三世紀の古墳

奈良の前期古墳

大和盆地のすべての前期古墳の配されている風景
平地に桜井から天理を結ぶ線上に箸墓(前方後円墳)と西山古墳(前方後方墳)が並び、中央の丘陵に東西方向に西殿塚古墳・東殿塚古墳が並び、その中心軸に唐子・鍵遺跡がある。
唐子・鍵遺跡を中心に竜王山を眺める風景である。
唐古・鍵遺跡と纒向遺跡は、後にヤマト王権が成立する「ヤマト王国」の地として重要な遺跡である。
ムラの衰退を唐古・鍵考古学ミュージアム展示図録Vol.6は、次のように解説する。

弥生前期ー中期初頭には、大環濠はなく、小規模な西地区を囲む環濠集落で、中期初頭に西地区南端に大型建物が建てられた。

弥生中期から後半にかけて、大環濠・多条環濠が現れ、西地区北部に大型建物が建てられ、東南部に青銅器工房が置かれ、銅鐸鋳型も出土する。ムラの出入口や楼閣絵画土器もこの時期の遺物である。吉備産の大壺や器台が出土し、キビとの関係深さも推察される。周辺の清水風遺跡や羽古田遺跡などもこの頃の遺跡で、この時期のこの地域の活発な様子が伺える。弥生後期には、洪水で環濠が埋没するが、再掘削し再び多条・大環濠が形成される。建物は見つかっていないが、区画溝が検出。
京都の埴輪

京都盆地にある古墳約900基のうち埴輪を備えていたのは74基で、このうち63基が乙訓に偏在している。

「京都盆地では5世紀半ばまでは乙訓が政治・文化の中心だった証拠」と市埋蔵文化財センターの梅本康広次長は話す。
京都の南部では、大型の古墳である木津川市椿井大塚山古墳や向日市元稲荷古墳が3世紀の間に造られます が、 4世紀後半になると、100 mを測る前方後円墳は作られません

前方後方墳
徳島、

4世紀後半-5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かったと言います。まさに邪馬台国の時代。その時代に、徳島県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられるとします。出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期-終末期の県内墳丘墓と比較したと言います。そうして、

・頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある

・墳丘の表面を積石で覆っている

・徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した

など七つの共通点を確認したと言います。
箸墓古墳(はしはかこふん)
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。全長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。最新の研究では、やはり3世紀半ば~後半の築造とされています。

五塚原(いつかはら)古墳
向日市寺戸町にある前方後円墳、3世紀後半、箸墓古墳と相似形。五塚原古墳(いつかはらこふん)は、古墳時代前期の全長約91.5メートルの前方後円墳。後円部は直径54メートル、高さ9メートル前方部は幅36メートル、高さ4メートル。今回の調査で、3世紀半ば~後半の築造であることが明らかになったようです。
埴輪を備えた乙訓最古の元稲荷古墳(向日市、3世紀後半頃)

埴輪の起源と言われる特殊器台や朝顔のような形の口を持つ朝顔形埴輪、寺戸大塚古墳(同、4世紀前半頃)で見つかった国内最古の鶏形・家形埴輪、全長1メートルを超える乙訓最大の今里車塚古墳(長岡京市、5世紀前半頃)の円筒埴輪など。
大極殿古墳(向日市、5世紀後半頃)の円筒埴輪には、当時神聖視されていたシカの角や尾が鮮やかに描かれ、保存状態もよく乙訓で最も美しい埴輪の一つという。一方、物集女車塚古墳では、変形したまま焼き上げるなど粗雑な作りの埴輪が多く、時代を経て埴輪が重要視されなくなった背景が読み取れる。

また、五塚原古墳(向日市、3世紀半ば~後半頃)は、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳と同じ構造を持つことが近年判明したが、埴輪や土器が出土されていない。梅本次長は「京都盆地で埴輪が導入される以前の古墳と評価できる」と解説している。25日まで。無料。