井堤寺、井出の玉川、井出の左大臣
奈良時代の聖武天皇に仕えて第一の権臣だった左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)は、聖武天皇を補佐して恭仁京遷都・大仏建立などを取り仕切った
井手地域を本拠としており井出の左大臣と呼ばれていたことはよく知られている。その諸兄が、氏寺の井堤寺(いでじ)をつくり、寺の庭だけでなく玉川の堤にも山吹を植えた。そのため、「井手の玉川」は山吹の名所となったとされている。
井出の玉川とは、藤原俊成が新古今集で詠んだ「駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井手の玉川」の玉川であり、現在の京都府綴喜郡井手町を東から西に流れて木津川に注ぐ小川である。この井手町を流れる玉川は、歌枕に使われる六玉川(むたがわ)の一つとして知られ、古い時代から山吹の花の名所だった。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が生まれ育った。奈良麻呂は養老5年(721)に生を受けた。父は橘諸兄(たちばなのもろえ)、母は藤原不比等(ふひと)の娘・多比能(たびの)である。藤原仲麻呂(なかまろ)は慶雲3年(706)の生まれとされているから、この宿命のライバルより15歳若いことになる。
橘諸兄公由緒
公は天武13年(684)生。父・美努王、母・県犬養三千代、敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄である。本の名は葛城王、のち母の氏を賜って橘諸兄、井手に住して井手左大臣と号す。天平10年(738)より右大臣、同15年(743)左大臣となり、天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸・恭仁京遷都・大仏建立・開眼供養などがあった。また、この血には別業のほか、井堤寺を建立。清涼な玉川を愛し山吹を植え続けたので、多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。聖武上皇崩御翌年の天平勝宝9年(757)正月6日薨す。齢74。
現地の石碑より
神亀6年(729年)の長屋王の変により、長屋王は妻の吉備内親王とその所生の王らとともに自殺したが、子の安宿王は母が藤原不比等の娘(藤原長娥子)であったことから同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れた。
天平9年(737年)長屋王の変の黒幕であった藤原四兄弟が相次いで疫病により没すると、安宿王は、同年9月に三世王の蔭位を受けて従五位下に初叙されるが、同年10月にも続けて昇叙され一挙に従四位下に叙せられる。この時同時に黄文王も従五位下に直叙されている。翌天平10年(738年)玄蕃頭、天平18年(746年)治部卿を歴任する一方で、天平12年(740年)従四位上に昇叙される。
天平9年(737年)
天然痘の流行によって右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで朝廷では急遽、鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍朝廷の中心的存在となる。
これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレーンとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。
天平12年(740年)
8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り、広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。
天平15年(743年)
従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。同年孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。天平勝宝7歳(755年)聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、翌天平勝宝8歳(756年)辞職を申し出て引退する。
橘奈良麻呂の乱
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子・奈良麻呂であった。奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して黄文王らを擁立するなどの反乱を企てるが、上道斐太都らの密告により露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂・道祖王・大伴古麻呂らは拷問で獄死、事件に関与したとして仲麻呂の兄である右大臣・豊成も左遷された。これによって仲麻呂は太政官の首席となり、名実ともに最高権力者となった。
天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱に際し、黄文王は橘奈良麻呂により新帝候補の一人に擬せられ、奈良麻呂の意を受けて安宿王を欺して謀議に参加させるなど、謀反に積極的に加担する。しかし、密告により謀反の企ては露見して、7月4日に奈良麻呂や道祖王らと共に捕らえられ、黄文王は久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)あるいは多夫礼(たぶれ=誑かす者)と改名させられた後、杖で何度も打たれる拷問を受けて獄死した。
743年(天平15年)、聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。
749年(天平21年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。
755年(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756年(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。
同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。
同年5月2日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。翌757年(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。
仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂である。仲麻呂を除こうと画策する。同年6月28日(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月2日(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。
しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前守小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月3日(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。
ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。
過酷な処分
東人の供述により、7月4日(7月28日)に奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。また首謀者である奈良麻呂の名が『続日本紀』に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)することで不問とされた。反乱計画に直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。
また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。また、中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。