三保津姫、天村雲命

  • 『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、 もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。 だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。 

  • 出雲の美保神社に祀られており、美保の地名は、三穗津姫命によるものとする説もある。


言代主命は出雲の神である。 味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシと素盞嗚尊・ムカツヒメの娘である三穂津姫との間にできた子である。

但馬古事記によると天火明命(饒速日尊)が大和に天孫降臨する前に但馬国に降臨していると伝えられている。

饒速日尊は、妃天道姫命(三穂津姫)と共に一団を引き連れて降臨したのである。

天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄(比治山)に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。この時国作大己貴命・少彦名命・蒼魂命は諸国を巡り視て高志国に駐り天火明命を召して曰く、「汝命、この国を領(うしは)き知るべし」と。天火明命は大いに歓びて曰く、「永世なり。青雲志楽国」と。故(か)れ此の地を名づけて志楽国と云う。(中略)天火明命は神功既に終り、徳また大いなり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡り視、田庭津国を経て、河内に入り哮峯に止まり、大和跡見(とみ)の白庭山に至ります。跡見酋長長髄彦の妹、御炊屋姫命を娶り、宇麻志摩遅命を生む。天火明命は高天原に在ります時、天道姫命を娶り、天香久山命を生む。天香久山命は天村雲命を生み~以下略。

(但馬故事記:吾郷清彦著より引用)


 饒速日尊=彦火明命とすると、不自然なところがいくつか見られる。

籠神社伝承により、彦火明命の后が市杵島姫とあるが、市杵島姫の夫は、猿田彦命である。また、籠神社秘伝より彦火明命は賀茂別雷神と同神と伝えられているがこの神もまた、猿田彦命である。

 松尾大社に伝わる伝承では山城国・丹波国を開発した神は大山咋神となっている。大山咋命は賀茂建角身命の娘玉依姫の妻となっているが、同時に玉依姫の夫は事代主命である。このことから大山咋命=事代主命という図式が出来上がる。 しかしながら猿田彦命は北九州地方の統治をしており、出雲国譲り事件以降に北九州を離れている。猿田彦命が丹波国に来ることはできないとなると、市杵島姫が別人であるということになる。饒速日尊は三穂津姫(天道姫)と丹波国にやってきている。


天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようと したが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。 ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原(ヤブ)山に到り、 根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、 天香語山命がその泉を潅ぎ、その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、 長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。

                      「丹後風土記残欠」

天香語山命は饒速日尊と三穂津姫(天道姫)の間の子であり、天村雲命は孫である。 饒速日尊が丹波国統一した時、天道媛(三穂津姫)との間に生まれた子が天香語山命である。天香語山命はそのまま丹波国に留まり、天村雲命と高倉下命が誕生した。高倉下命は紀伊国に移り、神武天皇東遷に協力し、大和朝廷成立後、神武天皇の命により天村雲命は尾張国の開拓をした。その天村雲命の孫が孝昭天皇の皇后となっているのである。

古事記にも書いてあるように、大国主が国造りを進めている時の協力者だった少彦名命が行方しれずになって困っている時、海の向こうからやって来る神があった。その神が言うには『若し私をよく祭り崇めるならば、お前と一緒になってこの国の経営に当たってやっても良い。そうでなければ、この国が上手く治まることはむずかしいだろう』と。そこで大国主が『ではどのようにお祭りしたらいいでしょう』と問うと、『大和の国を青垣のように取り囲む山々の、その東の山の頂きに身を清めて私を祀るとよい』と答えた。それが三輪山(御諸山の事)の上にいる神であると言っている。古事記ではその神の話の後に突然須佐之男の御子である大年の名が出てくる。如何にもこの神とは大年の事ですよと云うかのように。この話を肯定的に受け止めるならば、須佐之男が大和に視察に来た時に先ず派遣したのがこの大年神だったのではなかろうか。大国主は後から来た人なのである。即ち大和の一番最初の開発者は大年なのである。三藷の山上にいると云うのだから現代の大神神社の背後にある三藷山の磐座にはこの大年が祀られているはずだ。原田常冶氏はこのいきさつを大物主=饒速日=大年と解しているのである。饒速日命の正式な諡号には「櫛玉」の字が入っており、まさに原田氏の疑念を証明するようなのである。「日本書紀」には崇神天皇期に大和神社は大物主の「奇魂」を祀った神社と書いているが、この読み方は共に「クシミタマ」である。同じ発音であることから原田常冶氏が大物主は饒速日の事ではないかとするのもうなずける。しかし出雲の「神賀詞」には大国主の言葉として『自分を大物主として三輪に祀れ』と言っているのである。

伊勢神宮内にも天照大神の荒御魂を祀った摂社があるが、これは持統天皇期の創建である。ただし、大年は伊勢神宮内に祀られている。倭姫の配慮で摂社が造られたのだが、この神の存在を無視出来なかったことにこそ、その存在の大きさと意味が秘められていることに注意せねばならない。大和の最初の開発者こそ大年だったのであろう。

事代主は父の大国主に従って大和にいた。だから大阪に在る三島の溝杭の娘、玉依姫に生ませた娘の韛五十姫(タタライスズ姫)が神武天皇の后になるという奇怪な話が「日本書紀」や「先代旧事本紀」に出てくるのだ。「先代旧事本紀」によれば饒速日の系統が皇室に入ったのは二代目の皇妃以後である。

「先代旧事本紀」

出雲の国譲りをした後、高皇霊尊は、経津主と岐神(みなとのかみ・猿田彦神)に命じてまつろわぬ者達は斬り殺し平らげて行ったのであるが、一方で帰順した者には、褒めて許した。それが大物主と事代主だったというのである。勿論記紀は大物主=大国主として扱っている。

饒速日命の死後、相続したのは息子の宇摩志痲冶である。神武天皇が東遷した時、神剣と十種の神宝(とくさのかみたから)を奉斎した後、兄の天香語山命とともに物部の兵を率いて尾張,美濃、越国を平定し、天香語山命は新潟県の弥彦神社に、宇摩志痲冶は島根県の地で物部神社に祀られている。二人とも地方に転出しているが、神武天皇はその貢献を認めて此の二人の家系から皇妃を出している。

饒速日の系列

饒速日命の子孫が多数の后妃を出している。第二代から第八代までの后妃は皆この饒速日命系から出ている。師木(磯城)の県主、尾張の連、穂積の臣、物部の子女等である。これらの氏族は新撰姓氏録にも認められた饒速日命系列の子孫であるとする