祇園祭り、八坂神社

祗園社と祇園祭
元慶元年(877)疫病が流行したので占ったところ、東南の神の祟りとされた。そのため各社に祈り奉幣が行われたが、一向に治まらなかった。さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。これが祇園社の発展の契機となり、僅か2年後の元慶3年(879)には陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進され、また同地の材木商人360人は神人に補せられ、経済的基盤が早くも確立した。
御霊会
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年の御霊会が祇園祭の起源とされている。
祇園祭の背景
御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域で、建都による人口の集中、上下水道の不備などにより、いろいろな疫病が大流行したこと。その原因が、先に大水害などにより挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。
さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。

日程 2016年7月

7/1(火) 吉符入(きっぷいり)※祭りの無事を祈願する神事
7/2(水) くじ取式(くじとりしき)※山鉾の巡行順序を決定
7/5(土) 長刀鉾(なぎなたほこ)※稚児舞披露
7/10 (木) お迎提灯(おむかえちょうちん)※神輿を迎える神事
神輿洗式(みこしあらいしき)※中御座神輿を清め、飾り付ける神事
7/14(月)~16 (水)
7/21(月・祝)~23(水) 屏風祭(びょうぶまつり)※山鉾町の旧家が秘蔵の屏風や懸装品を一般公開する催し
7/14(月)~16(水) 前祭 宵山(さきまつり よいやま)※沢山の露店がにぎわういわば山鉾巡行の前夜祭
7/17(木) 前祭 山鉾巡行(さきまつり やまほこじゅんこう) ※23基の山鉾が祇園囃子を奏でながら街を巡行
7/21(月・祝)~23(水) 後祭 宵山(あとまつり よいやま) ※かつての祇園祭の風情が残る、お囃子だけが聞こえる宵山。
7/24(木) 後祭 山鉾巡行(あとまつり やまほこじゅんこう) ※復興した大船鉾を含む全10基の山鉾が巡行
7/31(木) 疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしさい) ※祭りの無事を報告し感謝する神事

素戔嗚尊の一族と神仏習合
床の間に架かる掛け軸
中央に「神速素戔鳴尊」、右に「櫛稲田媛命」、左に「五男三女八柱命」と揮毫されていた。
八坂神社常盤殿や鉾町会所で見た、神事での八坂神社の掛け軸には、「牛頭天王」と揮毫されている
八坂神社

御本殿(十三座)
中御座
素戔嗚尊(すさのをのみこと)
東御座
櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
御同座
神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)・佐美良比売命(さみらひめのみこと)
西御座
八柱御子神(やはしらのみこがみ)
八島篠見神(やしまじぬみのかみ)
五十猛神(いたけるのかみ)
大屋比売神(おおやひめのかみ)
抓津比売神(つまつひめのかみ)
大年神(おおとしのかみ)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大屋毘古神(おおやびこのかみ)
須勢理毘売命(すせりびめのみこと)
傍御座
稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)

当社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。
創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。

お稚児さんは、八坂神社から長刀鉾町に養子に出され、生神(いきがみ)様となってお祭りの安全を祈願する役割があります。お稚児さんは、まっすぐに前髪を揃え、襟足は三角形にそり上げていき、独特のお稚児さんカットに。この三角型の襟足は「うろこ」と呼ばれ、首を細く長く見せるとともに、魔除けの意味も持っているようです。