牛頭天王と兵主神、蚩尤と武器作り、天日槍

『史記』の封禅書にあった。その中で兵主神は、山東八神―天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主―の一つとしてあげられ、また、「兵主とは蚩尤(しゆう)である」と記されているのである。
蚩尤とは、中国の神話に見える英雄神であり、黄帝とタク鹿(たくろく)(「タク」はさんずいに「豕」)の野に戦って戦死したとされる。貝塚茂樹氏は、蚩尤(しゆう)について、「頭の真中に角が生えている半獣半人の怪物で、砂と石、鉄石を食らう」と述べている。まさにこの神の姿は、「牛頭」天王である。(図参照)また、中国の古代の系譜集である『世本』の中には「蚩尤が兵つまり武器を創造した」とあり、その性格も素戔鳴尊と共通している。
さらに貝塚氏は「風を支配してきた蚩尤は、またふいごの技術によって青銅器の製造を行った部族の代表であり、この技術の発明者であり、古代において神秘的なふいごの用法、青銅器の秘密を知っている巫師の先祖と仰がれる人物であった」と述べている。
天日楯一族が祀っている兵主神が、巫師の先祖と仰がれる蚩尤であったことは、この一族の性格を決定づけている。さらには、蚩尤を通じて、天日楯一族と牛頭天王つまり素戔鳴尊が、完全に繋がった。
天日楯一族と牛頭天王の関連を裏付ける話が、先に上げた、『古事記』の中にある。天日楯が、男に「牛を殺して食うのだろう」といい、その男を捕えて牢に入れようとした、という箇所である。これだけでは、なぜ天日楯が怒ったのかが説明できず唐突な感じがするが、天日楯を兵主神つまり牛頭天王を祭る一族であるとすると、この謎が解けるのである。
また、天日楯の六世孫である神功皇后は、新羅征伐の際に、牛頭天王・素戔鳴尊を祭る、広峯神社に参拝している。このことも、天日楯族と牛頭天王の関係を示していると考えてもいいだろう。

兵主神(蚩尤)=素戔鳴尊を信仰し、道教的祭祀をもつ天日楯族が、新羅から播磨国に渡来し、広峯山で素戔鳴尊である牛頭天王を祀った。彼らの子孫は占術、呪術などを継承して、播磨に有能な陰陽師集団を形成していった。
なぜ、他の地域の天日楯族の末裔が、陰陽師として活躍することがなかったかについての理由は、最初の渡来地が播磨であり、日本の文化と同化する以前にこの地域に根付いたこと、また、牛頭天王を祭った広峯神社が、播磨にあったことが推測される。

成山頭風景区は、山東半島の栄成・成山山脈の最東端にあることからこの名が付きました。山東省威海市に属し、標高約200m、大陸が海に伸びた東端地点であるため、「中国の喜望峰」と呼ばれ、中国で最も早い海の日の出を見に、多くの観光客がやってきます。

三方を海に囲まれ、岩壁が切り立ち、広げた龍の爪が海に伸びているような奇岩怪石の群れが壮観な成山頭は、2005年、中国国家地理雑誌社が主宰する活動において、「中国で最も美しい八大海岸」の第三位に選ばれました。古来より、成山頭は日神の住む地と考えられてきました。史記には、姜太公が周の武王を助けて天下を定めた後、ここに来て日神を拝み、日主祠をつくった話、秦の始皇帝が紀元前219年と210年に来臨し、ここを「天尽頭(=天の果て)」と呼んだ話、漢の武帝が東海を巡視し、日の出を拝んで、成山日主祠に参り、成山観を建てた話が記載されているほか、神話や伝説も多く残され、この地に神秘的な色合いを添えています。

成山頭を訪れたら、波が打ち寄せる、広々とした海の風景に、険しい崖の壮大な景色を楽しみたい。