂部には太陽をかたどる金色の円板に三本足の烏、月像幢の頂部には月をあらわす銀色の円板に蛙と兎とが描かれていました。

天皇自ら籍田を耕して天地神祭祀に使う米をつくったり、正装に赤地の袞竜衣に冕をかぶったり。しかも袞竜衣の左肩には日輪の中に三本足のカラス、右肩には月輪の中にヒキガエル。背には北斗七星、両袖には龍が金糸でほどこされている

聖武天皇の肖像画
赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕(べん)と呼ばれる冠を被っている。袞竜衣の向かって右肩には日輪の中に三本足のカラス、左肩には月輪の中にヒキガエル。称徳天皇の儀礼用衣装もまた肩の部分に三本足のカラスとヒキガエル。背には北斗七星、両袖には天子の印の龍(前足片方だけが4本爪で他の3本の足は3本爪)が金糸で施されている

妙見菩薩は、また両手に宝珠を持ち、右手の宝珠には「金烏(きんう)」が、左手の宝珠には「玉兎(ぎょくと)」が描かれている
妙見菩薩は、法華経の行者を守護すると考えられています。日蓮自身の現前にも妙見菩薩が顕現したという話もあり、遺文のなかで北斗七星に言及していることなどから、広く日蓮宗の寺院で祀られるようになりました

八咫鳥神社
奈良県橿原市五條野町にも、八咫鳥を祀った八咫鳥神社がある。祭神
の加茂武津身之命は、八咫鳥大神とも称する八咫鳥。京都の賀茂別雷神
社、賀茂御祖神社の分霊を祀っている

大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命が葛木山の峰から山代国に移ったと記す。『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む鴨県主(かものあがたぬし)であるとしている。

葵祭りで知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛木山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る

上賀茂神社の烏跳び
重陽の節句、9月9日。
9の数は陽とされて、それが二つ重なる重陽の節句、別名菊の節句
まず禰宜方の刀自が幄舎を出て、弓矢を持って横っ飛びに中央へ進みます。
次に祝方が同じように烏跳びをします。
二人が交互に跳んで立砂の前に進み、弓矢を砂に立てかけます。
次に刀を持って、同じようにして立砂にもたせ掛けます。
そして今度は円座を持って烏跳びをし、それに座って「かぁ、かぁ」
「こぅ、こぅ」と交互に烏鳴きをします。

2002年に奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に、三本足のカラス「三足鳥」とみられる絵が見つかったそうです。

古代中国の四神(しじん)と世界最古の星宿(星座)図が石室内に描かれた奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)で、天井にある星宿図の日輪(太陽)にカラスとみられる模様、石室北壁面にネズミの頭と人の服装を組み合わせたとみられる獣頭人身像がそれぞれ描かれていることが25日までに、研究者の指摘で分かった。以前に見つかった「寅(とら)」とみられる像と合わせ、壁面には十二支が描かれている可能性が極めて高くなった。日輪内のカラスは古代中国、朝鮮の古墳などにも描かれているが、国内の古墳で確認されたのは初めて。
 文化庁などでつくる「キトラ古墳保存・活用調査研究委員会」(座長、藤本強・新潟大教授)が昨年12月、内部をデジタルカメラで撮影した。
 天井東寄りにある「日輪」内では、黒い鳥の尾羽、翼、脚2本らしい模様が確認された。古代中国の神話で太陽の象徴とされた3本足のカラスとみられる。
2/26毎日新聞より

山東省嘉祥県洪山村出土 画像石 
絵は三層に分かれている。
上層に西王母

西王母の右側に
 蟾蜍。そして、兎が3匹、仙薬をつくっている。兎の上には3本足の烏。
兎のさらに右側に「お座り」状態の九尾の狐

中層左側
男の前には軸と、そこから放射状に伸びるスポーク。
 およそ半分ほどは車輪ができかけている。
男は膝をまげて、当て金と金槌をもって、真っ直ぐな木(?金属?)にカーブをつける作業をしているようだ。男の後ろにいるのは、奥さんだろう。背中には子ども

西王母画像磚
時代:後漢
法量:高さ41.7cm、幅46.4cm
出土年:1954年 出土地点
出土地点:新繁清白郷一号墓
 西王母は中国古代に伝わった神化した人物である。図中の西王母は雲気に満ちた瓶形の籠内に身を置き、頭上に「玉勝」を広げ、龍虎の上に座している。左には西王母がむさぼり食うための三足鳥と戈を握った大行伯が描かれ、右には瑞祥を表す九尾狐と霊芝を持った白い兎が描かれている。龍と虎の下には醜悪なヒキガエルが直立して踊りを舞っている。左下隅には冠をかぶり幅広の帯を締めた人が、両手で笏を持ちうつ伏せになりながら祈祷している。その右の二人はおそらく仙人であろう。この画像磚は「線」によって雲気を表現し、仙境の境地という画面表現を増加させている。出所:『中国四川省古代文物展』

ーー