万里長城、飲馬長城窟行

始皇帝の構築した長城が有名であるが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。

戦国時代には外敵に備えるために戦国七雄のすべての国が長城を建設していた。北方の敵に備えるためのものだけではなく、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も、特に警戒すべき国境に長城を作っていた。そのなかで、北の異民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは、秦の3ヶ国であった。始皇帝は中華を統一後に中国の中にある長城を取り壊すと、北に作られた3ヶ国の長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3~5m、高さ約2m)だったという。

明代の長城の画像


飲馬長城窟行

陳淋(?-217)字は孔璋。建安七子の1人。はじめ大将軍何進に仕え、後に袁紹に仕えます。

官渡の戦い(200年)では袁紹が全国に打倒曹操を呼びかけた檄文を代筆します。

袁紹が負けた後、曹操の前に引っ立てられた陳淋は、そこで曹操に命じられて問題の檄文を読みます。

曹操は陳淋のすぐれた文章力を誉め、以後自分の配下に置いたという。

秦と長城

万里の長城の苦役を痛む詩
離れ離れになった夫婦の悲惨さと労役の過酷さが伝わってきます

北方の極寒の地で望まない仕事をやらされ、生き抜いていけないという夫を妻が遠くの地からその身を案じてやまない。

当時の長城は三千里とある。

飲馬長城窟
水寒傷馬骨
往謂長城吏
慎莫稽留太原卒
官作自有程
挙築諧汝声
男児寧当格闘死
何能怫鬱築長城
長城何連連
連連三千里
辺城多健少
内舎多寡婦

現代語訳

馬に長城の泉の水を飲ませると、その水の寒さに馬の骨も凍えるようだ。

工事人夫は長城の工事監督の役人のところに行ってお願いする。
「私たち太原から来た者を期日どおり戻してください」

役人「お上には日程というものがあるのだ。声を揃えて築城の仕事に精を出せ!」

人夫「男児たるもの、戦で死ぬべきだ。どうしてウツウツとして長城など築かないといけないのか」

長城はどこまでもはてしなく続き、三千里の長きに及んでいる。

この辺境の地に駆り出される若者は多く、郷里の留守宅にはやもめが多い。