湯立神楽、湯立神事、垂水神社、武貝児王

武貝児王、武養蚕王
武殻王は、鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)の讃留霊王神社に讃留王大明神として祀られており、神社の裏手にある前方後円墳は武殻王を葬ったものと云われている。
そのすぐ近くには、法勲寺と呼ばれた白鳳寺院の廃寺跡もある。讃岐国阿野郡の大領「綾(あや)氏」の祖先であり、神社や古墳はその祖先を祀ったものであり、白鳳寺院はその氏寺である。讃岐の綾織をになった氏族でもあった。

    日本武尊と吉備穴戸武媛(吉備武彦の娘)とある
    『日本書紀』吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える
    建貝児王は、三河の宮道天神社(愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路)にも祀られている。
    武卵王(たけかいごのみこ、建貝児王) – 讃岐綾君の祖(記紀)、登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(記)。


湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)
日本の伝統的な神楽の形式のひとつ。
釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う。
狭義には“神楽”の名が示すとおり、面や装束をつけた舞い手が釜湯を用いて奉納の舞いを踊る神事のみを指すが、広義には宮司や神職による釜湯を使った単純な儀式の形式をした湯立て神事も含んでいる。

同じ湯立神楽でも神社によってかなり違いがあり、玉串に見立てた枝葉を浸して湯を撒くもの(神奈川県藤沢市白旗神社など)や、素手で煮え湯を払うようにして撒くもの(長野県飯田市正八幡神社(遠山郷)など)、全国的にも珍しいご神体を湯につけるもの(香川県丸亀市垂水神社など)など様々である。なかには釜湯の中に米やお神酒などを入れるものもある(京都府京都市城南宮など)。また、海辺の神社では釜湯に海水を使うところもある(千葉県横芝光町四社神社など)。

いずれも撒かれた湯(その飛沫)を浴びると無病息災になるとされる。また、神社によっては釜湯を飲むと無病息災になるとされているところもあり、瓶などに詰めて持ち帰ることのできるところもある(長野県天龍村池大神社など)。

垂水神社
垂水神社湯立神楽が有名。
丸亀市垂水町1275-1(垂水村字行時)
祭神 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命
高崖神(一に曰く  闇崖神) 罔象女命(一に曰く闇罔象命)
合祀祭神
素戔嗚尊、少彦名命、高皇産霊神、神皇産霊神、水波女命、闇崖神、猿田彦神、大己貴命、天御中主命、太田命
この神事は、深夜に始まり、明け方にかけて、5柱(地・水・火・塩・かまど)と64柱の神を、湯に入れなぐさめ、その後氏子がその残り火の上を歩く神事。全国的にもまれな神楽境内も広く社叢も立派な神社、境内内に時雨松が祀られている。
香川県神社誌によると、
景行天皇57年(紀元787)6月20日武貝兒王の創立する所と傳ふ。
一説に阿刀大足の勧請とも云う。往古は太留水神社、又垂水社と称へられ、降つて五社大明神と奉称せられたり。
社伝によれば、讃岐国は東西二十里許にて南北五六里より廣からず、阿波、讃岐境に高山ありて川の流れ早く、まれに大水あれど1日のうちに流れつくす。
川々乾きて流水少なく旱損のみ多く、高き山(大川)深き淵(とうとうが淵)に雨を祈れり。
景行天皇二十三年武貝兒王国造となりて下り給ひ、大魚を亡して那珂郡三宅の里(郡家)に政を行ひ旱害に心を摧き給ひけるに、当村に大なる松林ありて中に3本の大木枝葉茂りて枝々の葉より水を滴すを見給ひ、ここに闇罔象闇尾神を坐しまさむとて、社を建て、三女神及び闇罔象闇神を合せ祭り、たる水の社と名づけ祈り給ふ。これより五風十雨豊年打續けり。
その後代々の帝は旱の年に、大和山城津の国の水徳の神を祈雨の社とせしが、讃岐たる水の社の水徳を聞召し給へど海を隔てたるの故を以て、津の国須磨の西まで勅使をたてられ、そこより遙にたる水の社を祈りけり。後その所へ社を建て摂津国多留水村垂水神社とて八十五座のうちとなれり。
稱徳天皇の御代群村の名を二字と定められ、垂水村と名づけたり。
その後国司交代となりて垂水社も衰へ、松の葉よりしたたる水もなくなり、又旱つづきて人民の悲しみが、弘法大師此の国に歸りし時、人々なげき頼みしかば、大師垂水社に祈りて又元の如くなれり。ここに国中の民大いに悦び安楽寺、萬福寺、常徳寺を建て、垂水明神及び三ヶ寺共繁昌せる旨を記せり。

北摂津の古社、垂水神社、千里丘陵の南端
近畿の水瓶(みずがめ)といわれる琵琶湖。 そこからの唯一の流れである淀川水系は、古代以来、都をはじめ、その沿岸に住む多くの人々の生活を支え、各時代の文化を育んできました。 大阪湾にいたる平野部は、葦原(あしはら)の生い茂る湿地帯であり、小高いところは無数の島々を形成していて、人々は、そこを「八十嶋(やそしま)」とよんだのです。
今から1300年以上前、大化の改新のときに都が奈良から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや・前期難波宮)に遷されました。 当神社は、その真北に鎮座しています。 そして神社の起源もこの時期に重なっています。
人の一生などはるかにおよばない長い年月、氏子をはじめ多くの崇敬者の努力により、当社の境内地は、緑豊かで清浄な神域を保ってきました。
周囲がすっかり開発されてもなお枯れることなくしたたり落ちる「垂水」。 それこそがご神威であり奇跡です。大都会のすぐそばにあることを忘れさせ、そして人が生きていく上で大切なものは何かを思い出させてくれる場所です。
神戸市垂水区の所属する場所は、旧国名では播磨となります。
摂津は畿内で、播磨は山陽道です。
延喜式でも、当社は摂津の垂水神社とあり、神戸市の垂水区にある神社は播磨の海神社となっています。
垂水の水が命を長らえ幸せになるという言い伝えがすでにあったことがうかがえると同時に、万葉集の時代には、垂水を摂津の地名と考えていたことがわかります。
孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、この地の領主である阿利真公ありまのきみ(ご祭神である豊城入彦命とよきいりひこのみことの子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って垂水の水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』の右京皇別の項に記載されております。(写真は垂水の滝)

「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)

これを意訳しますと、次のようになります。
「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」

桓武天皇の皇女、布勢内親王の領地として寄進された当地は、やがて垂水庄、垂水牧として、東寺や春日大社、あるいは摂関家の有力な荘園となっていきます。そのように領主は変わっても、この地に暮らす人々からの信仰は変わらず、15世紀初頭ごろの文書には当社の「燈油」や「神楽(かぐら)のための神領田の存在が記録され、これは戦国時代まで続いていたと文書に記されています。

播磨明石の垂水神社、現在は海神社(綿津見神社)
海神社(わたつみじんじゃ)は兵庫県神戸市垂水区宮本町に鎮座する神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。 
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、その縁でこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが始まりという。『日本書紀』に記される広田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様であるが、『日本書紀』の当該箇所に海神社に関する記述はない。文献に現れる最も古い記述は、大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』にある播磨明石垂水神に神封戸10戸を寄進するという記述である。当所は海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受けた。『延喜式神名帳』では「播磨国明石郡 海神社三座」と記載され、名神大社に列している。
中世以降、戦乱等のために社勢が衰えるが、天正11年(1587年)に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝するのを通例としていた。
江戸時代の初頭より「日向大明神」と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に国幣中社に列格した際に「海神社」に復称した。明治30年(1897年)に官幣中社に昇格した。

「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき明治4年(1871年)に採用したものである。『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。「タルミ」の読みは、祭神の本来の名称が垂水神であったことによるものである。「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによ